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26.フェルナンの想い

 学園へ戻ってからというものの、フェルナンはセイカを徹底して避けていた。


 廊下の向こうに姿を見つければ別の道を選び、授業以外では可能な限り顔を合わせないようにする。声が聞こえただけでも意識をそちらへと向けないよう努め、どうしても同じ場所にいなければならない時には決して長く見ないようにしていた。


 別に、彼女を嫌いになったわけではない。

 むしろ逆で、遠くから姿を見ただけでも腹の奥からあの感覚がじわじわと満ちてきた。自分のものではない何かに思考を侵され、セイカとシンシアの境界が曖昧になっていくような、あの得体の知れない感覚だ。


 それを覚える度に入学式の日の出来事が鮮明に蘇った。

 また同じことをしてしまうかもしれないし、今度はあの程度では済まないかもしれない――そう考えると、近付くことなどできなかった。

 学園に戻ると決めた以上教師としての仕事から逃げるつもりはなかったが、それとセイカへ近付くことは別の話である。少なくとも、自分が自分でいられるという確信を持てないうちは距離を置くしかなかった。


 だからこそ、ある朝リリスに呼び出されていた場所へと向かった先でセイカの姿を見つけた時、フェルナンはすぐに足を止めたのだ。



―――どうして彼女がここにいるのか。


 問い詰めようとした時には何故か話はフェルナンの知らないところで進んでいて、気付けばパトリシア王国に行くことまで決まっていた。


 当然、拒否した。


 フェルナンは国からパトリシアに近付かないよう念を押されている。上層部に知られれば面倒なことになるのは目に見えていたし、何よりセイカと長時間普通に行動するなど、今の自分にできるとは到底思えなかった。

 しかもリリスは入学式の日にフェルナンがセイカに何をしたのか大体は分かっている。それが原因で学園に来なくなっていたことも理解している筈なのに、どういうつもりなのか何一つ説明しようとしないのだ。


 結局まともに抵抗する暇さえ与えられないまま、リリスが持っていた転移石によって半ば強引にパトリシア王国へと連れて行かれてしまった。

 呼ばれたからと素直に来てしまったことを後悔したものの、こうなってしまえば最早どうにもできないので、到着してからもフェルナンはできる限りセイカと距離を取ろうとしていた。


 学園では顔を見ることさえ避けていた相手と、これから長時間行動しなければならないのだ。いつまたあの感覚に呑まれるか分からない以上、警戒するのは当然だった。


 ところが、何時まで経っても何も起こらなかった。セイカが話し掛けてくれば普通に言葉を返せるし、近くを歩いていても胸の奥が何かに覆われるようなことはなく、彼女の姿がシンシアに重なって見えることもなかった。

 最初のうちは、それでも目を合わせないようにしていた。平気だと思った途端に、また自分を見失うかもしれない。そんな恐怖が消えたわけではなかったからだ。


 しかし街を案内している途中、フェルナン自身が別のものに気を取られて足を止めてしまったのだ。視線の先にあったのは、かつてシンシアと暮らしていた場所の方角だった。


 行ったところで、もう何もない――そんなことは分かっていた。シンシアがいなくなった後もずっと待っていた場所だったから。それでも一度意識してしまえば視線を外すことができず、気付けばセイカやリリスに呼ばれていることさえ耳へと入らなくなっていた。


 その後、人の少ない場所へと連れて行かれたフェルナンは最終的にリリスの手によって無理やりセイカと向き合わされることになった。


 当然、身構えた。これまでなら、まともに目を合わせるだけでも何かに侵食されるような感覚があったから。まして、これほど近い距離で正面から見れば再びおかしくなってしまっても不思議ではなかった。

 けれど、何も起こらなかったのだ。


 理由が分からなかった。学園では声を聞くだけでも可笑しくなりそうだったというのに、どうして此処では平気なのか。場所が関係しているのか、それとも他に何か理由があるのか、考えてみても答えは出なかった。


 普通に話せるようになったからか、フェルナンは別のことにも気付き始めた。セイカを見ればシンシアを思い出すことはあるものの目の前にいるのがセイカだという認識が揺らぐことはなく、彼女と言葉を交わしている時間そのものが嫌ではなかったのだ。


