25.幸せでいてくれたなら
あれから家の中へと通された聖花は、フェルナンと並んでシンシアの向かいに腰を下ろしていた。
先ほどから三人の間に流れている空気は決して居心地のいいものではない。シンシアもフェルナンも互いに聞きたいことは幾らでもあるはずなのに、何処から話せばいいのか分からないのか、なかなか口を開こうとはしなかった。
それも無理はないのだろう。何年も会えずにいた相手と漸く再会したのだ。しかも二人の間にあるのは、一言二言で済ませられるような過去ではない。
「……殿下」
長い沈黙の末、先に口を開いたのはシンシアだった。
「その『殿下』は、もうやめにしない?僕はとっくに王子じゃないから」
「ナハト……いいえ、フェルナン。聞きたいことが、たくさんあるの」
「……僕もだよ」
短く答えたフェルナンを見つめていたシンシアの視線が、ふとその隣へと動いた。聖花と目が合い、それでようやく自分がこの場にいることを意識する。
ここから先は、自分が聞いていい話ではないのかもしれない。そう思った聖花は何も言わずに椅子から腰を上げ、そのまま部屋を出ようとした。
「待って」
背後から声を掛けられ、聖花は足を止めて振り返る。
「……私ですか?」
「ええ。貴女もここにいて」
「でも、これからお二人の話をするんですよね?」
「そうね」
「だったら私は――」
「貴女にも聞いていてほしいの」
予想していなかった言葉に、聖花は僅かに目を瞬かせた。何故自分まで、とフェルナンへと視線を向けてみるものの、彼も特に口を挟もうとはしない。
(……何か勘違いされてない?)
そう思ったところでシンシアが何を勘違いしているのかは分からなかった。フェルナンまで何も言わない以上、断るのも可笑しいだろうと言い聞かせ小さく頷く。
「……分かりました」
聖花が再び腰を下ろすの見るなり、シンシアは聖花から目を外した。
暫くの間、二人は何も言わずに向かい合っていた。聞きたいことは幾らでもあるのだろう。それでも最初の一言を口にするのは簡単ではないらしい。
やがて、フェルナンが静かに口を開いた。
「……あの後、どうしてたの?」
「あの後って……」
「君がいなくなってから」
シンシアが言葉を詰まらせる。それを見た途端、ずっと抑えていたものが堪えきれなくなったのか、フェルナンは返事を待たずに続けた。
「……何処に行ってたの? あんなに探したのに。どうして……突然、僕の前からいなくなったの?」
最後の問いだけが酷く小さな声になり、まだ聞きたいことは幾らでもある筈なのにフェルナンはそれ以上続けなかった。膝の上で拳を強く握り、何かを堪えるように唇を引き結んでいる。
「そうよね。もう隠す必要もないもの」
シンシアは自分に言い聞かせるように呟くと、意を決したようにフェルナンを見た。
「……牢に戻ったの」
返ってきた言葉に、フェルナンが目を見開く。聖花も思いもよらない事実に、思わずシンシアを凝視した。
「なんで……」
「貴方に迷惑を掛けたくなかったからよ」
「だからって、どうして戻る必要が――」
「あのまま一緒に隠れ続けていたら、今度は貴方まで捕まるでしょう?」
フェルナンの言葉が止まった。
「私にだって、あの事件の裏に第二王子がいたことくらい分かっていたわ。王位を狙っていたこともね。私が犯人に仕立て上げられて投獄された時、貴方が余りにも簡単に牢まで入って来られたのだって偶然じゃない」
シンシアはそこで一度息をつき、静かに続ける。
「貴方に私を逃がさせて、罪人を逃がした罪を作るためよ。もし助けに来なかったとしても、婚約者が罪人として捕まったとなれば貴方にとっては醜聞になる。第二王子からすれば、どちらに転んでも都合がよかったのでしょうね」
「でも……」
「貴方も、薄々は罠だと気付いていたでしょう?」
フェルナンは否定しなかった。
「彼が欲しかったのは王位だけじゃない。貴方が後から反乱を起こすことまで恐れて、命まで狙っていたのよ。だから私は、自分から牢へ戻る代わりに一つだけお願いしたの。『殿下のことは見過ごしてほしい』『彼に反乱の意思はない』って」
「なに、それ……」
「私が捕まっていれば、万が一の時には貴方を牽制する材料にもできる。向こうにとっても悪い話ではなかったから、すぐに了承してくれたわ」
「どうして……先に話してくれなかったの」
「話したら、何としてでも止めたでしょう?」
フェルナンは何か言おうとして口を開いたものの、否定できずに結局そのまま閉ざした。
「私ね、戻ったのよ。直ぐにではないけれど全部終わって自由になってから、私たちが暮らしていた場所に戻ったの。貴方が待っていると思っていたから」
そこでシンシアの声が僅かに沈む。
