3.噂に惑わされず
あれから二日が経ち、図書委員の仕事で朝から図書室へと向かった聖花は、いつもと変わらない様子で迎えてくれたグリッタとリブロ先生を見て僅かに安堵した。
ロザリアとの一件から数日が経った今も噂が収まる気配はない。教室へ行けば以前とは明らかに違う視線を向けられ、廊下を歩いているだけでも自分の名前が聞こえてくるようになっていて、ここでも同じような反応をされることは多少なりとも覚悟していた。
ところがグリッタは普段と何も変わらず、リブロに至っては聖花が図書室へと入ってきても特別な反応すら見せない。
それだけのことなのに聖花は妙に気が楽になった。ここ数日は何処へ行っても周囲の視線を意識せずにはいられなかったからか、いつも通りに扱われることがこれほど有り難いとは思ってもみなかったのだ。
もっとも、二人が噂そのものを知らない可能性もある。学年が違えば噂の広がり方にも差があるのかもしれないと思い聖花は図書委員の仕事を進めながら、それとなく尋ねてみることにしたのだった。
「……噂、ですか?」
グリッタがきょとんとした顔で聖花を見つめる。
その反応を見て、やはり知らないのだろうかと思ったのも束の間、グリッタは何のことか思い当たったらしく小さく頷いた。
「何か事情があるのでしょう?噂だけでセイカさんが理由なく人を打ったとは思えないもの」
どうやら知らなかったわけではないらしいが、ただグリッタは聖花がロザリアを打っていないと決めつけているわけでもなかった。
その場を見ていなかった者が真偽を判断できないのは当然だろう。実際ロザリアの頬が赤くなっていたことまで噂になっている以上、何も知らない彼女からすれば当然のことだった。それでも、周囲の噂だけを聞いて聖花が理由もなく公爵令嬢に手を上げたとは考えていないらしい。
本当に何もしていない聖花からすれば、できることなら最初から疑われない方が嬉しい。けれど、事情を知らないにもかかわらず一方の言い分だけを信じるのではなく、聖花にも何か事情があるのではないかと考えてくれているだけで今は充分に有り難かった。
「それに、パース先生が普段から女生徒と距離が近いことは周知の事実ですもの。今さらですわ」
「先輩は先生と面識があるのですか?」
意外に思って尋ねると、グリッタは何でもないことのように答えた。
「授業を受けたことならあるわよ。あの容姿でしょう?それに女性との距離も近いから、良くも悪くも有名なの」
「……成程」
聖花は小さく頷いた。
言われてみれば納得できる話だった。フェルナンは生徒会の担当も務めているのだから上級生が知っていても何ら不思議ではない。その上あの性格なのだから、一度でも授業を受けたことがあれば印象に残るだろう。むしろ、あれだけ目立つ人物を知らない方がおかしいのかもしれなかった。
そう考えると、今回の噂もフェルナンだったからこそ余計に広まりやすかったのかもしれない。
「それにしても、随分と大変なことに巻き込まれているみたいね。相談に乗ることくらいしかできないけれど、私は貴女の味方よ」
「……ありがとうございます」
聖花は素直に礼を伝えた。
貴族社会では誰かを庇ったというだけで自分まで巻き込まれることがある。それだけならまだしも、場合によっては家にまで影響が及ぶことさえあるのだ。
グリッタもそれくらい理解しているだろう。それでも事情を何も知らない状態でありながら味方だと言ってくれたことが有り難く、聖花は先ほどまで胸の奥に残っていた重苦しさが僅かに薄れた気がした。
それまで二人の話へ加わっていなかったリブロも、仕事が一段落したところでいつものように会話へと加わってきたものの、噂について何かを尋ねられることもなければ腫れ物に触れるように扱われることもない。
そのまま普段と変わらない他愛のない話を交わしているうちに、聖花も何時しか周囲の噂を気にしなくなっていた。
だからこそ図書委員の仕事を終えて図書室を出た途端、現実へ引き戻されたような気分になったのだ。
廊下を歩いていれば、すれ違った生徒の視線が一度こちらへと向けられ、直ぐに逸らしたり何かを囁き始めたりしていて居心地が悪い。聞こえてくる言葉をわざわざ拾おうとは思わなかったが、自分のことを話していることくらい分かったから。
先ほどまでは誰もそんな目で自分を見ていなかった。その落差に思わず小さく息を吐いて、聖花は教室へと足を進めた。先ほどグリッタと話したお陰か多少は気が楽になったとはいえ、早く噂が落ち着いてほしいという気持ちだけは変わらなかった。