 ところが学園へと戻ると、普通に話せるかも知れないという淡い期待はあっさりと裏切られた。

 セイカを見た途端、またあの感覚が戻ってきたのだ。


 パトリシアでは何ともなかったのだからもう大丈夫なのかもしれない――そう考えていた自分が甘かったのだろう。滲み出すように何かが思考を覆っていくような感覚に襲われた瞬間、フェルナンは直ぐにセイカから視線を逸らした。


 なぜ場所が変わっただけで元に戻るのかという疑問はあった。しかし原因を探るために彼女へと近付こうとは思えない。

 また入学式の日のようになったら、今度こそ取り返しがつかないかもしれない。前と同じことを考えたフェルナンは再びセイカを避けるようになったのだ。


 そんな日々が続いたある日の放課後だった。

 生徒会の活動も終わり、校内に残っている生徒も少なくなった時間帯だった為に普段より警戒が緩んでいたのだろう。廊下の角を曲がったところでセイカと鉢合わせたのだ。


 互いの姿を認識するまで僅か一瞬だったものの、それでもフェルナンには充分だった。



―――ああ、やっぱり駄目だ。


 目が合った瞬間、胸の奥で鳴りを潜めていたナニカが一気に膨れ上がる。

 直ぐに視線を逸らさなければならない。そう分かっているのに身体が動かない。目の前にいるセイカの輪郭に別の姿が重なり、少しずつシンシアへと書き換わっていった。


 最後に残った理性から出たのは、セイカに逃げるよう促す言葉だった。

 しかしそれすらも長くは続かず、次第に思考そのものまで黒い何かに覆われ、セイカとシンシアの境界が消えていった。無意識に氷で彼女の足を止めた頃には自分が何をしているのかさえ殆ど理解できなくなっていた。


 今度こそ、逃がしてはならない。

 もう二度と、シンシアを失いたくない。

 何としてでも、自分の手が届くところに置いておかなければならない。


 その考えだけに支配され、フェルナンが距離を詰めた――その時だった。


 突然、頬に衝撃が走った。


 何をされたのか理解するまでに数秒掛かったものの、僅かに開けた思考の先で自分を見上げているセイカの姿が目に入ると、そこで漸く頬を打たれたのだと気付いた。

 それ以上に驚いたのは、自分ではどうすることもできなかったあの感覚が、ほんの僅かな間だけ弱まっていることだった。


 それでも完全に正気へ戻ることはできず、再び視界の中にいるセイカの姿が揺らいで、またシンシアへと変わりかけていた。



「先生」


 彼女は一歩踏み込むと、フェルナンの顔を両手で掴んだ。流石のフェルナンも何かから逃げるように顔を逸らそうとしたものの、その視線は彼を逃がすことはなかった。



「私を見てください」


 至近距離で真っ直ぐに彼を見つめていたのはシンシアではなくセイカだった。淡い光の粒子が彼女を僅かに覆い、間もなく空気へと溶けるように消えていく。



「……は」


 何が起きたのか、フェルナンには分からなかった。

 ただ、綺麗だと思った。淡い光を纏い、至近距離から真っ直ぐに自分を見つめるセイカの姿に、思わず掠れた声を漏らして目を見開く。


 セイカは闇属性だった筈だ。そして、問題を起こして捕らえられた罪人でもあった。後者については濡れ衣だったとしても前者まで覆るものではない。


 それなのに今、あれほど長い間胸の奥へまとわりついていた、自分なのに自分ではないような感覚が消えている。

 真正面からセイカを見ても何も起こらず、彼女の姿がシンシアへと変わることもなく、目の前にいる少女がセイカなのだと、ハッキリと分かった。


 ならば、これで終わる筈だった。セイカへの執着も、彼女を手放したくないという感情も、全てあの黒い何かによって生まれたものだったのだと、いつの間にかそう思うようにしていたからだ。


 初めは純粋な興味だった。正体の分からない面白そうな少女。それだけだった筈なのに、脅すようにしてまで自分との約束を取りつけ、最後の個人授業が終わることには寂しさを覚えたし、彼女が自身を拒否しようとした時には手放したくないとさえ思った。

