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8.平穏には程遠い

 自室へと戻ってから暫く経ったというのに、聖花は机に向かったまま一向に眠ろうとはしなかった。


 目の前には図書室から持ち帰った本が置かれているものの内容を読み返す気にはなれない。今日だけで考えなければならないことがあまりにも増えすぎてしまい、一度頭の中を整理しなければこのまま何を考えても纏まらない気がしたのだ。



「……一回、整理しよう」


 誰へ聞かせるでもなく呟いてから聖花は椅子の背に身体を預けた。


 まず、ルードルフ。これまで彼とは隣の席ということもあって何度か言葉を交わしてきたが、少なくとも聖花の目には、物腰が柔らかく誰に対しても丁寧に接する人物として映っていた。もちろん王族なのだから多少の警戒はしていたものの、最初から何を考えているのか分からなかったアーノルドと比べれば随分と話しやすい相手だと思っていたのも事実である。


 だが今となっては、その認識を改めなければならないだろう。

 そもそもパーティーでアーノルドと一緒にいるところを見られた時点で警戒するべきだったのだ。入学式で再会した際には何も尋ねられず、その後も一切触れてこなかったため、もしかすると自分の顔など覚えていないのではないかと考えていたが実際にはその正反対だった。

 覚えていたどころか、裏で調べていた。しかも単に現在の身分を確認した程度ではなく、ゴルダール家に引き取られる以前の記録まで遡ろうとしていたらしく、どこまで調べているのか分かったものではない。



(アーノルドより腹黒いんじゃ。あの人……)


 聖花は無意識に眉間へと皺を寄せた。


 アーノルドも十分に信用ならない相手ではある。牢から助け出した理由すら未だにはっきり説明していないし、何かを企んでいることなど最初から分かりきっていた。むしろ話していても皮肉ばかりで、こちらを利用しようとしていることを隠す気すらあるのか怪しい。

 だが少なくとも怪しい人間だと最初から分かっているのだから考えようによっては分かりやすいとも言える。


 それに比べてルードルフは、今日まで何食わぬ顔で隣へと座り、普段と何ら変わらない様子で話し掛けてきていた。その裏で自分の素性を調べ、何も出てこないことに疑問を抱いていたなど、図書室で本人の口から聞かされるまで少しも気付かなかった。



(……いや、やっぱりこっちの方が怖い)


 心の中で結論付けたところで、今度はもう一人の顔が浮かんだ――リリスである。頭の中で彼の声が再生される。



『えぇ、酷いなぁ。部下に向かって』


(……部下、か)


 あの時はルードルフに追及されている最中だったため深く考える余裕もなかったが、改めて思い返してみれば気になる発言ではある。


 もっとも一口に部下と言っても、その意味するところまでは分からない。第一王子であるルードルフと侯爵令息のリリスならば、何らかの役目を通じて上下関係が生じていたとしても不思議ではないし、そもそもリリスの性格を考えれば単なる軽口だった可能性だってある。

 ただ、二人が自分の知らないところでも関わりを持っていることだけは確かなのだろう。



(そういえば、随分気安く話してたような……)


 以前から同じ教室で二人が言葉を交わす姿を目にすることはあったものの、特に気にしたことはなかった。だが昨日のやり取りを見る限り、単に同じ学園へ通う王子と侯爵令息というだけの間柄でもなさそうだった。


 とはいえ、現時点で分かるのはその程度である。リリスがルードルフの下で何をしているのかも、どの程度深く関わっているのかも分からない以上、憶測だけで考えても仕方がない。



(まあ、覚えておくくらいでいいか)


 ただでさえ考えなければならないことは山ほどある。聖花はひとまずそれだけ頭の片隅へ留めて、リリスについての思考を打ち切った。



◆



 翌朝。委員会を終え、いつもと変わらない時間に教室へ入った聖花は自分の席へと向かおうとして――僅かに足を止めた。


 そこには、昨日までと何一つ変わらないルードルフがいた。既に席へ着いている彼の周囲には数人の令嬢が集まり、朝から少しでも気を引こうと競うように言葉を掛けている。今はまだロザリアの姿が見当たらないこともあってか、その人数はいつもより幾分多いようだった。

 その中心にいるルードルフは誰に対しても分け隔てなく穏やかな笑みを浮かべ、一人ひとりへ丁寧に言葉を返している。昨日図書室でこちらの経歴を追及してきた人物とは思えないほど、いつもどおりの姿だった。


 聖花はそんな人垣の横を通り抜け、自分の席へと向かうと途端に何人かの令嬢から向けられる視線が僅かに鋭くなった。



(……今日もか)


 隣の席になって以来、すっかり慣れてしまった視線だった。別に好き好んで第一王子の隣へ座っているわけではないのだが、そんな事情が彼女たちにとって何の慰めにもならないことくらいはとうに理解している。昨日までならば、どうして自分がこんな目に遭わなければならないのかと思っていたが、今朝に限っては彼女たちに席を譲れるものなら譲ってしまいたいくらいだった。


 いつものように向けられる敵意を受け流しながら席へ近付くと、それまで令嬢たちの話を聞いていたルードルフが聖花の存在に気付き、自然とこちらへと顔を向けた。



「おはようございます、セイカ嬢」


「……おはようございます、殿下」


 いつもと変わらない挨拶を返しながら、聖花はそのまま隣の席に腰を下ろした。


 周囲から向けられる敵意の籠もった視線も今となってはすっかり見慣れたものだった。余計な注目を集めるつもりもないため聖花はそれ以上ルードルフと言葉を交わすことなく、授業の準備を始める。


