7.アーノルドの独白
その話がアーノルドの耳に入ったのは一限目が始まる少し前のことだった。
普段であれば他の教室で何が起きようと気に留めることはない。まして生徒同士の噂話など、自分から耳を傾けるようなものでもなかった。
だが、その中に聞き覚えのある名が混じった瞬間、アーノルドの意識は否応なくそちらへと向いた。
「セイカ・ゴルダールさん、階段から落ちたらしいですわ」
「意識を失って、保健室に運ばれたとか……」
その言葉を耳にした瞬間、アーノルドは大きく目を見開いた。手にしていた教本に落としていた視線は、少し離れた場所で話している令嬢たちへと向けられた。
聞き間違いではない。
階段から落ちただの、意識を失っただの、保健室に運ばれただの。断片的に聞こえてくる話を頭の中で繋ぎ合わせるほど、胸の奥がざわついていく。
(……何をしている、あいつは)
真っ先に浮かんだのは苛立ちだった。
何故階段から落ちたのかも、今どのような状態なのかも分からない。ただ、大きな怪我はないらしいという話だけは聞こえてきたのだから、今すぐどうこうなるような状態ではないのだろう。
そう考えれば済む筈だった。
それなのに、一度乱れた思考は思うように収まってくれない。
ここ最近、セイカのことで苛立つことが増えた。その始まりが何時だったのかと考えてみても、それほど前のことではない。
中庭で話した時、セイカは自分たちの関係を『対等』だと言った。皇族である自分に向かって随分なことを言うものだと思いはしたが、今更の話でもあるし不思議と腹は立たなかった。それどころか何故かその後も妙に頭に残り続けていたのだ。
あの時、不意にマリアンナが現れた時もそうだ。話の途中で姿を現した彼女を見て真っ先に浮かんだのは、邪魔が入ったという感想だった。
もっとも、単に話を中断されたからそう思っただけだろうし、結果的にはあの女を前に慌てるセイカの反応も見られたので悪くはなかった。だから、その時は特に気にも留めなかった。
その一週間後、約束した時間になってもセイカは姿を見せなかった。本来ならば、約束を忘れた相手など放っておけばよかったし、わざわざこちらから探しに行く必要もない。
にもかかわらず、気付けば自分からセイカを探しに向かっていた。
以前と同じ中庭ではなく屋上に場所を変えたのも、また誰かが現れて話を中断される可能性を考えたからだった。人目につきにくく、誰かが来ればすぐに分かる場所の方が都合がいい。
その時はそれ以上の理由など考えもしなかった。
以前から、セイカが渡した魔具を使っていないことは気になっていた。理由を聞いてみれば、今度は自分の力で三大属性の魔術を使えるようになろうとしているという。
(また訳の分からないことを……)
ギルガルド・ヴェルディーレが生徒に教えた事についてはアーノルドも知っている。あんなものは普通ならばできない。それでもセイカは、やってみなければ分からないと言っていた。
あの時は呆れたものの、セイカが何をしようと闇属性さえ扱えるようになるのなら好きにすればいいと思っていた。
ただし、闇属性については放置するわけにはいかない。
そもそもアーノルドがセイカを牢から出したのは、彼女を助けたかったからではない。必要だったのはセイカ自身ではなく、彼女が持つ闇属性だった。
いずれ、兄上には相応の報いを受けてもらう。
そのために何か利用できるものはないかと探っていた矢先、闇属性を持つ少女が罪人として捕らえられたという話が耳に入ったのだ。
闇属性そのものが珍しい上、使い方次第では十分に利用できる。何より、相手が罪人であることもアーノルドにとっては都合がよかった。
だから牢から出した。正体を隠すための用意もし、学園へと通えるよう手を回したのも全てはその力を利用するためだった。
当然、その目的をセイカ本人へ話すつもりはない。
他者を害する為に利用するつもりだと知れば、あの女が何をするか分からない上、そもそも今の段階で話す義務もない。だから理由を尋ねられた時にも、「今は話せない」とだけ答えた。
だというのに、セイカが何かを隠していると分かった時には不愉快だった。
闇魔術を使っているのかと尋ねた時、セイカは明らかに言葉を詰まらせた。何かあるのだと確信して問い詰めても答えようとはせず、その態度が妙に気に障った。
