4.嫉妬の矛先
リリスが戻ってきてからも、聖花を取り巻く状況が大きく変わることはなかった。
相変わらず教室や廊下では自分の名前を含んだ話が聞こえてくるし、フェルナンとの関係についても完全に収まったわけではない。それでも数日前に比べれば露骨に視線を向けられることは減り、聖花自身も少しずつ普段通りに過ごせるようになっていた。
何より、リリスやグリッタがこれまでと変わらず接してくれたことは有り難かった。周囲がどう思っているのかまで気にしていてはきりがないのだから、今は余計なことをせず噂が自然と収まるのを待つしかないのだ。
そう考えていた矢先のことだった。
「少し宜しいでしょうか」
廊下を歩いていた聖花は、不意に後ろから声を掛けられて足を止めた。振り返ると、視線の先にエルザが映った。
「はい。何でしょう?」
「そうですね……先日から噂になっていることについて、少々気になることがございます。ここでは何ですので、近くの空き教室でお話ししましょう。今からお時間は?」
「……大丈夫です」
「では、行きましょうか」
何の話なのかは大体想像がついたものの、教師から話があると言われれば断る理由もない。聖花はエルザに続いて近くの空き教室へと入り、後ろで扉が閉まるのを確認してから彼女に向き直った。
エルザは席に着こうともせず、そのまま聖花を見据えて口を開く。
「――それで貴女、パース教員とはどのようなご関係なのですか?」
開口一番これである。
噂について教師として事情を聞いているというより、どうにも個人的な理由から尋ねているようにしか思えなかった。とはいえ隠すようなことでもないので、聖花はひとまず事実をそのまま伝えることにした。
「少なくとも、噂になっているような関係ではございません」
「少なくとも……?」
「……はい」
何故そこに反応するのだろう。不思議に思いながら返事をすると、エルザの表情が僅かに険しくなった。
「では、どうして貴女にだけあのような態度を取っているのですか」
先ほどまでと比べ、明らかに声が強くなっている。しかし聖花からすれば、そんなことを自分に聞かれても困るとしか言いようがなかった。
「分かりません」
「分からない?あれだけ気に掛けてもらっておきながら?」
今度は隠し切れない怒気が声に滲んだ。
初めて会った時に感じた生真面目な教師としての雰囲気は既になく、目の前にいるエルザは苛立ちを露わにしながら聖花を睨みつけている。
「彼がどれだけ貴女を気に掛けていると思っているの!?それなのに、何も知らないような顔をして……!」
その怒気を真正面から向けられた瞬間、聖花の中で一つのものが結び付いた。
―――もしかして、以前感じたあの視線は。
そういえば以前エルザから注意を受けた日にも、久しぶりにあの殺意を孕んだ視線を感じていた。あの時は自分の挙動が不審だったから声を掛けられたのだと思っていたが、最初から聖花を見ていたのなら話は違ってくる。
「余計な誤解を招くような行動は慎むように」という忠告も、「貴女に話す義理がありますか」と苛立った様子を見せたことも、今なら別の意味を持って聞こえた。
もしあの時からエルザが聖花個人に思うところがあったのなら、今の状況にも説明がつくのだ。
それに気付いた途端、聖花は自分が置かれている状況を改めて認識した。
同性だから、教師だからと油断していたが、ここは誰もいない空き教室である。そのうえ目の前にいるのは以前から自分に殺意を向け、今や感情を抑え切れなくなっている人間なのだ。
幸いにも扉に鍵は掛かっていない。もしもの時にはエルザを押し退けてでも外へ出られるだろう。
そう考えながら僅かに扉へと意識を向けたのが分かったのか、それとも自分から意識を逸らされたこと自体が気に障ったのか、エルザの表情がさらに険しくなった。
「貴女が現れてから、フェルナンはおかしくなったのよ!」
声を荒らげると同時にエルザが腕を振り上げ、聖花が反射的に身構えた――その時だった。
「――僕がどうしたって?」
不意に扉の方から声が響いた。振り上げていた腕が止まり、エルザが恐る恐る振り返る。
そこに立っていたのはフェルナンだった。彼は先ず聖花へと視線を向け、何処か怪我をしている様子がないことを確かめるように見たあと、漸くエルザへと目を移した。
普段なら艶やかな笑みを絶やさないフェルナンの顔に今はその面影すらなく、冷ややかな視線をエルザへ向けたまま暫く何も言わなずにいた。
「フェルナン……」
先ほどまで怒りを剥き出しにしていたエルザの表情が一変した。腕を下ろし、暫く言葉を詰まらせていたものの、やがて覚悟を決めたようにフェルナンへと向き直る。
「私、ずっと貴方のことが……!」
その先を聞くまでもなかったのだろう。フェルナンは表情を変えず、震える声で気持ちを伝えようとするエルザを遮るように言い放った。
「君の気持ちには応えられない」
声を荒げているわけではないものの、返された声に普段のような抑揚はなく、妙なほど静かで淡々としていた。
「……この方がいるからなの?」
エルザが聖花へと視線を向ける。その目は先ほどまでと変わらず冷たく、今にも聖花を射殺そうとするほど鋭い。
「セイカは関係ない」
フェルナンは間を置くことなく否定した。それでもエルザが何かを言おうと口を開きかけ、それよりも早くにフェルナンが冷ややかな声で続けた。
「二度と関わらないでくれる?」
「……っ!」
エルザの瞳にみるみる涙が浮かんだ。唇を震わせたものの結局言葉にはならず、そのままフェルナンを押し退けるようにして教室を飛び出していく。
フェルナンは追い掛けようとはせず、遠ざかっていく足音をその場で聞いていた。