「でも私が戻った頃には、もう貴方はいなかった」
フェルナンは何も言わなかった。
「私も探したわ。でも貴方が何処にいるのか分からなくて、何も見つけられなかったの」
そこで一度言葉を切ったシンシアが、何かを思い出すように目を伏せる。
「そんな時に、あの本のことを知ったの」
「あの本?」
「――『Verloren』」
その名を聞いた途端、フェルナンの表情が変わった。
「……読んで、くれたの?」
「ええ」
「……そっか」
「読めば分かるわ。あれを書いたのが貴方だって」
フェルナンは否定しなかった。むしろ今の反応を見る限り、シンシアがいつか読むことを望んでいたようにさえ聖花には思えた。
「最初は嬉しかったの。貴方の想いを知れたから。あれを書いたのが貴方なら、きっと何処かにいるんだって思えたし、私も貴方と同じ気持ちだったから」
シンシアは真っ直ぐにフェルナンを見つめた。
「あの本、私が読むかもしれないと思って書いたんでしょう?突然いなくなった私に、貴方の気持ちを伝えようとしたんじゃないの?」
フェルナンは答えなかった。けれど、シンシアには十分だったのだろう。僅かに目を伏せると、それまでよりも沈んだ声で続ける。
「だから作者について調べたわ。でも……亡くなったって――」
「……ごめん」
不意に謝られ、シンシアまでもが顔を上げる。
「実は、あの本を出した後に王国の騎士に呼び出されたんだ。それで――Verlorenは死んだことになった」
「え」
思わず声を上げたのは聖花だった。すぐに口を閉ざしたもののシンシアも同じように目を丸くしていて、聖花の方を見ることなくフェルナンへと問い掛ける。
「……どういうこと?」
「そのままの意味だよ。王国――僕の弟は、作者である僕を危険因子として始末しようとしたんだ」
真実を本に書き記したフェルナンを、そのままにはしておけなかったということなのだろう。事情を理解した聖花は、余りの理不尽さに恐怖を覚えると同時に腹の底に僅かな苛立ちを感じた。
「じゃあ、なんで――」
「見逃された」
シンシアの言葉を遮るように、フェルナンが続ける。
「僕が作者だったから。その代わり、Verlorenという作家は死んだことにされて、僕自身も二度とこの国へ近付くなと念を押された。それで国を出たんだ」
「そう、だったの……」
先ほどまで身を乗り出すように話していたシンシアの勢いが失われる。その時のことを思い出したのか、膝の上で重ねられた指先に僅かに力が入った。
「ずっと待っていてくれたかもしれないのに、私は戻るのが遅すぎたんだって……そう思った」
「違う」
フェルナンの声が僅かに強くなる。
「君が遅かったんじゃない。僕が先にいなくなっただけだ」
「でも私は――」
「僕だって最後まで見つけられなかった」
シンシアの言葉を遮ったフェルナンは、その先に何かを続けようとして結局口を閉ざした。
二人とも相手を探していた。フェルナンは何年もの間シンシアを探し続け、最後にはもういないのだと思い込もうとしていた。一方のシンシアも、ようやく戻ることができた時には既に遅く、最後には彼がもうこの世にはいないと思い込んでしまった。
どちらかが相手を捨てたわけではない。ただ、互いが相手を探した時には既にそこにいなかったのだ。
「ふふっ。私たち、馬鹿みたい」
暫くして、シンシアが小さく笑った。
「お互い、探してたのに――」
そこまで言うと、シンシアは少しだけ顔を伏せた。
今さら確かめようのない可能性を並べても、過ぎた時間が戻るわけではない。暫く俯いていたシンシアは、やがて何かを決めたように顔を上げた。
「……それでね。もう一つ、貴方に話しておかなければならないことがあるの」
「何?」
「私――結婚したの」
フェルナンの動きが止まった。聖花も思わずシンシアを見たあと、大丈夫だろうかと様子を伺うように、直ぐ隣にいるフェルナンへと視線を移す。
フェルナンは驚いたようにシンシアを見つめているだけで、少なくとも聖花が心配したほど大きく取り乱してはいなかった。
シンシアはそんな二人の反応を受け止めながら少しだけ目を伏せた。
「もう随分前になるわ。貴方が亡くなったと思って、何もかも嫌になっていた頃に、ずっと傍で支えてくれた人がいたの」
フェルナンは何も言わず、ただシンシアの話を聞いていた。
「すぐにそういう関係になったわけじゃないわ。でも、一緒に過ごしているうちに少しずつ前を向けるようになって……その人と結婚したの。今は夫と一緒に暮らしてる」
「……そう、なんだ」
暫くして返ってきた声は、思っていたよりも落ち着いていた。
