1.仕組まれた一幕
セイカとフェルナンが帰国し、何事もなかったかのように学園へと戻ってから数日が経った。
二人がパトリシア王国にいる間も、アデルは何とか聖花の不在を隠し通してくれていたらしい。
ただ、一度だけ危ない場面があったという。何故かロザリアが聖花の寮部屋を訪ねてきたのだ。アデルはどうにか引き止めようとしたものの中々諦めてもらえず、最終的には「原因の分からない体調不良を公爵令嬢にうつしては大変だから」と押し切ったそうだ。もしアデルが殆ど部屋に張り付いてくれていなければどうなっていたか分からない。
帰ってきて話を聞いた聖花は改めて礼を伝えると共に迷惑を掛けてしまったことを詫びたのだった。
授業のない日に出発したとはいえ、結果的には丸二日も学園を休んでいる。以前休んだ時より一日長い上に、それほど間も空いていなかったため、登校した初日には「そんなに身体が弱くて大丈夫なのかしら」という陰口まで耳にした。
隣人のルードルフにも表向きは心配されたし、リリスからは「何処に行ってたの?」と冗談交じりに聞かれ、その時ばかりは聖花も冷や汗をかいたものだ。いや、恐らく何かを察していたのだろう。そう思わせる何かが、彼にはあるのだ。
もっとも、それも帰国したばかりの頃の話である。数日も経てばそんなことを気にする者はいなくなり、周囲もいつも通りの日常へと戻っていた。
フェルナンのことも、一先ずは片付いたと言っていいだろう。シンシアと再会してからの彼を見る限り以前のような危うさはなくなっているし、聖花がこれ以上何かをする必要もなさそうだった。
そうして一つの問題が片付けば、自然と意識は別のことへ向いていく。
―――カナデのことだ。
フェルナンのことで色々と立て込んでいたものの、カナデとの問題が何一つ解決していないことに変わりはない。今の自分はカナデの身体にいて、マリアンナの身体にはカナデがいる。この状況をいつまでも続けるわけにはいかなかった。
そろそろカナデのことにも向き合わなければならない。ここ数日、聖花は改めてそう考えるようになっていたのだ。
―――そんな矢先だった。
「少しよろしいかしら」
休み時間、廊下を歩いていた聖花は不意にロザリアから声を掛けられた。
傍には二人の令嬢がいる。一人は聖花も見知っているマイルで、もう一人は別のクラスに所属しており、以前からロザリアと行動を共にしているところを何度か見かけたことのある令嬢だった。
正直なところ、話したくはない。
これまでロザリアと関わって良かったことなど一つもなかった。話せば揚げ足を取ろうとしてきたり、触れられたくないところを平然と突いてきたりと、ろくな記憶がない。
とはいえ理由もなく断るわけにはいかなかった。相手との身分差もあるが、それ以前にただ話し掛けられただけで拒絶するのも不自然なのだ。
「何でしょう?」
仕方なく足を止めて応じたものの、ロザリアは直ぐには話そうとせず、傍にいる令嬢へと視線を送った。
「……本当に、よろしいのですか?」
何かを確かめるように、令嬢が小声で尋ねる。しかしロザリアは答えず、再び聖花へと目を向けた。
「あっ、貴女っ。何をしているの!?」
突然声を荒らげたロザリアに、聖花が何のことかと小首を傾げた、その直後――パァン、と乾いた音が廊下へ響いた。
聖花の目の前で先ほどの令嬢がロザリアの頬を力いっぱい打ったのだ。一瞬だけ目を見開き、すぐに何が起きたのかを聖花は理解した。
―――やられた。
困惑するより先に、そう思った。
わざわざ説明されるまでもない。これからロザリアが何をするつもりなのかなど、この状況を見れば嫌でも分かった。
案の定、ロザリアは赤くなった頬を押さえるなり、大声で聖花を叱責し始めた。先ほどまで不安げにしていた令嬢も、たった今自分の手でロザリアを打ったというのに、何食わぬ顔でそれに加わって聖花を非難している。
一方、マイルだけは何も言わなかった。聖花を責めるでもなく、ただ黙ったままロザリアを凝視している。
当然、これだけの騒ぎになれば周囲も放ってはおかない。その場で話していた者たちは会話を止め、通り掛かった者も足を止めた。さらには何事かと野次馬まで集まり始め、瞬く間に辺りは騒然となった。
しかも、その場にいた者たちの多くは、聖花がロザリアを打ったものと信じて疑っていないらしい。
否定しなければならない。そう思った時だった。