 ただし、昨日までと全く同じというわけではなかった。

 隣に座る人物への認識だけは、明確に変わっている。昨日の図書室であれほど踏み込んだことを聞いてきたというのにルードルフは何事もなかったかのように周囲の令嬢たちに応じていた。表情にも態度にも変化はなく、時折向けられる笑みさえ普段と変わらない。



(……よく普通にしていられるな)


 昨夜考えたことは、やはり間違っていなかったのかもしれない。アーノルドも何を考えているのか分からない人物ではあるが少なくとも最初から怪しいことだけは分かっていた。それに比べれば、昨日まで何食わぬ顔で隣に座りながら裏では自分について調べていたルードルフの方がある意味では余程厄介である。


 聖花は横目で一度だけその姿を確認すると、すぐに視線を手元へと戻した。



(……今まで以上に気を付けよう)


 昨日までならば気にも留めなかった横顔が、今では何か企んでいるようにしか見えない。とはいえ、いつまでも見ていれば逆に怪しまれるため聖花は慌てて正面へと向き直る。

 

 やがてフェルナンの授業が始まったが相変わらず聖花が指名されることはなく、こちらに視線が向けられることもなかった。昨日までならばその理由を考えていただろうが既に避けられていると分かっている以上、今さら同じことを考えても仕方がない。

 聖花は淡々と板書を書き写しながら授業を受け続けていた。


 午前の授業を終えて休み時間に入ると、程なくしてリリスが自分の席を離れていつものように聖花のところへとやって来た。



「セイカ」


「……何ですか、リリス様」


「何って、暇だったから」


「でしたらご自分の席で大人しくしていてください」


「酷くない?」


「毎回こちらに来る方が悪いのでは?」


「セイカが相手してくれるから来てるんだけど」


 そう言われても嬉しくはない。案の定少し離れたところから何人かの令嬢がこちらを振り返っていて聖花へと鋭い視線を向けているし、中には何事かを囁き合っている者までいた。

 ただでさえ第一王子の隣の席というだけで余計な敵意を向けられているというのに、これ以上目立つような発言はいい加減やめてほしい。



「……そういう言い方、やめてもらえませんか?」


 普段なら適当に受け流していたところだが、昨日の一件からどうにも気が休まらないせいか思っていたよりも刺のある言葉が口から出てしまった。



「何で?」


「何でもです」


「別に変なこと言ってないけど」


 リリスは何が問題なのか本当に分かっていないらしく不思議そうに首を傾げていて、その様子に聖花は溜息を吐きそうになったが、どうにか堪えた。下手に反応すれば、それこそ周囲の注目を集めかねないからだ。



「セイカ、今日ちょっと機嫌悪くない?」


「誰のせいだと思っているんですか」


「僕?」


「今のはリリス様のせいです」


「今のは、ってことは他にも何かあったんだ?」


 余計なところに食いつかれ、聖花は一瞬黙り込んだ。



「別に何もありません」


「怪しいなぁ」


「何でもありませんから」


 これ以上話を広げるつもりはないと示すように教科書へ視線を落としたものの、リリスはまだ何か言いたそうに聖花の顔を覗き込んでいる。

 そんな彼を見ているうちに、ふと昨日の図書室でのやり取りが蘇った。


『えぇ、酷いなぁ。部下に向かって』


 昨日はルードルフへの対応でそれどころではなかったが、改めて考えてみれば少し気になる。


 一口に部下といっても、どのような意味でそう名乗ったのかまでは分からない。第一王子と侯爵令息なのだから何らかの役目で関わっていても不思議ではないし、リリスの性格を考えれば単なる軽口という可能性も捨てきれなかった。

 ただ、昨日の二人のやり取りを見る限り少なくとも顔見知りという程度の関係ではなさそうだ。



「……何?」


 考えながら見ていたせいか、リリスと目が合った。



「いえ」


「また僕のこと見てたよね?」


「気のせいです」


「絶対見てた」


「見てません」


「じゃあ何考えてたの?」


「どうして教えなければならないんですか」


「気になるから?」


「知りません」


 いつもの調子で返しながら、聖花はそれ以上考えるのをやめた。リリスがルードルフとどの程度深く関わっているのかは分からないし、今ここで尋ねたところで素直に答えるとも思えない。昨日のように余計なことまで考え始めれば、また頭を悩ませるだけだろう。



「セイカって、たまに急に考え込むよね」


「誰のせいだと思っているんですか」


「今度は僕じゃないと思うけど」


「少なくとも一部はリリス様のせいです」


「一部なんだ」


 何故か嬉しそうに笑うリリスを見て、聖花は眉間へと皺を寄せた。昨日から考えなければならないことが増えてばかりだというのに、目の前の本人だけは相変わらず呑気なものである。


 やがて休み時間の終わりを告げる鐘が鳴ると、リリスは「じゃあまた後で」と言い残して自分の席へと戻っていった。背中を見送りながら、聖花は机の上に次の授業で使う教本を取り出す。

 ルードルフのことも、リリスのことも、未だ分からないことは多い。フェルナンについても状況が変わったわけではないし、カナデとのこともある。だからといって、全てを一度にどうにかできるわけでもないのだ。



(……一つずつ、かな)


 まずは目の前のことから片付けていくしかない。そう自分へと言い聞かせながら、聖花は開いた教本へと視線を落とした。

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