20.諦めるにはまだ早く
その名を口にした途端、フェルナンの表情が固まった。
ほんの僅かな変化だったものの、先ほどまで何を言われても曖昧に揺れていた瞳が今度は明確に聖花を捉えている。否定する言葉が返ってくることもなく、暫く続いた沈黙の末、フェルナンは諦めたように小さく息を吐いた。
「……誰に聞いたのかな」
その問いを聞いて、聖花の中に残っていた僅かな疑念まで消えていった。
「誰にも聞いていません。今のは確認しただけです」
「……なるほど。嵌められたわけか」
「勝手に認めたのは先生でしょう」
「そうだけどさ……」
フェルナンは困ったように笑い、いつもの調子で肩を竦めた。少しずつ様子が戻ってきていることに安堵しつつも、聖花はここで話を終わらせるつもりはない。
「パトリシア王国で、元第一王子について話している人たちがいました。罪人となった婚約者を逃がしたことで身分を失い、その後行方が分からなくなっている、と」
「それだけなら、僕と結びつけるには弱いんじゃない?」
「そうですね。それだけなら私も分からなかったと思います」
聖花自身、あの時点では何かが引っ掛かる程度だった。パトリシア王国について調べた際にも、既に王族ではなくなっていた第一王子の名までは知ることができなかったのだから、それだけで目の前の男に辿り着ける筈もない。
「ですが、リリス様が先生を『ナハト』と呼んだ時、周囲の方々の様子がおかしかったでしょう。それに先生は、パトリシア王国のことを随分よく知っていました」
一つ一つなら偶然で片付けられたかもしれない。しかし、シンシアという元婚約者がいたことまで本人の口から聞いた今となっては、余りにも一致するものが多かったのだ。
「……続けて」
フェルナンもそれを分かっているのか、それ以上否定することはなかった。続きを促す声からは普段の軽薄さが消え、真剣な眼差しが聖花へと向けられる。
そこまで認めるのなら、もう一つ確かめておきたいことがあった。パトリシア王国から戻った後に、改めてあの本を読み返した時から引っ掛かっていたことだ。
「それと、あの本を書いたのも先生ですよね?」
今度こそ、フェルナンが言葉を失った。
ナハトと呼んだ時でさえすぐに返事をしたというのに、今回は明らかに違う。先ほどまで何かしら返してきた口は完全に閉ざされ、聖花を見つめる瞳にも驚きが浮かんでいた。
最早、答えを聞いたようなものだった。
「……どうして、そう思ったの」
「最初は分かりませんでした。でも、パトリシア王国で元第一王子についての話を聞いてから、改めてあの本を読んでみたんです」
罪人となった婚約者と、その彼女を逃がした『殿下』――それだけでも実際に起きた出来事とよく似ていな。しかし聖花が気になったのは、出来事そのものではない。
「あの本、主人公のことがあまりにも細かく書かれているんです。何を考えていたのか、何を後悔したのか、どうしてそうしたのかまで。実際にあったことを聞いて書いたにしても、本人の内面を知りすぎているように思いました」
フェルナンは直ぐには答えず、聖花から僅かに視線を逸らした。
「本人でもなければ、あそこまで書けないんじゃないですか?」
フェルナンは答えなかったものの、どうにと否定とは受け取れなかった。
「それに、現実ではシンシア様が突然いなくなってしまったのでしょう?」
「……ああ」
「でも、あの本にはその先がありました」
現実では叶わなかったものが物語の中には描かれていて、それが何を意味するのかなど一つしか思い浮かばない。
「……あの物語の行く末は、本来先生が望んでいたものだったんじゃないですか?」
問い掛けても暫く返事はなかった。フェルナンは視線を落とし、何かを考えるように黙り込んでいる。聖花も急かすことはせずに答えを待っていた。
やがて、ポツリと小さく呟いた。
「そうだよ……その通りだ」
誤魔化そうとはしなかった。予想していた答えだったにも関わらず余りにもあっさり認められ、聖花は僅かに目を瞬かせた。
フェルナンが自嘲するように口元を緩める。
「あれを書いたのは僕だよ」
元第一王子であることも、あの物語を書いたことも、ここまで知られてしまえば隠し続ける意味がないと思ったのかもしれない。
しかし、そうなると余計に聖花には理解できなかった。
「それだけ大切なのに、諦めたのですか?」
王族という立場さえ失って婚約者を逃がし、その後も叶わなかった未来を物語へと書き残すほど大切だったというのなら尚更不思議に思えたのだ。
「……探したよ。探せる場所は探した。それでも、何処にもいなかった」
先ほど自身がぶつけた言葉をフェルナンも覚えていたのだろう。フェルナンの表情から僅かに笑みが消え、返ってきたのは思いのほか静かな声だった。
「だから、もういないと思ったんですか?」
「……そう思わなきゃ、耐えられなかった」
フェルナンの視線が聖花から外れる。
「僕を捨てたなんて、……考えたくなかったんだ」
その一言に、聖花は直ぐには何も返せなかった。
何処を探しても見つからず、生きているのなら何故戻ってこないのか。何故何も言わずに自分の前から消えたのか。答えも分からぬまま探し続ければ、何れはそんな考えにも行き着いてしまうのだろう。
フェルナンはそれを受け入れられなかった。
けれども、聖花には一つだけ納得できないことがある。
「でも、それなら尚更おかしくありませんか?」
ふとした疑問をぶつけると、フェルナンがゆっくりと顔を上げた。
