2.もう一つの噂
嫌な予感が的中するように、噂はあっという間に広まった。
ロザリアの思惑通り『セイカ・ゴルダールが公爵令嬢であるロザリア・モネストの頬を打った』という話は瞬く間に学園中へと広まり、休み時間になれば至るところから自分の名前が聞こえてくるようになった。
ただ、一つだけ。この間の一件とは無関係な噂まで一緒になって広まっていた。
―――セイカ・ゴルダールは、教師であるフェルナン・パースとただならぬ関係にある。
初めて耳にした時、聖花は思わず耳を疑った。もっとも二人の関係を疑われたこと自体に驚いたわけではなく、問題は根拠として語られている内容だった。
二人揃って学園を休んで何処かに出掛けていたのではないかという話だけならまだ分からなくもない。実際、二人でパトリシア王国へ行っていたのだから、それだけを見れば強ち間違ってはいない。
だが中には放課後に人目を忍んで会っていただの、口付けをしていただの、聖花にはまるで身に覚えのない話まで混ざっていた。誰がそんなことを言い始めたのかも分からず、一部に事実まで含まれているからこそ余計に性質が悪かった。
否定しようにも、誰かが聖花本人へと直接尋ねてくるわけではなかった。近くで聞こえるように話しているだけの噂にわざわざ割って入って一つ一つ否定して回ったところで、却って必死に隠そうとしているように見えるだけだろう。
「なぜ退学にならないのかしらね」
「本当に。恥ずかしくないのかしら」
「どうせすぐに捨てられるわよ。先生の周りにはご令嬢が沢山いらっしゃるもの」
もはや聞かせるつもりなのだろう。少し離れたところにいる令嬢たちは声を潜めることすらせず、時折こちらへと視線を送りながら好き勝手に話している。
流石に居心地が悪かった。今日はリリスも来ておらず、聖花が何とも言えない気持ちのまま静かに席へと着いていると席を立っていたルードルフが隣へと腰を下ろした。
「随分と良からぬ噂が立っていますが……大丈夫、ではなさそうですね」
「御心遣いありがとうございます」
聖花が小さく頭を下げると、ルードルフは周囲に一度だけ視線を向けてから声を落とした。
「それで、これは誠なのですか?」
「信じていただけるかは分かりませんが、暴行については濡れ衣です」
「……もう一つは?」
一瞬、言葉に詰まった。
何もないと言い切ることはできない。実際にフェルナンとは二人でパトリシア王国へ行っているし、他人へ話せない事情もいくつかある。それでも、少なくとも噂されているような関係ではないことだけは確かだった。
「少なくとも、恋愛関係ではありません」
ルードルフはそれ以上何も尋ねず、何かを考えるように黙り込んだ。沈黙が妙に気になったものの聖花としてはむしろ有り難く、頼むからこれ以上は何も聞かないで欲しいと願いながらそっと視線を前へと戻す。
やがて朝礼の時間になり、噂のもう一人の当事者であるフェルナンが教室へと入ってきた。途端にそれまで別の話をしていた生徒たちまで一斉に彼へ視線を向け、あちらこちらから小さな囁き声が上がる。
当然フェルナンも気付いたらしい。教室を見渡した彼は小さく息を吐くと、いつもと変わらない笑みを浮かべた。
「最近噂になっている件ですが、不用意に口にしないよう。……分かりましたね?」
笑顔のままそう言い含めるフェルナンから、僅かに冷気が漏れ出していた。本人にその自覚があるのかは分からないが、先ほどまで小声で話していた生徒たちは一斉に息を呑み、教室は水を打ったように静まり返った。
様子を見ていた聖花は、却って怪しまれるのではないかと思いながら小さく息を吐いた。
恐らくフェルナンなりに庇ってくれたのだろう。根も葉もない噂を好き勝手に広められているのを見過ごせなかったのかもしれないし、そのこと自体は有り難かった。
有り難かったのだが、今だけはもう少し普段通りにしてほしかったというのが本音だった。何しろ噂の相手とされている本人が普段とは明らかに違う様子で教室中へ釘を刺したのである。これで話が収まればいいものの、逆に妙な勘繰りをされるのではないか。
聖花は暫くフェルナンを見ていたものの、やがて何事もなかったように視線を逸らした。
聖花の懸念は残念ながら外れなかった。朝礼が終わった直後こそ、フェルナンの言葉が効いたのか教室内で噂を口にする者は目に見えて減っていた。だが、それで興味まで失われるわけがない。教師の目がなくなったところで、今度は先ほどの出来事まで新しい話題として加わっていた。
「随分と怒っていらしたわね」
「やっぱり、何かあるんじゃない?」
「でも、あそこまで仰ったのよ。あまり話さない方が……」
聞こえてくる声に、聖花は何とも言えない気持ちになった。
―――やっぱりこうなった。
それでもフェルナンが庇おうとしてくれたことに変わりはなく、本人に文句を言う気にもなれなかった。結果だけを見れば裏目に出てしまったものの少なくとも悪意があってしたことではないから。
ただ、時間が経つにつれて露骨な陰口こそ減った一方、代わりに向けられる視線が増えていった。
教室を出れば廊下で話していた令嬢たちが一度こちらを見てから声を潜め、授業が終われば誰かが聖花の方を窺いながら隣の者と何かを囁いている。聞こえてくる内容も暴行のことだったりフェルナンのことだったりと様々で、中にはどこから出てきたのか分からない話まで混じっていた。
別に全員から露骨に敵意を向けられているわけではない。噂を信じている者もいれば、半信半疑の者もいる。ただ面白そうだから話しているだけの者もいるに違いないだろう。だが触らぬ神に祟りなしと言うように、誰一人として話しかけて来ようとはしない。
だからこそ、余計にどうしようもなかった。
こうして周囲から視線を向けられること自体は初めてではない。入学式の頃にも似たようなことはあったし、その後も暫くは何かにつけて噂されていた。それでも最近はようやく落ち着き、以前ほど周囲を気にせず過ごせるようになっていたというのに、それがまた元に戻ってしまった。
いや、以前よりも酷いかもしれない。あの頃は元平民の養女という珍しさから興味本位で見てくる者も多かったが、今向けられている視線には明らかな悪意が混じっている。公爵令嬢へと手を上げた無礼者。教師と不適切な関係を持っている生徒。そんな目で見られているのだと思えば、嫌でも意識してしまうのだ。
―――居心地が悪い。
結局のところ、それに尽きた。せっかく少しずつ馴染み始めていたというのに、まさか以前より酷い形で振り出しに戻ることになるとは思わなかったのである。
せめて早く飽きてくれればいい。聖花はそう願いながら、今日何度目になるか分からない溜息を胸の内だけで零した。