 最後には、その理由をシンシアと似ているからだと結論付けていた。


 けれど、思考をかき乱す物が消えた今でも何一つ変わっていなかった。頬を打たれたばかりで、どう考えても最悪の状況だ。それなのに真正面からセイカに見つめられていることを意識すると、胸の奥には先ほどまでとはまるで違う感覚が残っていた。

 今考えるべきことではない。そう分かっているのに、妙に強く意識してしまった。


 そんなフェルナンにセイカは、シンシアが亡くなったと分かったわけでもないのにそう思い込んで逃げているだけではないのかと言い放った。

 瞬間、今度は僅かな苛立ちが込み上げた。何も知らないくせに――そう言い返したかった。けれど図星であることを誰よりも理解していたのはフェルナン自身で、だから結局、何も言い返せなかったのだ。



「探すんですよ。もう一度、パトリシア王国を」


 そんな彼に、セイカはさらに突拍子もないことを言い出した。


 馬鹿なことを言うと思った。そんな単純な話ではないことくらい、セイカにも分かる筈だ。あれから何年経っていると思っているのか。どうやって探すつもりなのか。学園はどうするのか――疑問はいくらでも浮かんだ。

 それなのに、セイカは自分も一緒に行くとまで言いだしたのだ。


 ますます理解できなかった。

 自分は彼女の秘密を利用して脅すような真似をした。それだけではなく入学式の日には彼女を部屋へと閉じ込め、つい先ほども怖がらせたばかりだというのに、どうしてそこまでしてくれるのか。


 拒否しようと思えばできたし、そんなことは必要ないと一言告げれば終わる話だった。

 けれど、できなかった。今度こそ見つけられるかもしれない。そんな僅かな希望を、自分でも気付かないうちに抱いてしまったのかもしれなかったからだ。


 結局、フェルナンはセイカの提案を受け入れた。



―――……馬鹿な子。


 自分が凍らせた廊下を隣で一緒に掃除している彼女を横目に見ながら、何故か随分昔にも似たようなことを思った気がした。

 どうしてそこまで他人のことへ首を突っ込めるのだろう。それでも不思議と嫌な気持ちはせず、先ほどまで感じていた苛立ちもいつの間にか消えていた。


 フェルナンは僅かに口元を緩め、そのままセイカと並んで床を拭き続けたのだった。



◆



 二度目にパトリシア王国を訪れた時には、以前よりも自然にセイカと話せるようになっていた。


 もっとも、だからといって以前と同じように接するつもりはなく、セイカに自分から不用意に近付いたりしようとはしなかった。

 これまで自分が何をしたのかは覚えているし、彼女自身、嫌に決まっている。だから少なくとも身体的な距離については一線を引き、その代わり言葉では時折揶揄う様なことを口にしたりもした。


 シンシアを探すために来たというのに、セイカと二人で過ごしている時間は以前よりも心地よかった。



「セイカが新しく作ってくれる?」


 そんな冗談まで、自然と口から出た。完全に何も考えずに言ったわけではない。困った顔をするか、呆れて怒るか、いつものように言い返してくるか。その反応が見たくなって、少し意地悪をしただけだった。

 ところが返ってきたのは思いのほか真剣な言葉で、驚きで目を見開くとともに胸の奥にじんわりと何かが広がっていくのを感じて、話を少しでも逸らそうとフェルナンは思い出したように口を開いた。



「そういえば、セイカは元平民だったね」


 実際これまで気にも留めていなかったため、すっかり忘れていた。


 だが口にした直後に後悔した。かつて自分は、彼女の秘密を利用して脅迫まがいの約束を取りつけた。それも、平民だった少女が罪人となり、そこから貴族令嬢になったばかりの頃に。

 どうやって牢を出たのかについては今はどうでもよくて、それよりも自身の一言でセイカが突然黙り込んだことの方が気になったのだ。思い出したくないことまで思い出させてしまったのではないか、と。



「ごめん」


 気付けば、真っ先に謝罪が口をついて出ていた。というのに、セイカは何故突然謝ったのか少しも分かっておらず、不思議そうに僅かに首を傾げてこちらを見ている。



「いや、何でもない」


 そんな彼女に調子を狂わされた気がして、すぐに訂正した。


 その後パトリシア王国に近付くにつれて、フェルナンの意識は次第にシンシアへと向かっていった。本当に会えるのか。もし見つかったら何を話せばいいのか。考え始めれば際限がなく、気付けば黙り込んでいた。

