19.「私を見てください」
放課後。久しぶりに開かれた委員会を終えた聖花は、寮へと戻る為に一人で学園内を歩いていた。
既に多くの生徒が教室を後にした時間ということもあり、普段なら人の行き交う廊下も今は静まり返っている。委員会で思いのほか遅くなってしまったことを考えながら角を曲がったところで、聖花は正面から歩いてきた人物に気付き、思わず足を止めた。
「あ、先生」
そこにいたのはフェルナンだった。
パトリシア王国から戻って以来、再び避けられていることには気付いていたものの、以前ほど話し掛けづらいとは感じていない。事情を何も知らなかった頃に比べれば警戒心も薄れていたからか、聖花は特に身構えることもなく声を掛けた。
しかし、フェルナンから返事はなかった。
「……先生?」
不審に思ってもう一度呼び掛けても、やはり何も返ってこない。
ただ無視されているのとは明らかに様子が違った。フェルナンはその場から動かず、じっと聖花を見つめている。不自然なほど一点に視線が固定されている一方で、顔を逸らそうとしているのか僅かに首が動き、それでも結局は聖花から目を離すことができずにいるようだった。
やがて、フェルナンの唇が微かに動く。
「……駄目だ」
「え?」
「早く……行ってくれ」
掠れた声だった。何を言われたのか理解できず、聖花は眉を寄せる。
「どうしたんですか?」
「いいから……早く」
今度ははっきりと拒絶するように言われたものの、普段のような余裕は欠片もない。むしろ何かを必死に堪えているようで、フェルナンは聖花から目を逸らせないまま苦しげに表情を歪めていた。
そんな異様な姿を前にして、ようやく聖花の中にも警戒心が戻ってきたのだった。
パトリシア王国で話をして以来、以前ほど危険な相手ではないのかもしれないと思っていた。けれども今のフェルナンから感じる雰囲気には覚えがあり、以前、部屋で詰め寄られた時のものとよく似ている。それどころか、あの時よりもさらに危うい何かが滲み出しているようにさえ思えた。
「……分かりました。とりあえず離れますから――」
言われた通り距離を取ろうと、聖花が一歩後ろへと下がる。
――瞬間、足元から微かな音がした。
「……え?」
視線を落とせば、フェルナンの足元から薄い氷が床を這うように広がっている。まるで本人の意思とは関係なく溢れ出しているかのように廊下を覆い、聖花が反応するより早く室内靴の底まで到達していた。
咄嗟に足を上げようとしたものの、動かない。靴底と床の僅かな隙間まで凍りついていて、完全に固定されてしまっていたのである。
「ちょっと……!」
慌てて顔を上げると、フェルナン自身も聖花の足元へと視線を落としており、その表情が僅かに歪んだ。
「だから……逃げろって、言ったのに」
「逃げろと言われても、これでは――」
言い返しかけたところで聖花は口を閉ざした。フェルナンの様子が、先ほどまでとは明らかに変わっていたのだ。
苦しげに歪んでいた表情からは次第に力が抜けていって、それまで必死に何かへ抗っていた気配まで薄れていく。だからといって落ち着いた訳ではなく、むしろ逆に抵抗することそのものをやめてしまったようにも見えた。
やがてフェルナンは、ゆっくりと聖花に向かって歩き始めた。
「先生……?」
返事はない。
一歩、また一歩と距離が縮まっていくにつれて、聖花の背筋に冷たいものが走った。視線は間違いなく自分へ向けられているはずなのに、その瞳に映っているのが自分ではないような気がしてならなかったのである。
あと数歩というところまで近付いた時、フェルナンの口元が微かに緩む。
「……シンシア」
その名前を聞いた瞬間、聖花の表情が強張った。
「こんなところにいたんだね」
「……先生」
「ずっと探してたんだよ」
先ほどまで逃げろと言っていた人物と同じとは思えないほどゆったりとした声だった。だからこそ余計に恐ろしく、聖花は身体を強張らせながら目の前のフェルナンを見上げた。