何を考えているのか聖花には分からない。驚いていることだけは分かったが、フェルナンはシンシアから目を逸らそうとはしなかった。
「ねえ、シンシア」
「なに?」
「……幸せ?」
シンシアが目を見開く。けれど、それも僅かな間だけで、すぐにその表情は柔らかなものへと変わった。
「ええ。幸せよ」
「そっか」
フェルナンはそれ以上何も尋ねなかった。聖花も二人の顔を交互に見たものの、やはり自分から口を挟むことはできずに見つめることしかできない。
長い間探し続けてきた人がやっと見つかったというのに、その人には既に別の人生がある。フェルナンが何を思っているのか、その表情から読み取ることはできなかった。
「ねえ」
「うん?」
「私たち、もう二度と会わない方がいいと思うの。お互いのためにも」
フェルナンの目が僅かに揺れる。それでも何も言わずに、シンシアの続きを待っていた。
「それに、これからも何度も貴方と会っていたら、夫に悪いでしょう?」
シンシアはそう言ったあと、少し困ったように目を伏せた。
「それに……私も困るの」
僅かな間を置き、今度は先ほどよりも小さな声で続ける。
「何度も貴方と会っていたら、きっと気持ちが揺らいでしまうから」
「シンシア……」
フェルナンは小さく名前を呼んだものの、それ以上言葉は続かなかった。シンシアも顔を上げようとはせず、暫くの間静かな時間が流れていく。
聖花は何となく隣へと目を向けた。
もっと引き留めるのではないかと思っていた。少なくとも、これまで見てきたフェルナンの様子からすれば、簡単に受け入れられる言葉ではない筈だ。けれど、フェルナンは何かを堪えるように視線を落としているだけでシンシアの言葉を否定しようとはしなかった。
「……分かったよ」
やがてフェルナンが答える。
「もう会わない。――君が幸せなら、それでいい」
シンシアが何かを言おうとしたものの、その唇からすぐに言葉が出ることはなかった。
「ずっと、君がどうしてるのか分からなかった。それだけが気掛かりだったんだ」
フェルナンはそこで一度言葉を切ると、今度ははっきりとシンシアを見た。
「だから、生きててくれて……幸せでいてくれて、本当によかった」
シンシアの目元が僅かに歪んだ。
その後は、普段どのように暮らしているのか、最近何があったのかといった差し障りのない話を少しばかり交わした。
先ほどまでとは違い、二人とも幾分落ち着きを取り戻していたものの、いつまでもここにいるわけにはいかない。別れの時が近付いたところで、シンシアがふと聖花へと顔を向けた。
「セイカさん、だったわよね?」
「はい」
「少しいいかしら」
「何でしょう?」
何を言われるのかと待っていると、シンシアは一度フェルナンへ視線をやってから口を開いた。
「気を付けてね。重いから、この人」
「……はい?」
予想もしなかった忠告に、聖花は思わず間の抜けた声を出した。
聖花の知る限り重いどころの騒ぎではない。しかし、流石にそれをここで口にする気にはなれなかった。
「シンシア」
「本当のことでしょう?」
「否定はしないけど」
思わず呆れた顔をする聖花を見て、シンシアの表情が僅かに和らぐ。
「何かあったら、ちゃんとやり返すのよ?」
既に何かあった後だとは、とてもではないが言えない。聖花は乾いた笑いを返したあと、どうしても気になって尋ねた。
「ところで、何故私に?」
「さあ、どうしてかしら」
結局答えてはもらえず、聖花は釈然としないまま口を閉ざした。
やはり何か勘違いされている気がする。フェルナンが以前自分に妙な執着を見せていたのはシンシアを重ねていたからだ。少なくとも今の聖花には、それ以外の理由があるようには思えなかった。
そう思ってフェルナンを見ても、本人は訂正するどころか何も言おうとしない。
「先生も何か言ってください」
「僕に振られても困るな」
「先生の話でしょう」
「そうなんだけどね」
どこか他人事のような返事に、聖花は呆れて息を吐いた。
そんな二人を暫く見ていたシンシアだったが、やがてフェルナンへと顔を向ける。
「少しだけ、いい?」
そう言ってシンシアが立ち上がったので、聖花も二人から少し離れた。
何を話しているのか聞くつもりはないし、窓の外へと目を向けて待つ。背後から小さな声が聞こえてはくるものの、内容までは分からない。
暫くして何気なく振り返ると、丁度シンシアがフェルナンに何かを告げたところだった。直後にフェルナンが僅かに目を見開き、聖花は二人をじっと見ていたものの相変わらず二人が何を言ったのかまでは聞こえなかった。
フェルナンは何とも言えない顔で彼女を見返していたが、結局何も言い返さないまま話は終わり、やがて聖花のところに戻ってくる。
「何を話していたんですか?」
