12.一方その頃、学園ではⅡ
翌日になっても、ルードルフは普段と変わらぬ一日を過ごしていた。
休み時間になればいつものように令嬢たちに囲まれ、向けられる言葉へ柔和な笑みを浮かべながら応じる。ただ、今日は頃合いを見ていつもより早めに会話を切り上げると、そのまま特に行き先を決めることなく廊下へと出た。
目的があるとすれば、何か一つでも新しい話を拾うことだろう。
リリスには引き続きベルを中心に調べてもらっているが、当然ながら彼一人で探れる範囲にも限界はある。それならば自分も動いた方が早いと考え、途中で声を掛けてきた生徒とは当たり障りのない会話を交わしながら周囲から聞こえてくる話に意識を向けていた。
しかし、これといった収穫はない。
やはり昨日聞いた話を手掛かりに、もう少しこちらから探る必要があるか――そう考えていたところで、不意に背後から声を掛けられた。
「殿下、少しお時間をいただけませんでしょうか」
振り返れば、そこに立っていたのはマイルだった。
ロザリアと行動を共にしていることの多い令嬢であり、今回調べている噂の当事者の一人でもある。こちらから接触する前に向こうから話し掛けてきたのは思わぬ好機だった。
「ええ、構いませんよ」
ルードルフが快く応じると、マイルは周囲を気にするように視線を巡らせた。
「できましたら……人のいないところでお話ししたいのですが」
「分かりました」
その一言で、単なる世間話でないことは分かった。
マイルに促されるまま人気のない場所まで移動すると、彼女は直ぐには口を開かずに何度か言葉を発しかけては躊躇い、胸元で重ねた両手に僅かに力を込めていた。
やがて意を決したように顔を上げる。
「……ロザリア様のことで、お話ししたいことがございます」
「構いませんよ。ゆっくりで大丈夫です」
ロザリア。その名が出た瞬間、ルードルフの意識が僅かに切り替わった。
当然ながら表情には出さず、いつもの柔和な態度を崩すことなく続きを待つ。ロザリアの名を出した上で、わざわざ他人に聞かれない場所を選んだのだ。こちらが探っていることに関係する話である可能性は高い。
「殿下だからこそ、話そうと思いました」
「……私だから、ですか?」
「はい」
それ以上の説明はなかった。
何故自分だからなのかは分からない。だが、わざわざそう前置きしてまで話そうというのなら、少なくとも他の者には明かしづらい事情があるのだろう。
ルードルフが先を促すように黙って待っていると、マイルは一度深く息を吸った。
「今、学園で広まっている……セイカ様がロザリア様を打ったというお話ですが、あれは事実ではございません」
予想していた話ではあったものの、それでもルードルフは何も挟まず続きを待ってみる。
「あの日、ロザリア様の頬を打ったのはセイカ様ではありません。……ベルです」
「ベル嬢が?」
「はい」
リリスから聞いた昨日の報告が頭を過ぎった。
セイカが階段から落ちたという話を耳にする度に僅かな反応を見せ、一人になったところで自らの両手を見つめながら「私は悪くない」と呟いたベル。あの言葉だけでは何に対するものまでかは決めかねたが、どうやら彼女が今回の一件に関わっているという推測そのものは間違っていなかったらしい。
「それでは、何故セイカ嬢が打ったという話になったのです?」
「……私たちが、そう話したからです」
マイルの声が僅かに震えた。
「ロザリア様とベル、それから私で……セイカさんがロザリア様を打ったことにしました。事情を聞かれた時にも、そのように話しましたし、噂が広まることも分かっていながら否定しませんでした。私自身、あの方を悪く言う話が広まる側に加担しました」
「つまり、貴女も事実ではないと知りながら話を合わせた、と」
「……はい」
そこでマイルは一度俯いた。しかし、これだけならばベルが昨日見せた反応の説明にはならない。
「まだ、ありますね?」
静かに尋ねると、マイルの肩が僅かに揺れた。
「……はい」
顔を上げた彼女の表情には、先ほどまで以上の迷いが浮かんでいた。
「セイカ様が階段から落ちた件も……事故ではありません」
それは既に知っている。意識を取り戻したセイカ本人が背後から押されたと証言しているのだから。
ルードルフが知りたいのはその先だ。
「誰がやったのですか?」
「……ベルです」
やはり、そうか。昨日まで点在していたものが漸く一本の線として繋がった瞬間だった。
だが一つ答えが得られたところで、それだけでは足りない。
「何故ベル嬢が?」
「ロザリア様に……命じられたからです」
今度こそ、ルードルフは僅かに目を細めた。
「ベルは嫌がっていました。けれど、断れなかったのです。最初にロザリア様を打ったのはベルですから……そのことを持ち出されてしまえば、逆らえなかったのだと思います」
成る程。だからベルは、自分は悪くないと言っていたのか。
もちろん、命じられたからといって実際にセイカの背中を押した事実まで消えるわけではない。それでも、少なくとも彼女の中では自ら望んでしたことではなく、ロザリアに強いられたことだという認識なのだろう。
誰がセイカを突き落としたのか。何故ベルがあれほど不可解な態度を見せていたのか。