もっとも、自分も目的を隠しているのだから、相手にだけ全てを話せというのは筋が通らない。セイカから以前口にした『対等』という言葉を持ち出されれば尚更で、これ以上問い詰めても意味がないと判断して、あの時は一旦引くことにした。
それで話は終わる筈だったのに、ふと学園でのセイカの動向が気になった。
何か妙なことは起きていないか。最近は誰と行動しているのか。
放っておけば何をするか分からないから確認しておく必要がある――そう理由を付けて尋ねたものの、何かを隠しているような反応をされれば、今度はそちらが無性に気になった。
そして、ルードルフの名が出た。
以前より話すようになり、隣の席だから会話をする機会も多く、前より話しやすくなったのだとセイカは言っていた。
それを聞いた途端、何故か腹が立った。
自分からルードルフと親しくしておけと言ったのだから、望んだ通りになっているだけだ。兄へ近付かせるためにそう指示したのは他でもない自分であり、文句を言う理由などない。
それなのに、何故そんな顔をするのかとセイカから指摘されても苛立ちは消えず、理由を尋ねられても答えられなかった。
……自分でも分からなかったからだ。
その違和感が更に大きくなったのは数日前だった。
セイカが公爵令嬢を打ったなどという噂はどうでもいい。実際に打ったのか、濡れ衣なのか。それをわざわざ本人へ確かめようとすら思わなかった。
問題はもう一つの方だ。
―――セイカ・ゴルダールは、教師であるフェルナン・パースとただならぬ関係にある。
初めて耳にした時から、その噂だけが妙に頭に残った。
いつから知り合っていたのか。どの程度の関係なのか。何故、自分は何も知らないのか。次々と浮かんでくる疑問に、アーノルド自身が最も苛立っていた。
何故自分に話さなかったのかとまで考えたところで、流石におかしいことには気付いた。セイカが誰とどのような関係にあろうと、自分に逐一報告する義務などなく、まして噂自体が事実とは限らないからだ。
そう結論付けた筈なのに、苛立ちは消えなかった。
そして昨日、よりによってその男が空き教室から出てくるところを目にしたのだ。
フェルナン・パース――噂の渦中にいる本人だったからこそ、何となくその姿を目で追ったのだが、何故空き教室から一人で出てきたのかと疑問に思った時には、アーノルドの足は止まっていた。
誰も出てこなければ、それで終わりだった。
だが、暫くその場に留まっていると僅かに扉の開く音が聞こえ、角から様子を窺った先に姿を現したのはセイカだった。
瞬間、噂は本当だったのではないかという考えが頭を過ぎり、それまで胸の内で犇めいていた黒い何かがゆっくりと心を濁していくのを感じて、気付けばセイカに声を掛けていた。
何をしていたのか。何故あの教室にいたのか。そんなことを問い詰めることばかりが頭を占め、周囲のことなど完全に抜け落ちていた。
普段ならば有り得ないことだった。
学園内でセイカと自分が繋がっていることを知られるわけにはいかない以上、人前で不用意に話し掛けることはこれまで避けてきた。それなのに、あの時はセイカから指摘されるまで周囲を見ることすら忘れていたのだ。
流石にその場で話を続けるわけにはいかなかったが、それでフェルナンのことが気にならなくなったわけではない。むしろ一度問い掛けてしまったせいか、曖昧なまま話を終わらせることの方が気に障り、結局、放課後に屋上へと来るよう告げた。
呼び出す理由なら他にもあった。以前から確認しようと思っていた闇属性についての話を持ち出し、そのついでに先ほどのことを聞けばいい。それで十分だった。
だが、実際に彼女を前にすると、頭に浮かんだのは闇属性のことではなかった。
フェルナンとはどういう関係なのか。何故二人でいたのか。何を話していたのか。本当に教師と生徒、それだけなのか。聞いても聞いても次の疑問が浮かんでくる。
セイカがエルザに呼ばれて空き教室に入ったと聞いても詳しく尋ねようとは思わなかった。それよりもエルザが出て行った後で、フェルナンと二人で何をしていたのかが気になった。
『今日、少し変ですよ』
