14.公爵令嬢として(ロザリア)
ロザリア・モネストは公爵家の長女として生を受けた。
一人だけ兄がいたものの、かなり歳が離れていたためか幼い頃から兄妹らしい時間を過ごした記憶は殆どない。ロザリアが物心ついた頃には、兄は既に次期当主として父である公爵の仕事を手伝うようになっていて、顔を合わせる機会さえそう多くはなかった。
両親との関係も兄と大して変わらない。
公爵令嬢として恥ずかしくないだけの教養を身につけられるよう幼い頃から優秀な家庭教師を何人も付けてもらっていたし、衣食住で不自由したこともない。望めば大抵の物は与えられたが、父が自ら娘に目を向けることは殆どなく、政略によって彼の妻となった母ローズもまた、子供たちに積極的に関わろうとはしなかった。
けれど、幼いロザリアは寂しいとは思っていなかった。生まれた時からそうだったのだから、それが貴族の家族というものなのだと思っていたのである。
そんなロザリアに変化が訪れたのは、社交界へ顔を出すようになってからだった。ある集まりで同年代の子供たちだけが集められる機会があり、そこで知り合ったのが子爵家の次女であるマイル・モネでだったのだ。
モネストとモネ――家名が似ている。始まりは、ただそれだけの理由だった。
けれど、何気なく交わした会話が思いのほか楽しく、それから顔を合わせる度に言葉を交わすようになった。やがてマイル以外にも友人と呼べる者が増え、屋敷へと戻ってからも文を交わし、時には親しい者だけを招いた小さな集まりを開くようにもなった。
それまで一人で過ごすことを何とも思っていなかったロザリアは、誰かと一緒にいる楽しさを知ったことで初めて一人の時間を寂しいと感じるようになり、同時に笑うことも増えていった。
そんな娘の変化を見て父が何を思ったのかは分からないが、ある日公爵夫妻が領内の孤児院を視察する際、ロザリアも同行するよう告げられた。
それまでは両親だけで赴いていた場所に、初めて自分も連れていってもらえる。両親と一緒に過ごせる時間が増えることもそうだが、孤児院には自分と同じくらいの子供たちが大勢いると聞いていて、もしかしたら新しい友人ができるかもしれない。そんな期待を胸に当日を迎えたのだ。
孤児院へと到着すると、公爵夫妻は院長や職員たちとの話し合いに入り、ロザリアは子供たちのいる場所へと案内された。
そこで何をするべきなのか、父から細かな指示を受けていたわけではない。だからロザリアは、社交界で同年代の子供たちにそうしたように自分から声を掛けたのだ。
最初こそ相手も公爵令嬢を前に緊張していたものの、一緒に遊び始めてしまえば身分など幼い子供たちには大した意味を持たなかった。ロザリアも孤児院で流行っている遊びを教えてもらい、何時しか服が汚れることすら気にせずに、子供たちと一緒になって外を駆け回っていた。
転んで泥をつければ笑われ、ロザリアも笑い返した。
楽しかった――ただ、それだけだった。やがて院長との話を終えた公爵夫妻が、ロザリアの様子を見に外へと出て来るまでは。
父は、足を止めた。そしてロザリアが気づいた時には、先ほどまでとはまるで違う冷たい目が自分へと向けられていたのだ。
父が娘を孤児院に連れてきたのは、子供たちと同じように泥だらけになって遊ばせるためではない。そのことをロザリアが知ったのは後になってからだった。
父が期待していたのは、公爵令嬢として領民の前に立ち、自らが学んできた知識や作法を子供たちへ教えることだったのだ。
恵まれた教育を受けてきた者として模範を示し、将来この領地を支える民となる子供たちを導く。それこそが、公爵令嬢である娘のするべきことだと考えていたらしい。
だというのに、実際のロザリアは孤児たちと同じ場所に立ち、同じ遊びに興じ、服を泥だらけにして笑っていた。
職員もそれを咎めなかった。それどころか、楽しそうに遊ぶロザリアたちを微笑ましげに眺めていたのである。
父にとっては、それすらも許し難いことだった。
その日、ロザリアは初めて父に叱られた。これまで教養を与えられることはあっても、父から直接何かを言われたことなど殆どなかった。それなのに、その時ばかりは違ったのだ。
公爵令嬢としてなっていない。そのような振る舞いをして恥ずかしくないのか。お前がそこまで出来損ないだとは思わなかった。
一つ一つの言葉が、幼いロザリアの中に深く残った。
けれど本当に彼女を変えたのは父の叱責だけではなく、後日あの孤児院が取り潰されたことを知ったことだった。