 セイカも何となく察したらしい。一度だけ緊張しているのかと尋ねてきたものの、それ以上は何も聞いてこなかった。


 その日は宿を探すことになったが、今度は別の意味でセイカに呆れさせられた。



―――警戒心がなさすぎる。


 いや、正確には警戒心が高いのか低いのかよく分からない。普段は随分と慎重なくせに、妙なところで無防備になる時があるのだ。


 今、彼女は男と二人きりでいる。それも、彼女自身に対して過去に問題を起こした男とだ。それなのにセイカが気にしているのは今夜泊まる宿が見つかるかどうかばかりで、フェルナンと二人でいることについては何の危機感も抱いていないらしい。

 今の自分なら大丈夫だと安心しているのか。それとも、そもそも男として警戒する対象にすら入っていないのか。後者だとすれば少し複雑だった。


 けれど、ふと別の考えが浮かぶ――もしかすると、もう自分は何もしないと信じてくれているのだろうか。

 そう考えた途端胸の奥にあった僅かな痛みが薄れ、代わりに妙な嬉しさが込み上げてきた。あれだけのことをしておきながらそれでも今は安心して隣にいられる相手だと思ってくれているのなら、少なくともセイカの中で自分は少しだけ特別な位置にいるような気がした。そんなことを考えて喜んでいる自分もどうなのだろうと思ったが口にすることはできず、結局フェルナンは呆れた言葉を返すだけに留めたのだった。


 翌朝になってみれば、今度は二人とも何処から探すのか何一つ決めていなかったことが分かった。

 どうしたものかと考えているとセイカが以前パトリシアへ来た時のことを思い出したらしく、フェルナンが意識して考えないようにしていた場所に触れてきた。



「あの時、何を見ていたんですか?」


 答えずに済ませることも考えた。けれど誤魔化し続けるわけにもいかず、僅かな抵抗の末に昔シンシアと暮らしていた家があの方角にあることを話すと、予想していた通りセイカはそこへ行こうと言い出した。

 しかしフェルナンにとってはシンシアと暮らした場所であり、同時に彼女を失った場所でもあり、できることなら二度と近付きたくない場所だった。それらしい理由をいくつ並べてもセイカは引かず、結局また押し切られる形でかつての家へと向かうことになったのだ。



―――どうせ、何もない。


 その時のフェルナンは本気でそう思っていた。


 ところが家の周辺を歩いていると近隣に住む男から声を掛けられ、そしてその男の口から思いもしなかった話を聞かされた。

 瞬間、フェルナンの中で長い間動かなかったものが大きく揺れた。シンシアは戻ってきていた。それも、自分が何処へ行ったのかを探していたのだ。少なくとも、自分だけが一方的に彼女を探し続けていたわけではない。


 もう立ち止まってはいられなかった。セイカに押されたからではなく、今度こそ見つけたいと自分自身が思ったから。


 そして、何年も探し続けていたシンシアへと漸く辿り着いたのだ。平静でいられる筈などないと思っていたし、目の前に現れた瞬間、感情が大きく揺れたのは間違いなかった。昔の自分なら、シンシアが目の前にいれば他のことなど何一つ考えられなかったかもしれない。

 けれど実際には違い、自分でも不思議なくらい周囲が見えていた。シンシアと話しながらもセイカが席を立とうとしたことに気付けたし、シンシアから視線を外すこともできたし、隣にいるセイカが何をしているのかも自然と目に入った。


 それ以上に、シンシアから語られた真実の方が衝撃的だった。

 彼女は、フェルナンを守るために自ら牢へ戻っていたのだ。それだけでも充分すぎる程だったのに、その後シンシアも自分を探していたことを知り、更に言葉を失った。


 牢にいたのならどれだけ探しても見つからなかったのは当然だし、二人とも相手を探していて、ただその時期が噛み合わなかっただけなのだ。それだけのことで、何年もの時間が失われた。