「何事……!?」
人混みの向こうから声が上がった。
騒ぎを聞きつけたらしいフェルナンが人の間を掻き分けて姿を現す。初めは何が起きたのか分からない様子だったものの、その中心に聖花がいると気付いた途端、表情を変えて足早に近付いてきた。
「ロザリア嬢――何があったんですか?」
「どうもこうも、セイカ・ゴルダールが私の頬を打ちましたの」
ロザリアはそう言うと、周囲へ見せつけるように赤くなった頬をさすった。
よくもこれほど悪びれずに嘘を吐けるものだと感心すらしたが、聖花としてはそれどころではない。これだけ多くの人間が見ている前で騒ぎになった以上、真偽にかかわらず悪い意味で話が広まるのは避けられそうになかった。
「……セイカが?」
フェルナンが怪訝そうに眉を寄せると、ロザリアの眉がぴくりと動いた。けれど彼女は何も言わず、小さく頷くだけだった。
フェルナンはそんなロザリアを一瞥すると、まずは騒ぎを収めるために周囲へと指示を出した。
「一先ずロザリア嬢は保健室へ。マイル嬢、ベル嬢。ロザリア嬢を頼みます」
「「……はい」」
二人が返事をすると、フェルナンは今度は聖花へと顔を向けた。
「セイカは話を聞くから、僕と一緒に来てくれる?」
「分かり……ました」
こればかりは仕方がない。周囲から幾つもの視線が向けられているのを感じながら、聖花はフェルナンの後についてその場を離れた。
「それで、本当は何があったの?」
部屋へ入るなり、フェルナンはそう切り出した。
「私が聞きたいくらいです」
聖花が溜息混じりに答えると、フェルナンは一応確認しておこうとでもいうように尋ねる。
「叩いてない?」
「叩いてません」
「だよね」
まるで初めから答えが決まっていたかのように、やり取りはあっさりと終わった。
「……最初から信じているなら、何のために連れてきたんですか?」
思わず尋ねると、フェルナンは当然だと言いたげに小さく息を吐いた。
「一応、教師だからね。話くらいは聞かないと」
その視線が、僕が教師だってことを忘れていたよね、と言っているような気がして、聖花は僅かに目を逸らした。教師どころか今は自分の担任なのだから事情を聞かれるのは当然である。
分かってはいるし別に忘れていたわけではないのだが、こうして二人きりの部屋にいると、どうしても以前のことを思い出してしまうのだ。別に直そうとしてはいないものの、以前ほど身構えなくなったとはいえ完全に気にならなくなったわけではない。
「それで、最初から教えてくれる?」
フェルナンが話を戻すように声を掛ける。
「と言っても、本当に大したことはしていませんよ。廊下を歩いていたらロザリア様に呼び止められて、何かと思って話を聞こうとしたら……」
そこで一度言葉を切り、聖花は先ほどの光景を思い返した。
「隣にいた令嬢が、突然ロザリア様の頬を叩きました」
「それを君がやったことにされた、と」
「そういうことだと思います」
フェルナンは僅かに考え込むように目を細めた。
「随分と分かりやすいことをするね」
「私もそう思います」
実際、その場にいた三人が口裏を合わせれば聖花にとってはかなり不利な状況だった。周囲にいた者たちはロザリアたちが騒ぎ出してから此方に目を向けただけで、それ以前に何が起きていたのかを見ていた者がどれほどいるのかも分からない。
「でも、どうして急にこんなことを……」
これまでロザリアから敵意を向けられたことなら何度もある。しかし、今回は明らかに今までとは質が違った。わざわざ他の令嬢に自分を叩かせて聖花の仕業に見せかけるなど、最初から陥れるつもりでなければする必要がないのだ。
「心当たりは?」
「嫌われている自覚ならありますが……ここまでする理由までは分かりません」
ただ嫌がらせをしたかっただけとは思えない。ただ頬を叩いたという噂を流したいだけなら、あそこまで大勢の目につく場所で騒ぎを起こす必要はない筈なのだ。
「……これで終わりではなさそうですね」
「僕もそう思う」
フェルナンが同意する。
「しばらく気をつけた方がいいね。何をするつもりなのか分からない以上、今はそれくらいしか言えないけど」
「そうですね……」
聖花も同じことを考えていた。
あれで終わりならまだいい。けれどどうしてもそうは思えず、何かまだ続きがあるのかもしれない――そんな嫌な予感だけがどうしても消えてくれなかった。