昨日まで分からなかった二つの答えが、思わぬ形で一度に手に入った。
マイルは暫く俯いていたが、やがて覚悟を決めたように顔を上げた。
「私は……すべて私がやったと話すつもりです」
ルードルフは僅かに眉を動かした。
「すべて、とは?」
「ロザリア様を打ったことも、セイカ様を階段から突き落としたこともです。私がすべてやったと、皆様にお話します」
「……今のお話では、そのどちらも貴女がしたことではありませんよね」
「はい」
「貴女自身は、セイカ嬢に直接何かしたのですか?」
「……いいえ」
迷いなく否定する。
「それでも、話します」
「……そうですか」
それだけを返すと、マイルが僅かに目を瞬かせた。
しかし、ルードルフにとって重要なのは彼女の決断そのものではなく、何故そこまでするのかという話である。
ベルを守りたいだけならば、自分一人ですべてを背負う必要はない。何より、先ほどからマイルが口にしている言葉を聞く限り、彼女が守ろうとしている相手は別にいるように思えたのだ。
「でしたら、その前に一つだけ教えていただけますか?」
「……何でしょう」
「何故そこまでロザリア嬢を庇うのです?」
マイルが息を止めた。
「貴女が庇おうとしているのは、ベル嬢ではありませんよね。少なくとも私には、ベル嬢にセイカ嬢を突き落とすよう命じたロザリア嬢まで守ろうとしているように見えます」
「それは……」
言葉に詰まり、視線が落ちる。暫く沈黙した後、マイルは何かを決めたように小さく息を吐いた。
「……いいえ。ここまでお話ししたのですから、すべてお話しします」
再び顔を上げる。
「殿下は、ロザリア様が突然変わってしまったことはご存知ですよね?」
「ええ」
もちろん知っている。以前のロザリア・モネストが、今とはまるで異なる少女だったことくらいルードルフも承知していた。
ただ、いつを境に変わったのか、その前後に何があったのかまでは知らない。そもそも興味がないからだ。
「昔のロザリア様は……誰にでも分け隔てなく接する方でした。私にだって、家名が似ているというだけで興味を持ってくださって、いつの間にか一緒にいることが増えて……親友だと仰ってくださったのです」
懐かしむような声だったものの、表情が直ぐに曇る。
「ある日、ロザリア様が『両親と孤児院に行ってくる』と仰いました。初めて孤児院に行くことをとても楽しみにしていらして、沢山の子供たちと遊べるのだと、本当に嬉しそうに話していらしたのを覚えています」
そこで言葉が途切れた。
「ですが、それを最後に……暫くロザリア様とは会えなくなりました」
「会えなくなった?」
「はい。何度訪ねてもお会いできませんでした。最初は体調でも崩されたのかと思っていたのですが、あまりにも長く続くので心配になって……ある時、ロザリア様が話していた孤児院の名前と場所を思い出したのです」
嫌な記憶を辿るように、マイルの指先が僅かに震えた。
「ですが……何もありませんでした。後日訪ねてみたのですが、孤児院どころか建物さえ何一つなかったのです」
その言葉に、ルードルフは黙って続きを待った。
「場所を間違えたのかと思って、近くに住んでいる方々へ話を聞きました。すると……公爵様の逆鱗に触れて、孤児院そのものが取り潰されたのだと」
「……なるほど」
以前のロザリアが今とは異なる性格だったことは知っている。
しかし、変化の直前に彼女が孤児院を訪れる予定だったことも、ロザリアが訪れた孤児院が後に取り潰されていたことも、ルードルフにとっては初めて聞く話だった。
「それからも、ロザリア様が心配で何度も文を送りました。ですが、一度も返事はなく……次にお会いできた時には、今のようなお姿になっていたのです」
マイルの声が少しずつ沈んでいく。
「以前のように笑ってくださらなくなり、人への接し方も変わってしまって……最初は私のことさえ覚えていないのではないかと思ったほどです」
「それでも貴女は傍にいたのですね」
「……はい」
迷いのない返事だった。
「いつかきっと、以前のロザリア様に戻ってくださると思っていました。何か事情があるのなら、傍にいればいつか話してくださるかもしれないとも思って……。だから、少しくらいなら仕方がないと、ずっと自分に言い聞かせていたのです」
「少しくらい、ですか」
「噂話だけなら……まだ我慢できました。私自身、それに加担してしまいましたし、今更自分だけが正しかったようなことを言うつもりもありません」
マイルは一度唇を噛み、それから続けた。
「ですが、その後セイカ様が階段から突き落とされて、意識まで失われたと知って……流石に、ここまで来れば看過できない、と」
「それで、全て自分がしたことにしようと?」
「……はい」
「ですが、それでは貴女だけが責を負うことになりますが」
「分かっています」
それでも決意は変わらないらしい。
「せめてもの……罪滅ぼしです。ロザリア様を止められなかった私の。事情を知りながら、その横で見ているだけだった私の」
胸元で握られていた手に、更に力が籠もる。
「もう、何もなかったことにはしたくないのです。セイカ様について広まった噂は、皆様の前で私の口から訂正します。その上で、今回の責任は私が負います」
