6.事故ではなく
その事件が起きたのは、朝早くのことだった。
図書委員の仕事を終えた聖花は、朝礼に間に合うよう教室へと向かっていた。いつもより早く仕事が終わったためか、校舎内を行き交う生徒の姿は普段より少なく、ここ数日嫌というほど向けられていた視線も今ばかりはほとんど感じない。
ロザリアの一件から始まった噂は未だに収まる気配を見せず、廊下を歩いているだけでも遠巻きに見られたり、聞こえるように何かを言われたりすることが度々あった。早く落ち着いてくれればいいのだが、やはりそう簡単にはいかないらしい。
そんなことを考えながら階段を下り始めた時、不意に背後から人の気配を感じた。
誰かが同じ階段を使おうとしているのだろう。聖花は特に気に留めることなくそのまま足を進める。
「え――」
だが次の瞬間、背中に誰かの手が触れたかと思えば、そのまま強い力で前へと押し出された。
身体が大きく傾く。咄嗟に手摺へと手を伸ばしたものの僅かに届かず空を切った。踏み出そうとした足も次の段を捉えることはなく、完全に体勢を崩した身体はそのまま宙へと投げ出された。
理解した時にはもう遅かった。受け身を取ろうにも身体が言うことを聞かず、視界が大きく傾いていく。
背後では聖花を押した人物が既にその場から逃げ去っていた。助けを求めようにも、周囲に他の人影はない。
このままでは階段に身体を打ち付ける――そう思った次の瞬間、聖花の周りを薄黒い膜のようなものが覆った。
直後に衝撃が走ったものの本来受ける筈だったものより遥かに弱く、痛みは殆ど感じなかった。しかし既に投げ出されていた身体までは止められず、何度か段差に身体を打ち付けながら下まで転げ落ちていく。
最後に頭が酷く揺れたところで聖花の意識は途切れ、彼女を包んでいた薄黒い膜も役目を終えたように空気へと溶けて消えていった。
程なくして、静まり返った階段にゆっくりと足音が響いた。
やがて一人の男が姿を現し、階段の下で倒れている聖花を見るなり僅かに眉を寄せた。傍まで歩み寄り、呼び掛けても反応がないことを確かめるとゆっくりと身体を抱き上げる。
「まったく、世話の焼ける」
腕の中の聖花に一度だけ視線を落とし、男はそのまま保健室へと向かう。
保健室に着くなり男は聖花を寝台へと寝かせた。その場にいた教員に診てもらったところ幸いにも大きな怪我はなく、軽い脳震盪により意識を失っているらしい。
それを確認した後、長居することなく男は保健室を後にした。
間もなくして朝礼の時間を迎えると、いつもとは明らかに様子の違うフェルナンが教壇に立っていた。
「……朝礼を始める前に、一つ連絡事項があります」
重々しくも低い声に、話し声が自然と収まっていく。
「セイカ・ゴルダールさんですが……。今朝、校舎内の階段から落ちて保健室に運ばれたそうです」
そこで一度、フェルナンの言葉が止まる。何人かが聖花の空席へと視線を向ける中、彼は眉間に皺を寄せたまま続けた。
「大きな怪我はないようですが……まだ意識は戻っていません」
ほんの僅かに声が強くなる。途端に教室のあちこちからどよめきが起こり、近くの者同士で顔を見合わせる者や、何があったのかと小声で話し始める者まで現れた。
つい数日前までロザリアの一件やフェルナンとの噂で話題の中心にいた人物が、今度は階段から落ちて意識を失ったというのだ。驚くのも無理はなかった。
話を聞いたルードルフは空席となった隣の席へと視線を向け、リリスは一瞬だけ無表情になったものの直ぐにいつもの様子へと戻る。
マイルは何かを確かめるようにロザリアを見つめていたが、当のロザリアは何の反応も示していなかった。
「静かに」
明らかに余裕のない声が響き、教室は直ぐに静まり返った。
「……今のところ、詳しいことは分かっていません。憶測で話を広げたり、面白半分に騒いだりすることは控えるように」
必要な連絡だけを手短に済ませると、フェルナンはいつになく早く朝礼を切り上げ、そのまま教室を出て行った。しかし生徒たちの興味は消えず、朝礼が終わると直ぐに何人かがひそひそと話し始めている。
「階段から落ちたそうですわよ」
「まあ……大丈夫なのかしら」
「でも、あの方でしょう?もしかしたら罰が当たったんじゃなくて?」
純粋に身を案じる者がいる一方、先日の一件と結び付けて好き勝手なことを口にする者も少なくない。
もっとも、聖花を良く思っていない者であっても、意識を失った相手を面白がって笑う者までは殆どいなかった。貴族の子女が多く通うこの学園では、そのような振る舞いは相手を貶めるどころか自らの品位まで疑われかねないからだ。
