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21.日常の隙間

 廊下を水浸しにしてからというもの数日が経っていた。あれ以降以前のように露骨に避けられることはなくなり、ごく自然に言葉を交わせるようになっている。あの日までの態度が嘘だったかのような変わりようではあるものの、聖花としてはわざわざ理由を問い質すつもりもなかった。

 普通に接することができるのならそれに越したことはない。何より今は、もう一度パトリシア王国へと向かう話も出ているのだ。


 当然ながら、思いついた翌日すぐ出発できるような単純な話ではなかった。前回のようにリリスの魔具を使って向かう訳にもいかない上に、今回は丸二日以上学園を空けることになるのだ。聖花が許可もなく学園の外へと出ること自体が問題なのだから、丸二日の不在をどうにか誤魔化した上で国外に行くとなれば、それなりの準備が必要だった。

 その辺りは担任であるフェルナンに丸投げし、聖花は目立たぬよう過ごしながら時折彼から進捗を聞いていた。


 そんなある日の休み時間、廊下を歩いていた聖花は少し先に見覚えのある姿を見つけて歩みを緩めた。相変わらずというべきか、フェルナンが数人の令嬢に囲まれている。

 何を話しているのかまでは聞こえないものの、彼は相変わらず色気のある笑みを浮かべ、令嬢たちの言葉に慣れた様子で応じていた。ふと目を細めて笑うだけでも妙に様になっていて、彼を囲む令嬢たちは揃って頬を赤く染めている。

 あれだけのことがあった後でも、この辺りは何一つ変わっていないらしい。



(本当に、こうして見るといつも通りなのよね……)


 少し前まで廊下で正気を失っていた人物と同一人物だとは少しも思えなかった。


 それ以上気に留めず、聖花が横を通り過ぎようとしたところでフェルナンが聖花の存在に気付く。ほんの一瞬だけ視線が重なると、彼は小さく目を瞬かせた。

 言葉を交わしたわけではない。それでも聖花には何となく言いたいことが伝わった。



(勿論、忘れてませんよ)


 もう一度パトリシア王国へ行く話のことだろう。聖花は返事の代わりに小さく会釈すると、そのまま彼らの前を通り過ぎた。わざわざ令嬢たちとの会話へ割って入る理由もなければ、下手に親しげな様子を見せて余計な誤解を招くつもりもない。


 そうして少し歩いたところで、不意に背筋を冷たいものが走った。



―――誰かに見られている。


 そう気付いた時には自然と肩に力が入っていた。


 単なる敵意や悪意とは明らかに異なる。姿すら見えない相手から向けられている筈なのに、肌を刺すような感覚だけが妙にはっきりと伝わってくる。

 殺意――そう表現するのが一番近かった。


 足を止めて反射的に振り返ったものの、先ほどまでと何ら変わらない廊下が広がっている。フェルナンは未だ令嬢たちに囲まれていて、辺りには何人もの生徒が行き交っていた。

 誰がこちらを見ているのか分からない。それどころか、聖花が振り返った頃には先ほどまでの気配そのものが綺麗に消え失せていたのだ。



(……また、なの?)


 この感覚には覚えがある。むしろ前にも二度ほど同じような視線を向けられたことがあったものの、ここしばらくは何もなかった上に、次から次へと別の問題が飛び込んで来ていた所為ですっかり意識から抜け落ちていたのだ。

 だが、こうして再び同じものを受けて思い出さない筈がなかった。



(いい加減、名乗り出てほしいんだけど……)


 殺意を向けられて喜ぶような思考など当然持ち合わせていないが、こうして何度も視線だけ送られているのに、肝心の相手が誰なのかすら分からない状態が続くのも気味が悪い。


 もしかすると今もこちらを見ているのではないかと思い、聖花は廊下を行き交う生徒たちへと順に視線を向けた。けれど、それらしい人物は見当たらない。

 途中で数人の令嬢と目が合ったのだが怪訝そうに眉を顰められ、何事かを囁き合われてしまった。こちらを見ながら口元を隠している辺り、あまり好意的な話をされていないことくらいは分かる。



(……余計に目立ってるだけじゃない)


 流石にそろそろ探すのを止めようとしたところで、不意に背後から声を掛けられた。



「セイカ・ゴルダール嬢」


「……はい?」


 振り返ると、そこにはエルザが立っていた。


 突然話し掛けられたことを不思議に思いながらも、聖花は彼女へと向き直った。エルザに何か用があったわけでもなければ、向こうから呼び止められるような心当たりもない。そもそも彼女とは代理のとき以来話してすらいないし、姿を見かけても遠目に見る程度だった。



「先ほどから、随分と挙動不審な動きをされていますね」


 そんな聖花の内心を知ってか知らずか、エルザはそう言いながら人差し指を立てて、念を押すように聖花へと向けた。



「余計な誤解を招くような行動は慎むように。良いですか。周囲の方々は貴女が思っている以上によく見ているのですよ」


「あ……はい。申し訳ございません」


 反論の余地もない。素直にエルザへと謝罪したところで、聖花の中でふと別の疑問が浮かんだ。



「そういえば、エルザ先生は何をしにこちらまで?」


 本来、彼女はクラスを受け持っていなかった筈だ。何か用があるのならともかく、この辺りには教室が連なっているばかりで、教員室はもちろん特別な設備のある部屋があった覚えもない。