マイルは一度俯き、それでも迷いを振り切るように顔を上げた。
「私がすべてを背負うことで、ロザリア様が今回のことを考えてくださるのなら……そして、いつか以前のように戻ってくださるのなら、それが私の望みです」
随分と歪んだ罪滅ぼしだと、ルードルフは思った。
マイルが罪を被ったところで、ロザリアが以前の人格に戻る保証などどこにもない。それどころか、自分のために他人が罪を被ってくれると学習すれば逆効果になる可能性すらあるだろう。
だが、それを指摘する必要はない。マイル自身が事情を理解した上でそうすると決めたのなら、それは彼女の選択であるのだから。
それよりも、まだ一つ分からないことがあった。
「何故、私にこの話をしようと思ったのです?」
「え?」
「私は今回の件には直接関係していません。貴女が先生方へ申し出るだけならば、事前に私に事情を明かす必要はなかった筈です」
マイルは少し驚いたようだったが、やがて困ったように笑った。
「ロザリア様が殿下をお慕いしていることは、ご存知ですよね?」
「……ええ」
「だからこそ、殿下にはロザリア様の事情を知っていただきたかったのです」
マイルが自分をどう見ているのかも、凡そ察しがつく。
身分によって人を選ばず、誰にでも公平に接する王太子。相手の事情を聞き、その心情まで汲み取ってくれる人間――恐らく、そんなところだろう。
だからロザリアが今のようになった事情を知れば、ルードルフならば彼女を理解しようとすると思ったのかもしれない。あるいは、これからマイル自身が全ての罪を背負おうとしていることも含め、その気持ちを分かってもらいたかったのだろう。
しかし、ルードルフにとって重要なのはそこではなかった。
結局誰がロザリアを打ったのか。何故その罪をセイカに被せたのか。誰がセイカを階段から突き落とし、何故そうするに至ったのか。
知りたかったのは答えであり、それを知れた面では、マイルが自分をどう見ていたとしても好都合だった。
「私は明日、皆様の前でお話しするつもりです」
「……そうですか」
あまりにもあっさりと返されたためか、マイルが僅かに目を瞬かせ、何かを待つような短い沈黙の後、躊躇いがちに口を開いた。
「……お止めにならないのですか?」
「ご自身で必要だと考え、決めたことなのでしょう?」
「はい」
「でしたら、私が止める理由はありません」
ルードルフがそう告げると、マイルは目を見開いたまま暫く彼を見つめていたものの、やがてその表情から僅かに力が抜け、何を思ったのか小さく笑った。
「……そうですよね。お時間をいただき、ありがとうございました」
「いえ。こちらこそ、お話しいただきありがとうございます」
一礼したマイルが背を向け、廊下の先へと歩いていく。姿が見えなくなるまで見送ってから、ルードルフは先ほど聞いた話を頭の中で改めて整理した。
ロザリアの頬を打ったのはベルであり、その事実をセイカがしたことにすり替え、マイルもまた嘘に加担した。そして階段からセイカを突き落としたのもベルだが、その背後にはロザリアの命令があった。
だが、一つ分かればそれで終わりというわけではない。何故ロザリアはセイカへ罪を被せたのか。何故、噂を広めるだけでは飽き足らず、ベルを使って階段から突き落とすような真似までしたのか。
先ほど聞いた孤児院の話そのものに、ルードルフは然程興味を惹かれなかった。以前のロザリアが何をきっかけに今のような性格に変わったのか、それだけならばわざわざ自分が調べるほどのことではないからだ。
ただ、その過去が万が一今回セイカを狙った理由に繋がっている可能性があるのなら話は別である。ロザリアについて調べるついでに孤児院のことも少し探ってみて、それで何も出なければ、そこで切り上げればいいだけの話だ。
そこまで考えたところで、ルードルフはふと眉を寄せた。
(……それにしても)
セイカについて知りたいと思っていること自体は、今更否定するつもりもない。
以前にも一度考えたことがある。アーノルドとの関係がなかったとしても、自分は彼女について調べることをやめないだろう、と。だから、こうして調べ続けていることそのものは不思議ではない。
だが――。
(……私は、何故ここまで調べようとしているのでしょう)
噂が立てば真偽を確かめ、階段から突き落とされたと知れば誰が何のためにやったのかを探り、本人が学園を離れた今もなお、その周囲で起きた出来事を追い続けている。おまけに今ではリリスに調べさせるだけでは足りず、自分まで学園内を歩き回って話を拾おうとしているのだ。
一つ分かれば満足するどころか、そこから生まれた次の疑問が気になって仕方がない。
今回もそうだ。
ベルがセイカを突き落とした。その答えを得たというのに、今度は何故ロザリアがそれを命じたのかが気になり、その理由に繋がる可能性が僅かにあるというだけで、然程興味もない孤児院のことまで調べようとしている。
―――そこまでして知る必要が、本当にあるのだろうか。
僅かな違和感が胸に残るものの、考えたところで明確な理由は浮かばなかった。
ただ、分からないことがあるから知りたい。結局ルードルフは、それ以上の答えを見つけられないまま思考を切り上げたのだった。