 更に自分が書いた本もシンシアに伝わっていたことが分かり、思わず本心がそのまま口から漏れた。

 読んで欲しかった。自分が何を思っていたのか、どんな未来を望んでいたのか、いつかシンシアに届けばいいと思って書いたものだったから。


 しかしその後に続いた話を聞いた途端、その喜びは苦しさへと変わった。

 あの本が原因で、シンシアはフェルナンが死んだと思っていた。自分が書いたものによって彼女を深く傷付けていたのだ。謝ったところで、今さら悔いたところで意味などなかったけども、気付けばフェルナンは謝罪を口にしていた。


 そして、シンシアからもう一つの事実を告げられた。



「私――結婚したの」


 確かに衝撃はあった。それなのに、最初に胸へと浮かんだのは絶望ではなかったのだ。



―――あれ?


 フェルナン自身が一番戸惑っていた。


 ずっとシンシアを引きずってきた。過去を思い出さないよう別のことへ意識を向け、それでも忘れられず最後には何の関係もない少女に彼女を重ねてしまう程だった。

 だからシンシアが他の男と結婚したと本人の口から聞けばもっと苦しいと思っていた。受け入れられないのではないかとさえ思っていた。


 けれど、違った。



「……幸せ?」


 シンシアが絶望していた時フェルナンの代わりに支えてくれた人。そんな人と結婚したのだと聞いて、思わずフェルナンの口から出たのは恨みでも悲しみでもなく、この一言だった。


 返ってきた答えを聞いて胸に広がったものも、嫉妬ではない――安堵だった。


 瞬間、フェルナンは漸く何を恐れていたのかに気付くことができた。


 シンシアをどうでもいいと思ったわけではない。自分が長い間手放せなかったものは、シンシアそのものだけではなかった。

 何処へ行ったのか分からない。どうして自分の前から消えたのかも分からない。生きているのか、幸せなのか、それすら分からない。何も分からないまま終わってしまったから、フェルナンの時間だけがあの日からずっと止まり続けていたのだ。


 けれど今シンシアは目の前にいて、何より、幸せだと言った。それだけで、長い間胸の奥に居座っていたものが少しずつ解けていくのが分かった。

 同時に、もう一つ。ずっとシンシアに向けているものだと思っていた感情とは別に、いつの間にか自分の中へと芽生えていたものがあることにも、漸くフェルナンは気付き始めていた。


 もう二度と会わない方がいいと告げられた時には当然寂しかったし、何度も会えば気持ちが揺らいでしまうと言われた時には胸のどこかに小さな喜びが滲んだことも否定できない。それでも、今のシンシアが幸せでいてくれることの方がずっと大切だった。