それでも話題が尽きることはなく、一限目が始まるまでの僅かな時間にも、教室のあちこちで聖花のことが囁かれ続けていた。
一方その頃、朝礼を終えたフェルナンは真っ先に保健室を訪れていた。
「……まだ起きてない?」
「ええ。ただ、先ほどより状態は落ち着いていますよ」
「……そう、ですか」
短く答え、フェルナンは寝台へと視線を戻した。眠ったままのセイカは、当然ながらこちらを見ることもなければ何かを言うこともない。大きな怪我はないと聞いているものの、それでも実際に目を覚ますまでは、どうにも安心できなかったのだ。
―――まただ。
つい先日も、エルザが聖花へ危害を加えようとしていた。あの時は彼女の様子がおかしいことに気付き、後を追っていたから間に合ったが、今度はそうではない。
ほんの少し目を離しただけで、どうしてこうも――。
「パース教員、授業は?」
「……分かってるよ」
声を掛けられ、フェルナンはようやく寝台から目を離した。
授業がある以上、いつまでもここにいるわけにはいかない。それでもすぐには足が動かず、フェルナンは数秒の間を置いてから漸く扉へと向かった。
扉だが扉を閉める直前にはもう一度だけ寝台の方へと視線を向け、一瞬だけ立ち止まったあと保健室を後にしたのだった。
◆
一限目が始まってから暫くして、聖花はゆっくりと瞼を開いた。
ぼんやりとした視界の中に見慣れない天井が映り、何処にいるのか分からないまま聖花は身体を起こそうとする。
「起きましたか?」
「……貴女は?」
「私はキャロル。保健室付きの教員です。まだ起き上がらないでください」
言われるまま身体を寝台へと戻し、聖花はそこでようやく周囲に視線を巡らせた。キャロルの存在と、幾つか並んだ寝台や薬品棚を見て、ここが保健室なのだと気付く。
「あ……私」
「無理に思い出そうとしなくても大丈夫ですよ。少しずつで構いません」
そう言われ、聖花は目を閉じながら途切れていた記憶を辿った。
階段を下りていたこと。背後から人の気配を感じたこと。そして、――突然背中を押されたこと。
そこまで思い出したところで、聖花は再び閉じていた瞼を上げた。
「ここには誰が……」
「ヴェルディーレ教員が運んで来てくださりました」
「ヴェルディーレ……」
一瞬だけカナデの姿が脳裏に浮かんだものの、すぐにもう一人の人物へと思い至る。
「……ギル先生ですか」
「そうです。ギルガルド・ヴェルディーレ教員です」
何処か訂正するように言い直したキャロルは、書き記す物を片手に持ちながら手元の紙へと視線を落とした。
「軽い脳震盪を起こしたようですが……階段から落ちる直前のことは覚えていますか?」
「……背中を押されました」
「え?」
キャロルの手が止まる。
「誰かに背中を押されて階段から落ちました。その後のことは覚えていません」
今度ははっきりと告げると、キャロルは何度か聖花の顔を見直した後、僅かに眉を寄せた。
「……それは、不味いことになりましたね」
声には先ほどまでとは違う緊張が混じっていた。
「犯人の顔は見ましたか?」
「いいえ。後ろからでしたので」
「そうですか……」
キャロルは小さく息を吐くと、先ほどまで書き込んでいた紙に何かを改めて書き記していく。
聖花自身が足を滑らせたのではなく、何者かに背中を押されたのだとすれば単なる転落事故では済まない。一人の生徒が故意に階段から突き落とされた可能性がある以上、犯人を特定せずに放置するわけにはいかないし、同じ人物が再び誰かへ危害を加えないとも限らないのだ。
ましてや同じ学年には皇太子まで在籍していて、学園側としても此れをただの事故として処理することはできないだろう。
「この件は、こちらから学園側へ報告します」
キャロルはそのように告げると、改めて聖花へと視線を向けた。
「貴女はもう少し休んでいてください。今は無理に動かない方がいいでしょう」
「……分かりました」
聖花は素直に頷くと、再び身体を寝台に預け、天井を見上げながら僅かに眉を寄せた。
誰が自分を押したのかは分からない。ただ、今の自分を取り巻いている状況を考えれば、今回のことがここ数日の騒ぎと全く無関係だとも思えなかったのだ。
その頃には既に、彼女が階段から落ちたという話は別の教室にまで行き届いていて、当然その中にはアーノルドのいる教室も含まれていた。
次回、アーノルド視点です。