詳しい事情など当時のロザリアには分からない。ただ、自分が公爵令嬢として相応しくない振る舞いをし、それを止めなかった職員たちを父が問題視し、その後孤児院そのものがなくなっただけだった。
だが幼いロザリアの中では、それだけで十分だった。
―――自分のせいだ。
自分が子供たちと一緒になって遊ばなければ。公爵令嬢として正しい振る舞いをしていれば。そもそも自分が孤児院に行くことを拒否していれば、あの場所はなくならなかったのではないか。
あの日、一緒に笑っていた子供たちはどうなったのだろう。それを確かめる勇気すらロザリアにはなかった。
そして、幼い彼女は一つの答えへと辿り着いたのだ。
正しくなければならないのだと。公爵令嬢である自分が立場に相応しい振る舞いをしなければまた誰かが不幸になり、父の言う通りにできない自分は出来損ないなのだと。
それならば、二度と間違えなければいい。
それからのロザリアは以前のように笑わなくなった。他者から軽く見られるような振る舞いをしては、公爵令嬢として相応しくないと思ったからだ。
自分より身分の低い者とは相応の距離を置き、その立場に見合わない振る舞いをする者がいれば、正すようにもなった。正さずに放置した先に何が起こるのかを、ロザリアは既に知っているつもりだったのだ。
自分だけではなく、誰もが自らの立場に相応しくあるべきであり、貴族には貴族としての、平民には平民としての振る舞いがある。それを外れようとする者がいれば、誰かが正さなければならない。
いつしかそれが、ロザリアにとって疑う必要すらない当然のことになっていた。
そんな彼女にとって、王太子であるルードルフ・フィン・アルバは、まさしく理想と言っていい存在だった。
王族としての品位を損なうことなく、立ち居振る舞いにも隙がない。それでいて身分によって露骨に態度を変えることもなく、誰に対しても柔らかな物腰で接する。それはロザリアにはないものであり、だからこそ強く惹かれたのだ。
おまけに自分よりも頭が良く、学園の入学試験では首位を取るほど優秀だった。
―――この方こそ自分に相応しい。
そんな思いが日に日に強くなっていた矢先、ロザリアの前に現れたのがセイカ・ゴルダールだった。元平民でありながら、ゴルダール伯爵家の養女になった少女の噂を聞いた時からロザリアは彼女を気に掛けていた。
以前、あるパーティーで姿を見つけた際には自ら声を掛けに行ったこともある。
今は伯爵令嬢であろうとも、生まれまで変わったわけではない。ならば貴族社会で余計な問題を起こす前に、身分相応の立ち振る舞いをするよう忠告しておいた方がいいと考えたからだ。
ところが、セイカは公爵令嬢であるロザリアを前にしても怯まなかった。自らの意見を返され、内容も筋が通っていたからかロザリアは何も言い返せなかった。
その時に抱いた印象など、元平民のくせに随分と生意気な振る舞いをする少女――その程度だった筈だが、学園に入学してからというもの、妙に彼女が目につくようになった。
侯爵家の子息であるリリスとは身分差を気にする様子もなく親しく接しているし、男爵令嬢に絡まれた際には、自ら事態を収めるでもなく偶然にもルードルフに庇われていたのだ。
そんなある日、委員会を終えて一人で帰ろうとしていたロザリアに、思いがけない人物が声を掛けてきた。
「ロザリア様」
振り返った先にいたのは、マリアンナ・ヴェルディーレだった。
ロザリアは以前から、彼女のことも伯爵令嬢に相応しくない少女だと思っていた。
箱入り令嬢として育てられ、何時まで経っても親元から離れられない。以前パーティーで顔を合わせた時も怯えて震えているばかりだったし、入学式で無礼な振る舞いをした際にも結局は何もできないまま、偶然現れたルードルフに助けられていた。
だからこそ、向こうから声を掛けてきたこと自体が意外だったのだ。
「突然何なのですの?」
「少し、お話ししたいことがございまして」
マリアンナはそう言いながらも僅かに肩を震わせていた。そこまで怯えるくらいならば、初めから話し掛けなければいいものを。
「まどろっこしい真似はお止めくださいまし。急いでいますの。用件があるのなら早く話して頂戴」
「……セイカ・ゴルダールという少女は知っていますか?」
「知っているも何も、同じクラスですわ」
名前を聞いただけで、自然と眉間に皺が寄った。