やがて完全に聞こえなくなり、教室へ静寂が戻ってくる。
「……怪我は?」
「……追い掛けなくていいんですか?」
「追い掛けてどうするの。それより今は、セイカが怪我をしていないかの方が心配だ」
確かに、追い掛けたところで今のエルザに何を言うのかという話になる。聖花はそれ以上尋ねることはせず、フェルナンを落ち着かせるよう答えた。
「怪我はしていません」
「本当に?」
「打たれる前に先生が来ましたから」
「そっか」
そこで漸く、フェルナンの表情が僅かに緩む。それでもすぐにいつもの調子へ戻ることはなく、何かを確かめるように聖花を見つめている。
「本当に大丈夫ですよ」
「……なら良いんだけど」
返事をしながらも、フェルナンはまだ何処か納得していないようだった。
「様子がおかしいと思って来てみれば……」
やがて小さく息を吐いてそう呟く。普段のような余裕のある様子にはまだ戻っておらず、その呟きを聞いた聖花はふと疑問を覚えた。
「……そういえば、何故ここに来たのですか?」
「ここ数日、彼女の様子がおかしかったから。念のため、ね」
彼女というのは当然エルザのことだろう。
つまりフェルナンは以前からエルザの気持ちに気付いていて、その上で様子がおかしいことを察し、念のため後を追ってきたということになる。
何処か残酷なようにも思えたが、先ほど自分へ手を上げかけたことを考えればエルザを可哀想だと思うこともできなかった。
それから僅かな沈黙が落ちた。珍しくフェルナンが何も言わず、聖花も何を話せばいいのか分からずにいたのだ。
何かないかと考えたところで、ふと聖花は別のことを思い出した。
「ところで先生、あれは逆効果だったと思います」
「あれ?」
フェルナンは何のことか分からなかったらしく、一度視線を上へと向けた。しかし少し考えたところで思い当たったのか、ようやく表情が僅かに戻った。
「……やっぱり?」
「庇ってくださったのは分かっていますし、有り難いとは思っています。ただ、今だけでももう少し普段通りにしていただけると……」
「気を付けるよ」
そう答えたフェルナンだったが、何処か困ったような笑みを浮かべていた。本人にも多少の自覚はあったらしい。聖花としても助けてもらったこと自体に文句があるわけではなく、それ以上言うつもりはなかった。
話も終わり、二人でそのまま教室を出ようとするものの、扉へと向かいかけた聖花がふと足を止めた。
「……一緒に出るのはやめた方がいいですね」
「…………そうだね」
随分と間を置いて返事が返ってきた。言っていることには納得している筈なのに、フェルナンは何処か不満そうだった。
「先生?」
「分かってるよ。今一緒に出たら、また余計な噂が増えるからね」
そう言いながらも、その声音には僅かに不服そうな響きが残っている。何が不満なのだろうと聖花は怪訝に思ったものの、わざわざ尋ねるほどのことでもないと考えて、それ以上は触れなかった。
「じゃあ、僕が先に出るよ」
「お願いします」
フェルナンは扉に向かい、取っ手へと手を掛ける。しかし直ぐに扉を開けず、一度だけ聖花を振り返った。
何を言うでもなく、暫く聖花を見つめている。
「……何ですか?」
「何でもない」
そう答えると、フェルナンは今度こそ扉を開けて教室を出て行った。
ただでさえ二人の関係について妙な噂が立っているのだ。こんな人気の少ない場所にある空き教室から二人揃って出てくるところなど見られれば、それこそ何を言われるか分かったものではない。
聖花は扉が閉まるのを見送ると、念のため暫くその場で時間を潰す。
―――これだけ間を空ければ大丈夫だろう。
そう判断してから空き教室を出ると廊下には誰の姿もなく、元々エルザに声を掛けられた場所自体が人気の少ない一角だったこともあり、どうやら余計なところを見られずに済んだらしい。
僅かに安堵して、そのまま自身の教室へと戻ろうとした時だった。
「――セイカ」
突然名前を呼ばれ、思わず聖花は足を止めて振り返った。
いつからそこにいたのだろう。少し離れた場所にアーノルドが立っていた。先ほど教室を出た時には見当たらなかったから、近くの曲がり角から丁度こちらへと来たところなのかもしれなかった。
「教室で何をしていた?」
「……何も」
「何も?」
いつもより僅かに低い声で聞き返されて聖花が違和感を覚えた直後、アーノルドは聖花が出てきた教室へと目を向けた。
「少し前に、同じ教室からフェルナン・パースが出てきたが」
よりにもよって誰にも見られないようわざわざ時間までずらしたというのに、一番見られたくない相手に二人とも見られていたらしい。
「何故あいつと二人で――」
「……ここで会話しているところを誰かに見られたら不味いのではないでしょうか」
尚も問い詰めようとするアーノルドを遮るように告げると彼は漸く気付いたらしく、ハッとしたように周囲へと視線を巡らせた。
普段のアーノルドなら人目のある場所で自分から聖花に話し掛けるようなことは殆どない。何か話がある時はわざわざ呼び出してくるのだ。
なのに今はそんなことさえ忘れていたらしい。アーノルドは何かを言おうとして一度口を開いたものの、結局その言葉を呑み込んだ。
「……今日の放課後、屋上へ来い」
それだけを言い残すと、今度こそ周囲を気にしながらその場を立ち去っていく。残された聖花は彼の背中が見えなくなるまで黙って見送っていた。
―――一体、何なのだろう。
以前から何を考えているのか分からないところはあったが、今日のアーノルドはそれとは少し違って見えた。
もっとも、今ここで考えたところで答えが出る筈もない。聖花は小さく息を吐くと、今度こそ自分の教室へと戻っていったのだった。