やがて教室へと辿り着いて中に入ると、こちらに気付いた何人かが一瞬だけ会話を止めた。またか、と思いつつ何も聞こえなかったことにして自分の席へと向かおうとした、その時だった。
「あっ、セイカ。おはよ!」
教室の空気などまるで気にしていないような明るい声が響いた。思わずそちらを見ると、リリスがこちらへと視線を向けている。
丁度彼と話していた令嬢たちがリリスに何やら伝えていて、そのうちの一人は聖花の方を気にするように視線を向けていた。しかしリリスはそれを聞いても態度を変えることはなく、令嬢たちの言葉を軽く流すと何一つ変わらない様子で聖花の方へと歩いてくる。
少し前から学園に来ていなかったというのに随分と元気そうだった。てっきり噂についてまだ知らないのかとも思ったものの、先ほどの様子を見る限りそういうわけでもないらしい。
―――知った上で、いつも通りなのだ。
周囲の者が少なからず聖花との距離を意識するようになった中、リリスだけはそんなものなど最初から存在していないかのようだ。普段ならば何を考えているのか分からないところのある相手だというのに、今ばかりはその遠慮のなさに少しだけ救われる気がしていた。
もっとも、これまでのことを考えれば安心してばかりもいられないことも確かで、聖花の前までやって来た彼は挨拶を終えるなり何の前置きもなく口を開いたのだった。
「それで、――打ったの?」
「打ってません」
「……だってさ」
突然の問い掛けに思わずはっきりと否定すると、リリスはそれだけで納得したように目を細め、誰に言うでもなく小さく呟いた。
誰に話しているのだろうと聖花がその視線を追ってみれば、案外近いところにルードルフがいた。どうやら先ほどのやり取りを聞いていたらしく、口元に手を当てたまま何かを考えている。
何故そこでルードルフを見るのか分からなかったが、リリスはそれ以上暴行について確かめようとはしなかった。
「親密ってのは?」
「そこまで親密というわけではありません」
「こっちは否定しない、と」
ふむ、と言いたげにリリスが付け足す。尋問されている気分になり聖花がばつの悪そうな顔を浮かべると、何を納得したのかリリスが小さく頷いた。
「騒ぎがあった時、ロザリア嬢の周りに誰かいた?」
「確か……同じクラスのマイルさんと、ベルさんと呼ばれていた方がいらっしゃったかと思います」
「マイル嬢とベル嬢、ね……」
確認するように名前を繰り返したリリスは、教室にいるマイルへと一度だけ視線を向けた。
「分かった。ありがとう」
「……はい」
取り敢えず小さく返事をする。感謝されるようなことを答えた覚えはなかったものの、そう言われた以上何も返さないわけにもいかなかった。
それで話は終わったのだと思った。
ところがリリスは離れていくどころか、今度は先ほどまでの質問などなかったかのように何でもない世間話を始めた。あれだけの噂が流れているというのにやはり周囲の視線を気にした様子もなく、聖花に対する態度も以前と何一つ変わっていない。
少なくともリリスと話している間だけは周囲から向けられる視線をいちいち意識せずに済む。それでも彼と親しげに話していることで今度は別の噂まで増えたりしないだろうかと考えてしまうあたり自分も随分と今の状況に参っているらしい。
そんなことを考えながら適当に相槌を打っていると、やがて朝礼の時間が近付きリリスも自分の席へと戻っていった。
聖花も授業の準備をしようと机へ向き直ったものの、ふと先ほどのやり取りが頭に浮かぶ。
何となく気になって顔を上げると、先ほどまで聖花の前にいたリリスは朝礼前だというのに今度は少し離れたところで別の令嬢へと話し掛けていた。いつもと変わらない人懐っこい笑みを浮かべていて、一見すればただの世間話にしか見えない。
一方のルードルフも既にこちらから視線を外していて、何事もなかったように隣の席で本を開いている。
―――もしかすると二人の間で何か話が通っているのだろうか。
僅かにそんな疑問が浮かんだものの今の聖花には確かめる術もない。そもそも自分から余計なことへ首を突っ込む必要もないのだ。
何より二人が何をしているにせよ、今はこの騒ぎが少しでも早く収まってくれることの方が重要だった。
聖花はそれ以上考えるのをやめると、机の上に教本を取り出したのだった。