「内緒」
「……そうですか」
「もう少し気にしてくれてもいいんじゃない?」
「内緒話を詮索する謂れがありません」
「冷たいね」
軽口を叩くフェルナンを無視して聖花が先に歩き出すと、彼もその後に続いた。
扉の前まで来たところでフェルナンが一度だけ振り返る。シンシアは先ほどと同じ場所に立ち、二人を見送っていた。
「じゃあね、シンシア。お幸せに」
「ええ。ありがとう」
ほんの僅かに間を置いて、シンシアがもう一度口を開く。
「さようなら、――フェルナン」
「……さようなら、シンシア」
今度こそフェルナンは前を向き、聖花と共にその場を後にした。
◆
シンシアの家を出てから暫く歩いても、フェルナンは何も話さなかった。
聖花もすぐに声を掛けることはせずに、隣を歩きながら時折その様子を窺っていた。先ほどまでの出来事を考えれば無理もないだろう。ようやく会えたと思った相手には夫がいて、その上に二度と会えないのだ。
いくら本人が納得していたように見えても、何とも思わない筈がない。ましてやフェルナンは、シンシアを他人に重ねてしまうほど長い間彼女を引きずっていたのだ。
「……先生」
「ん?」
「大丈夫ですか?」
フェルナンがこちらを見る。
「何が?」
「何がって……」
そこまで言って、聖花は口を閉ざした。わざわざ説明するまでもないと思ったのだが、フェルナンは本当に分かっていないような顔をしている。
「シンシア様のことです」
「ああ」
ようやく納得したらしく、フェルナンは小さく頷いた。
「大丈夫だよ」
「本当に?」
「本当」
迷いのない返事だった。聖花がまだ疑うように見ていると、フェルナンは前へと視線を戻した。
「ちゃんと、分かったから」
「何がですか?」
「色々」
それだけでは分からずに聖花が眉を寄せる。フェルナンは暫く前を向いたまま歩いていたが、やがて静かに続けた。
「シンシアがどうしていなくなったのかも、あの後どうしてたのかも。僕がずっと知らなかったこと、全部聞けたから」
そこで僅かに間を置く。
「それに、今は幸せだって言ってた」
その声には寂しさこそ残っていたものの、無理に自分へ言い聞かせているようには聞こえなかった。
「だったら、それで十分だよ」
「……そうですか」
「うん」
聖花はそれ以上何も言わなかった。フェルナンがそう思えるのであれば、自分から余計なことを言う必要もないのだろう。
そのまま暫く並んで歩いていると、不意に隣から名前を呼ばれた。
「セイカ」
「はい?」
「ありがとう」
あまりにも真っ直ぐに言われたため、聖花は思わずフェルナンを見る。
「何ですか、急に」
「セイカがいなかったら、もう一度ここに来ようとは思わなかったから」
「私は別に、大したことはしてませんよ」
「そうかな」
「そうです」
当然のように言い切ると、フェルナンはそれ以上否定しなかった。
「でも、僕にとっては大したことだったよ」
そう告げて前を向いたフェルナンに、聖花はすぐには何も返せなかった。
あの時、自分が余計なことを言わなければフェルナンはもう二度とシンシアを探さなかったのだろう。そう考えれば、少なくともここまで来たこと自体は無駄ではなかったらしい。少なくとも今のフェルナンがシンシアとの別れを後悔しているようには見えない。長い間彼の中で止まったままだったものが、今日ようやく動き出したのかもしれなかった。
今度こそ過去に囚われることなく進めるのなら、それでいい。聖花はそう思いながら隣を歩くフェルナンから静かに視線を外した。
◆
帰りの馬車へ乗り込んでから暫くして、向かいに座っていたフェルナンが不意に聖花へと目を向けた。
「セイカ」
「何ですか?」
呼んだきり何も言わないフェルナンを、聖花が訝しげに見返す。
「セイカって、本当に闇属性?」
「え……?」
余りにも唐突な問いに聖花は思わず固まった。しかしフェルナンは答えを待つことなく、何かを考えるように聖花を見たあと、すぐに小さく首を振る。
「やっぱりいいや。忘れて」
「何なんですか……」
聞いておきながら勝手に話を終わらせられ、聖花は眉を寄せる。フェルナンはそんな聖花を暫く見つめていたものの、今度は先ほどまでとは違って少しだけ声を落とした。
「何度も迷惑かけて、ごめんね」
「……急にどうしたんですか」
「謝っておこうと思って」
「そうですか」
聖花は僅かに考えたあと、ふと思い出したようにフェルナンを見る。
「じゃあ、あのことも誰にも言わないと約束してくれますか?」
「保証はできないかな」
「前と変わってないじゃないですか……」
呆れた声を出す聖花を前に、フェルナンは僅かに頬を緩ませていた。
次話はフェルナン視点です。