「捨てられたと思いたくなかったのに、どうしてそこで探すことまで諦めてしまったんですか?見つからなかっただけで、シンシア様がもう何処にもいないと決まった訳ではないでしょう?」
「……今さら、どうしろっていうの」
「探すんですよ」
あまりにも当然のように告げられたからか、フェルナンは暫く聖花を見つめていた。
「もう一度、パトリシア王国を」
「……君、本気で言ってる?」
「はい」
聖花自身、口に出してから随分と思い切ったことを言っている自覚はあった。つい先日リリスに連れられて行ったばかりだというのに今度は自分から行こうとしているのだから。
それでも、一度浮かんだ考えを引っ込めるつもりにもならなかった。
「最初から探し直せばいいじゃないですか。前に探した時とは何か変わっているかもしれませんし、見落としていた手掛かりだってあるかもしれません」
「ちょっと待って。どうして君まで行くみたいな言い方を……」
「私も行きますよ?」
当然の疑問を向けられ、聖花は僅かに眉を寄せた。対するフェルナンは言葉を失っている。
言われてみれば、確かに自分が同行しなければならない理由などない。シンシアを探すのはフェルナンの問題であり、本来ならば聖花には何の関係もないことだ。しかし、後は一人でどうぞと放り出すのも妙に居心地が悪かったのだ。
「ここまで巻き込まれたんです。今さら中途半端に放っておく方が気持ち悪いんですよ。それに、また私をシンシア様と間違えられても困りますから。ちゃんと本人を探してください」
少々乱暴な理由だったかもしれないが、聖花としてはそれで十分だった。フェルナンは何とも言えない顔で聖花を見つめていたものの、やがて別の問題に気付いたらしく眉を寄せた。
「でも、学園は?」
聖花が口を噤む。何かを察したようにフェルナンが声を漏らした。
「……まさか何も考えて――」
「今考えます」
「やっぱり考えてなかったんじゃないか」
呆れた声を向けられ、聖花は気まずそうに視線を逸らした。
実際にもう一度パトリシア王国へと向かうとなれば簡単な話ではない。前回はリリスの持っていた魔具で一瞬のうちに国境を越えられたが、今回にはそれがない。馬車を使えば片道だけでも丸一日程掛かるのだから、往復するだけで二日は潰れてしまう。
ましてや今度は、行方知らずの人物を探すために向かうのだ。どれほど時間が掛かるのかも分からず、思いついたからといって直ぐ出発できるような話ではなかった。
そもそも問題はどうやって学園を抜け出すかだった。
前回はリリスに半ば強引に連れ出されたが、今回はそうはいかない。おまけに帰ってきた際に、アデルから次は事前に話すよう釘を刺されているのだ。さすがに二度も黙って姿を消して、また余計な心配を掛ける訳にはいかなかった。
(……アデルには、ちゃんと話しておかないと)
何処まで説明するかはともかく、少なくとも外出することだけは伝えておいた方がいい。
そこまで考えたところで、聖花は足元に妙な冷たさを感じて何気なく視線を落とし、思わず動きが止まった。
「……先生」
「何?」
「床」
「……床?」
フェルナンもつられるように下を見る。
「………あ」
二人揃って、暫く黙り込んだ。
何時の間にか、先ほどまで廊下を覆っていた氷が跡形もなく溶けていた。代わりに残されたのは辺りに広がった水溜まりで、聖花が足元の氷を割った時に散った欠片も、今では小さな水滴となり飛び散っている。
話に夢中になっていた為か、二人とも完全に足元の存在を忘れていたのだ。
「……ちゃんと片付けてくださいね」
「僕一人で?」
「当たり前でしょう。誰が凍らせたと思ってるんですか」
「でも君も、さっき盛大に割って散らかしてたよね」
「誰のせいですか!」
思わず声を上げたものの、このまま放置して帰る訳にもいかない。結局フェルナン一人に押しつけることもできず、聖花も片付けを手伝う羽目になった。
二人は知らなかったがその頃、少し離れた廊下を一人の少女が足早に歩いていた――生徒会の仕事を終えた奏だ。顔には、普段のマリアンナからは想像もつかないほど険しい表情が浮かんでいる。
実は少し前から彼女はいた。偶然この廊下を通りかかった彼女が目にしたのは、聖花が背伸びをしてフェルナンに顔を近付けているところだった。
おまけに、見えたのはフェルナンの背後からで、二人の顔が重なって見えた。それが奏には許し難いことだったのだ。
「フェルナンは……大丈夫なんじゃなかったの……?」
押し殺した声とともに奥歯を噛み締め、奏はそのまま振り返ることなく歩いていった。
つい先ほどまでマトモに会話する事すらできていなかったというのに、今ではこうして二人並んで床を拭いている。何とも奇妙な状況ではあるが、少なくともさっきまでの空気はすっかり消えていた。
聖花が黙々と床に残った水を拭いていると、ふと横から視線を感じて顔を上げると、こちらを見ていたフェルナンと目が合った。
「……何ですか」
「いや」
それだけ答えて、フェルナンはふいっと顔を逸らす。また妙なことを考えているのではないかと不審に思い、聖花は僅かに目を細めた。
「また重ねてたんですか?」
「……違うよ」
「ならいいですけど」
今度の返事には迷いがなかった。それ以上追及する理由もなく、聖花は再び床へと視線を戻す。
暫くして、隣から小さく息が漏れるような音が聞こえてきて視線を向けるも、フェルナンは何事もなかったように片付けを続けているだけだった。
気のせいだろうと判断し聖花も再び手を動かす。すぐ傍にいたフェルナンの口元にほんの僅かな笑みが残っていたことには最後まで気が付かなかった。