「その方なのですが……ロザリア様のお耳に入れておいた方が良いことがありまして」
「ですから、早く仰いなさい。しょうもない話でしたら容赦しませんわよ」
一度息を呑んだマリアンナが、恐る恐るといった様子で口を開く。
「……彼女を、放置しておいてよろしいのですか?」
「何ですって?」
思わず声が低くなった。一体何を言い出すのか、と。
それまでの頼りない印象とは似ても似つかない言葉に、目の前にいる少女が本当にマリアンナ・ヴェルディーレなのかとさえ思っていた。
「そのままの意味です。少なくとも私には、彼女が学園の秩序を乱す存在に見えます。ロザリア様にも思い当たることがあるのではありませんか?」
「……何が言いたいの?」
「もう少し、彼女のことを見ておいた方が良いのではないかと。私は同じクラスではありませんし……」
そこでマリアンナは僅かに言葉を切った。
「ロザリア様ならば、『公爵令嬢として』きちんとしていらっしゃるでしょう?」
公爵令嬢として――その言葉だけが、妙に耳に残った。
「……だからといって、何故わたくしが」
すぐに同意したわけではない。確かにセイカの振る舞いには思うところがあるが、それだけで自分が逐一監視しなければならない理由にはならないからだ。
そう思ったところに、マリアンナが何気ない調子で続けた。
「ああ、そういえば……フェルナン・パース先生とは、随分距離が近そうにしていましたね。この間の放課後など、至近距離で顔を寄せ合っていましたもの」
ロザリアの動きが止まった。それは本当なのかと問い返そうとしたのに、それより先に別の考えが浮かんだのだ。教師と必要以上に親しくしているというのなら、それこそ放置してよいことなのだろうか、と。
セイカは元平民でありながら伯爵令嬢となり、侯爵家のリリスとも身分差を気にせず接し、今度は教師とまで不適切な距離で関わっているという。
そこまで考えたところで、先ほどの言葉が再び頭を過ぎった。
―――公爵令嬢として。
結局、その場ではそれ以上何も言わなかった。だというのに、その日から妙にセイカの姿が目につくようになったのだ。
授業中も、休み時間も、誰と話しているのかが気になる。以前なら気に留めなかった程度のことまで、いつしか目で追うようになっていた。
そんな日が暫く続いた頃、セイカとフェルナンが同時に丸二日も学園を休んだ。他の教員に尋ねてみれば、フェルナンは所用で学園を離れているという。
ならばセイカはどうしたのかと、見舞いという名目で彼女の部屋を訪ねてみたものの、応対した侍女は頑なに面会を拒んだのだ。
―――怪しい。
そう思った途端、それまで一つ一つは些細だった出来事が、まるで最初から繋がっていたかのように感じられた。
以前から抱いていたセイカへの不信感から始まり、フェルナンとの距離感、それから二人が同時期に学園を休んだこと。そして、マリアンナの言葉――『彼女を放置しておいてよろしいのですか?』
……良いわけがない。
公爵令嬢として、自分が正さなければならない。そう思うと、それまで胸の奥にあった僅かな迷いさえ次第に薄れていった。
これ以上学園の秩序を乱される前に、セイカ・ゴルダールという危険因子を学園から排除しなければならない。一度そう結論を出してしまえば、行動に移すのは早かった。
ロザリアは普段から行動を共にしている者の中でも爵位の低いベルを選び、セイカの前へと連れていったのだ。そして事前に伝えていた通り自分の頬をベルに打たせ、それをセイカの仕業として仕立て上げた。
マイルが自分も同行すると言い出したのは予定外だったものの、拒む理由もなかった。証言する者は一人でも多い方が都合が良く、かといって人数を増やしすぎれば何処から話が漏れるか分からなくなるから、ベルとマイルの二人ならば十分だったのだ。
それで噂が広まり、セイカが自ら学園を去ってくれればよかったものの、彼女は変わらず通い続けた。
ならばもっと直接的な方法を取るしかないと、ロザリアは以前自分を打たせたことを持ち出し、今度はベルにセイカを階段から突き落とすよう命じたのだ。
ベルは子爵令嬢であり、公爵令嬢である自分に逆らえる立場ではない。何より既に自分を打ったという事実がある以上、拒める筈もなかった。
これでいい――そう考えた筈だった。なのに、命令を下した後も、胸の奥には僅かなものが引っ掛かったまま残っていた。
何に迷う必要があるのか。自分は学園の秩序を守ろうとしているだけだ。そう言い聞かせ、燻る感覚には目を向けなかった。