 何気なく尋ねたつもりだった。ところがエルザは笑みを浮かべたまま僅かに目を細めた。



「……貴女に話す義理がありますか?」


 予想もしなかった返答に、聖花は僅かに目を見開いた。


 笑顔そのものは崩れていない。それなのに声だけが妙に冷たく、先ほどまで教師として注意していた時とは明らかに雰囲気が違う。

 しかし、それもほんの一瞬のことで、エルザは直ぐに小さく咳払いをすると何事もなかったかのように表情を整えた。



「失礼。少々ストレスが溜まっていたようです。今の言葉は忘れてください」


「……誰にでも、そういう時はありますから」


 苦笑しながら答えたものの、果たしてフォローになっているのかは自分でも分からなかった。


 少なくとも今は余計なことを聞かない方が良さそうだった。

 何が彼女の機嫌を損ねているのかは分からないが、わざわざ自分から触れて藪をつつく必要もない。そう判断して聖花はそれ以上尋ねることをやめた。



「とにかく、今後は気を付けるように。それでは私はこれで」


「はい。ありがとうございました」


 再度忠告したエルザは踵を返し、そのまま廊下の先へと歩いていく。聖花は暫くその背中を見送っていたが、やがてエルザが角を曲がり完全に姿が見えなくなったところで自分も歩き始めた。


 先ほど感じた視線は気になるものの、今のところ誰が向けてきたものなのか見当もつかない以上、考え続けても仕方がない。依然として考えることは山積みだったが、折角なので聖花はカナデのいる『1-Δ』へと立ち寄ることにした。前までは図書室にばかり籠もっていて、ここ最近は教室で過ごす時間が増えたこともあり、リリスに捕まったり別のことに巻き込まれたりと禄に寄る機会がなかったのだが、今日は何とか逃れることができたのだ。

 おまけに、入学当初と比べれば聖花を取り巻く状況も多少は落ち着いていた。相変わらず令嬢たちの世間話に名前が上がることはあるものの、他クラスにも前よりは気軽に立ち寄れたのである。


 ところが目的の教室へと辿り着き、入口から中を覗き込んでみたものの目当ての人物は見当たらなかった。



(いない……)


 それとなく教室内を見回してみる。


 そういえば、ここはアーノルドのクラスでもあったが彼の姿も見当たらなかった。恐らくまた、人目につきにくい外の木陰で涼んでいるのだろう。


 そう言えばカナデもあの場所を知っているし、聖花自身、以前二人が関わっているところを目にしている。同じクラスなのだから接点があっても何ら不思議ではないものの、二人のことを知っている聖花にとっては、どうしても何かあるのではないかと思えて仕方がなかった。

 もっとも、彼にも聖花とは別の目的があるのだ。仮に今二人が一緒にいたとして、今のところアーノルドが聖花を切らないと確信している以上、警戒こそすれど必要以上に口を挟む理由はなかった。


 今の二人はあくまで互いの目的のために協力しているだけだ。聖花とカナデの間に何があったのかを彼は知らないし、カナデ自身もまた、セイカ・ゴルダールという人物が入れ替わった相手だとは気付いていない。

 そもそも仮に説明しようとしても聖花にはそれができなかった。話そうとすれば魔術の影響なのか肝心な部分だけ言葉にすることができないし、恐らくこの先も彼に事情を語ることはついぞないだろう。


 むしろ今の聖花が考えておくべきなのはアーノルドとの協力関係の方かもしれない。アーノルドは聖花をカナデだと思っていて、現在は何らかの理由によって闇魔術が使えなくなっていると認識していることだろう。少なくとも使えないことは把握している。

 今すぐ関係を切られるとは思っていないものの、この状態がいつまでも続けば話は変わってくる。何の役にも立たないと思われれば、いずれ協力する理由そのものがなくなる可能性もあるのだ。



(何か、納得してもらえる言い分くらいは考えておいた方がいいかも……)


 その場になってから慌てるよりはいい。そう考えながらもう一度教室へと目を向けたところで、奥の席に見覚えのある姿を見つけた。



(あれ、シャンファ?)


 そういえば、カナデのクラスにはシャンファもいたらしい。教室の奥へと視線を向けると、机に視線を落としている彼女の姿が見えた。


 普段は何かと動き回っている印象が強いシャンファだが、今は机に視線を落とし、何かに集中しているようだった。先日の一件もあるし、それ以前に集中しているのにわざわざ邪魔する理由がない。聖花は声を掛けることなく、そっとその場を離れた。


 折角ここまで来たのだから、アナスタシアとリリエルの所在も確認しておきたかった。しかし、二人を探すより先に休み時間の終わりが近づいてしまい、聖花は諦めて自分の教室へと戻ることにした。

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