そう指摘されて初めて、アーノルドは自分が先ほどからフェルナンのことばかり問い詰めていたことに気付いた。咄嗟に何か言い返そうとしたものの、実際に闇属性とはほとんど関係のないことばかり尋ねていたのだから否定する言葉も出てこない。
何故あれほど二人の関係が気になったのかと考えてみても、自分でも理由は分からなかった。ただ、フェルナンとの関係を確かめずにはいられなかったのだ。
屋上を離れる頃には多少頭も冷えていたものの、胸に残った苛立ちまでは消えてくれなかった。放っておけば何を仕出かすか分からない上に、あの放蕩貴族と自分の知らないところで何をしていたのかも分からないのなら、いっそのこと人目につかない場所に置いてしまえばいい――そんな考えまで、いつの間にか頭に浮かんでいた。
もっとも、それ自体は以前から考えていたことだ。
全てが終わればセイカをこのまま自由にするつもりなどない。自分がしようとしていることを知る人間を放置するわけにはいかず、かといって殺すつもりもない以上、そうする方が確実だったのだ。
だがそれはあくまで全てを終えた後の話だった。
……その筈だった。
「……階段から落ちたって、本当なのかしら」
再び聞こえてきた声に、アーノルドの意識が現実へと引き戻される。
「ええ。まだ意識も戻っていないそうよ」
「最近、色々ありましたものね……」
その言葉を聞きながら、アーノルドは無意識に握っていた拳に力を込めた。
―――まただ。
セイカを自由にしておけば、次から次へと何かが起こる。ここ最近だけでも公爵令嬢との一件があり、妙な噂を立てられたかと思えば、今度はフェルナンと二人で空き教室にいた。そして今日は、階段から落ちて意識を失っている。
つい先日だって、放っておけば何をするか分からないと思ったばかりではないか。それなのに何故、自分は未だにセイカに好き勝手させているのだろう。
(……何故、俺はあいつを放置している)
胸の奥で、何かが蠢いた。
それまでにも何度か感じていたものだった。フェルナンとの噂を耳にした時も、空き教室から出てきたセイカを見た時も、屋上で何をしていたのかと問い詰めていた時も、胸の内に形の分からない黒い何かが犇めいていた。
そして今、その黒い何かが胸の奥からゆっくりと広がっていくのを感じた。次第に心を濁らせ、思考にまで染み込んでいくというのに不思議と嫌な気はせず、むしろ今までまとまらなかった考えが一つずつ整理されていくような感覚さえあり、アーノルドは抗うことなくそれを受け入れていた。
これ以上野放しにしておけば、また何かに巻き込まれる。自分の知らないところで誰かと関わり、何をしているのかも分からないまま自分の知らない所で何かに巻き込まれ、挙句の果てには意識を失うことになる。
―――放置していては駄目だ。
元より全てが終われば、セイカを人目につかない場所へと置き、自由に出歩けないようにするつもりだった。
だが、それまで待つ必要があるのだろうか。こうして自分の知らないところで次々と面倒事に巻き込まれるくらいなら、全てが終わるのを待たず、今からそうしてしまえばいいのではないか。
そう考えた途端に、それまで胸の奥を満たしていた苛立ちが嘘のように静まっていった。
闇属性のことも、セイカが何を隠しているのかも、フェルナンと何をしていたのかも後から聞けばいい。今はそんなことよりも、また何かが起きる前にセイカを自分の目の届く場所に置くことの方が先だった。
セイカを学園から遠ざけ、人の目につかない場所へ移し、勝手に出歩けないようにする。そうすれば変に苛立つこともなければ、余計な問題に巻き込まれることもない。
何より、自分の目の届く場所に置いておけば二度と今回のようなことにはならない。それが最も確実な方法であり、一度そう考えてしまえば迷う理由はなかった。
自分がおかしいのではないかという疑問は不思議なほど浮かんでこなかった。
アーノルドはゆっくりと教本を閉じた。先ほどまで耳障りなほど聞こえていた周囲の話し声はいつの間にか意識の外へと追いやられ、代わりに頭を占めていたのは『これ以上好き勝手に行動させるべきではない』という考えだった。
もう、セイカをこれまで通り自由にしておくつもりはない。
「……もう我慢ならない」
小さく呟く。不思議なほど静かになった胸の内で、それまで抑え込まれていたものだけが最後まで消えずに残っていた。