 以前のフェルナンなら、失いたくないという気持ちが何より先立っていただろう。けれど、自分でも不思議なくらい引き留めようとは思わなかったのだ。


 別れ際、シンシアから少しだけ話したいと呼び止められた。セイカには聞かせない話らしく、何だろうと思いながら近付くと、シンシアは開口一番こう告げた。



「あの子のこと、ちゃんと見てあげてね」


 そう言いながら、僅かにセイカの方へと視線を向ける。誰のことを言っているのかは、流石のフェルナンにも直ぐに分かった。



「……なんで」


 分からないふりをして聞き返すと、シンシアは控えめに笑った。



「見ていたら分かるもの。今日ここに来たのだって、彼女のお陰なんでしょう?」


 何も答えなかったものの、シンシアはそれを肯定と受け取ったらしい。



「貴方が生きていたと知って、それに私をずっと探していたと聞いてから、少し気掛かりだったの。私が結婚したと知ったら、どんな顔をするんだろうって」


 そこで一度言葉を切り、少し可笑しそうに続ける。



「だって貴方、重いでしょう?」


 否定できなかった。フェルナンが視線を逸らすと、シンシアはそんな彼を見て目を細めた。



「でも、安心したわ」


 その言葉の意味を考えていると、シンシアが不意に続けた。



「――好きなのでしょう?あの子のことが」


 フェルナンは僅かに目を見開いた。直ぐに何とも言えない顔でシンシアを見返したものの、彼女はくすくすと笑うだけだった。

 否定しようと思った。セイカは生徒で、自分がシンシアと重ねてしまっただけの少女だと、そう言えば済む筈だった。けれど不思議と言葉は出てこない。



「……さて、戻りましょうか」


 結局、シンシアの方から話を切り上げてしまった。何一つ言い返せないまま戻ることになり、フェルナンは何となく彼女にしてやられたような気分になった。


 そして、本当の別れの時が来た。



「さようなら、――フェルナン」


「……さようなら、シンシア」


 ナハトとして止まっていた時間が漸く終わったような気がして、その言葉を最後にフェルナンはシンシアへと背を向けた。

 けれどフェルナンの心は自分でも驚くほど穏やかで、隣を歩くセイカからは大丈夫かと心配されたものの、むしろ自分を心配して様子を窺っているセイカの姿が少し可笑しく、それ以上に嬉しかった。


 シンシアがどうでもよくなったわけではない。今でも大切かと聞かれれば迷わず大切だと答えるだろう。彼女と過ごした時間も、思い出も、失われるものではないから。

 ただ、それを抱えたままでも前へと進めるのだと、ようやく思えるようになったのだ。



「ありがとう」


 ここまで連れてきてくれたセイカへ。自分が見ないようにしていたものに、もう一度目を向けさせてくれたセイカへ。今はただ、素直に礼を伝えたかったのだ。


 怪訝そうにこちらを見る彼女に、フェルナンはそれ以上何も付け加えなかった。



◆



 帰りの馬車に揺られている途中、フェルナンは不意に一つのことを思い出した。あの放課後、自分が何かに呑まれてどうすることもできなくなっていた時、セイカが引き戻してくれたことを。その直後に見えた淡く眩い光を。


 あれは一体、何だったのだろうか。



「セイカって本当に闇属性?」


「え……?」


 考えているうちに、疑問がそのまま口から出ていた。けれど、フェルナンはすぐに考え直して話を終わらせた。闇属性であろうと、そうでなかろうと、今さら何が変わるというのだろう。セイカはセイカで、それ以上でも以下でもない。


 今はそんなことよりも別に言っておかなければならないことがあった。


 フェルナンは向かいにいるセイカを暫く見つめ、これまで自分が彼女にしてきたことを思い返す。

 許してもらえるとは思っていない。許してほしいとも思わなかった。自分がしたことなのだから彼女がどう思うのかまで求めるつもりはないし、ただ、一度きちんと謝っておきたかったのだ。



「何度も迷惑かけて、ごめんね」


「……急にどうしたんですか」


「謝っておこうと思って」


「そうですか」


 あれだけのことがあったというのに、セイカは今もこうして普通に話している。

 暫くして、彼女は何かを思い出したようにこちらを見た。



「じゃあ、あのことも誰にも言わないと約束してくれますか?」


 その言葉を聞いてフェルナンも漸く思い出し、少し考えた末に口を開く。



「保証はできないかな」


「前と変わってないじゃないですか……」


 呆れた声が返ってくる。


 今ここで約束してしまえばいい。それなのに、できなかった。


 彼女の秘密を今後決して口にしないと約束してしまえば、二人の間に残るのは教師と生徒という関係だけになる。学園へ行けば顔を合わせることはできるし、授業を受け持つこともあるだろう。けれど、それだけだ。

 答えを曖昧にし続けている限り、少なくとも自分とセイカの間にはただの教師と生徒だけでは終わらない繋がりが残る。


 これまでのことを許してくれなくても構わないし、許してくれと願うつもりもない。それでも自分の知る彼女の秘密まで手放してしまえば、セイカと関わるための繋がりまで一つ失ってしまうような気がした。それだけはどうしても嫌だった。


 シンシアではない。そんなことはもう分かっている。それでも――いや、だからこそ。


 どうやら自分は、セイカとの繋がりを手放す気にはなれないらしい。呆れたようにこちらを見るセイカを眺めながら、フェルナンは僅かに頬を緩ませた。



ここまでお読み頂きありがとうございました。

5章はこれで終わりで、次回から新章【二奏の系譜】に入ります。


あと全然本編には関係ないのですが、

個人的に『芽生えた想いは』『◯◯の独白』『◯◯の想い』系統の話を書くのが

一番楽しくて、自身でも何度も読み返すくらい好きです。

心情の変化を見たい方ぜひ見返してみてください。


宜しければ感想、コメント、評価、ブクマ等お願いします m(_ _)m

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