ベルは命じた通りに行動した。セイカは階段から突き落とされ、幸い大きな怪我こそなかったものの一時は意識を失い、療養という形で学園を離れることまで決まったのだ。
これでいい。少なくとも暫くの間、学園の秩序は保たれる。
そう思っていた矢先、マイルが教壇へと立った。何をするつもりなのか分からず、ロザリアは思わず彼女を睨むように見つめていた。
「セイカ様がロザリア様を打ったという噂は、事実ではありません」
何を言っているのだと、胸の内に苛立ちが込み上げた。だが続いて告げられた言葉を聞いた瞬間、その感情さえ消えたのだ。
「ロザリア様を打ったのは――私です」
ロザリアは目を見開いた。
―――意味が分からなかった。
マイルは何もしていない。あの日、自分の頬を打ったのはベルであり、それを命じたのはロザリア自身なのだから。マイルはその場にいただけで、セイカに直接手を出したことなど一度もない。
なのに何故、自分がやったなどと言うのか。
そのまま黙っていればいい。マイルが勝手に罪を被ってくれるというのなら自分にとってこれほど都合のいい話はない。セイカは学園から一時的に去ることになったのだから。
そう考えるべきなのに。
―――お願いだから、やめて。
そんな言葉が頭を過ぎった。
「すべて私がやりました。ロザリア様を打ったことも、セイカ様を階段から突き落としたのも――」
「もういいわ、マイル」
気が付けば声に出ていた。言ってしまってから、自分でも何をしているのだろうと思った。
このまま黙って見ていればよかったのだ。マイルが全てを自分の罪として引き受ければ、ロザリアは何も知らなかったことにできるのだから。
それなのに、――できなかった。
「その先は、貴女が話すことではないわ」
席を立ち、マイルのところへと向かう。今更彼女の言葉を戯言だったと片付け、自分だけ何も知らない顔で席に戻ることなどできない。
ならば、話すしかない。自分がしたことなのだから、自分で落とし前をつけるべきだ。
「まず此度の件ですが、すべて私が仕組んだことであり、セイカさんは一切関係ございませんわ」
教室中からどよめきが上がるものの、ロザリアは弁解しなかった。今更、自分だけが同情されるような言葉を並べるつもりはない。
ベルに命じて自分を打たせたことも、それをセイカの仕業として広めたことも、その件を利用してベルを脅し、階段から突き落とすよう命じたことも、何一つ隠さず話した。
「――セイカさんが気に入らなかったから。それだけです」
教室中から向けられる視線が変わっていくのが分かった――それでいい。
「ですから、いっそ学園に来られなくしてしまえばいいのではないかと思いましたの。結果的に療養のため学園を離れることになったのですから、強ち失敗とも言えませんわね」
「ロザリア様……!」
背後からマイルの声が聞こえたものの、ロザリアはそれでも振り返らなかった。何故か自分がしたことを彼女に押しつけることだけはしたくなかったのだ。
ならば、ここで半端に取り繕う意味もない。同情される必要もなければ、許される必要もない。自分が命じ、自分が仕組んだことなのだから。
少なくとも、それだけは間違えてはいけない気がした。
「学園の秩序を乱す恐れのある危険因子を、このまま放置しておくわけにはいきませんわよね?」
フェルナンの表情が目に見えて険しくなる。
やはり、この男にとってセイカは単なる生徒ではないのではないのだろう。少なくともロザリアにはそう見えた。
やがて教員室に来るよう告げられ、ロザリアは素直に応じた。
当然だろう。自ら認めた以上、何の処分も受けずに済むとは思っていない。
朝礼が終わり、フェルナンに促されて席を立つと案の定マイルまで付いてこようとした。
「貴女は来なくて結構よ」
「ですが、私も――」
「必要ありませんわ」
今度こそマイルを巻き込むつもりはなく、ロザリアはきっぱりと遮った。
歩き出そうとして一度だけ振り返ると、こちらを見ていたマイルがと目が合った。
幼い頃、家名が似ているというだけで話し掛けた少女。文を交わし、何度も一緒に笑い、いつしか親友と呼ぶようになった少女。彼女の顔を見ていると胸の奥が僅かに痛んだ。
何故、自分はマイルが罪を被ることを許せなかったのだろう。何故、あの瞬間だけは考えるより先に身体が動いたのだろう。
ロザリアは何も告げないままマイルから視線を外すと、フェルナンの後を追って教室を出ていった。