「どうして僕を置いていったの?どうして何も言わずにいなくなったの?」
問い掛けながら、フェルナンは更に近付いてきた。
何とか動こうとしたものの、凍りついた靴はびくともしない。脱いでしまえば逃げられるかもしれないという考えすら今は浮かばず、次に何をされても反応できるよう、近付いてくるフェルナンから目を離さないだけで精一杯だった。
「もう大丈夫だから」
フェルナンが手を伸ばす。
「今度は、何処にも行かせてやらない――」
その言葉を聞いた瞬間、聖花の中で何かが切れた。
怖くないわけではない。逃げられない状況で、明らかに正気とは思えない相手が目の前まで迫っているのだから恐怖を感じるのは当然だった。
けれど、それ以上に腹が立っていた。シンシアがいなくなったことも、フェルナンが今も彼女を引きずっていることも、本来なら聖花には何の関係もない。それでも事情を知ったからこそ多少は同情し、これ以上踏み込むことを止めたというのに、結局また同じように自分を別の誰かとして見ているのだ。
何故、自分が何度も巻き込まれなければならないのか。伸ばされた手が触れるよりも早く、気付けば聖花は右腕を振り上げていた。
―――パァンッ。
乾いた音が、人気のない廊下に大きく響き渡る。フェルナンの顔が勢いよく横へと流れ、その身体がぴたりと止まった。
「……っ」
フェルナンの口から小さく息が漏れた。
頬を打たれたことすら理解できていないのか暫く顔を横へ向けたまま動かなかったものの、やがてゆっくりと聖花へ向き直る。先ほどまで浮かんでいた歪んだ笑みが消え、僅かながら瞳にも焦点が戻っていた。
「セイ……カ?」
今度は間違えなかったらしい。
「そうです。私はセイカです。シンシア様ではありません」
苛立ちを隠すことなく言い切った聖花は、足元にぐっと力を込める。すると、それまでびくともしなかった氷に細かな亀裂が走り、乾いた音とともに靴底から剥がれ落ちた。
先ほどまでとは明らかに強度が違っていたものの、今の聖花にその理由を考えている余裕はない。ようやく自由になった足を動かして、改めてフェルナンと向き合った。
「前にも言いましたよね?」
フェルナンは答えなかった。ただ、聖花を見ていた瞳が再び僅かに揺らいだかと思えば、その唇から掠れた声が零れる。
「シンシア……」
「だから違うと言っているでしょう!」
一瞬は正気に戻ったように見えたというのに、フェルナンの瞳は再び焦点を失いかけ、目の前にいる聖花ではない誰かを追い始めている。
「先生」
聖花は逃げるどころか一歩踏み込むと、フェルナンの顔を両手で掴んだ。僅かに抵抗するように顔を逸らそうとする彼を逃がさず、背伸びをして至近距離からその瞳を真っ直ぐに見つめる。
「私を見てください」
その瞬間、何かが弾けるような微かな音が響いた。
「……は」
掠れた声を漏らし、フェルナンの瞳が大きく見開かれる。
何事かと聖花が眉を寄せる間にも、フェルナンは目の前で起きた何かを確かめるように彼女を凝視していた。先ほどまでとは明らかに様子が違い、驚愕さえ滲ませた顔に聖花も一瞬だけ不審に思ったものの、今はそんなことを気にしている場合ではなかった。
フェルナンが再び顔を逸らそうとして、背伸びを続けていた聖花は一旦手を離し、両足をしっかり床へとつけた。
先ほどまで肌を刺すように感じていた危うい雰囲気がいつの間にか消えている。
「……見てるよ」
「見ていません」
即座に否定すると、聖花は再びフェルナンを真正面から見据えた。
「貴方が見ていたのはシンシア様でしょう」
「違……」
「何が違うんですか」
言い訳を許すつもりもなく言葉を遮れば、フェルナンは僅かに口を閉ざした。
「私を見てください。私はここにいます」
一言ずつ、今度こそ間違えようのないようにはっきりと言い聞かせる。
「シンシア様ではなく、私を見てください」
フェルナンの唇が僅かに開いたものの声は出なかった。けれども、先ほどまで定まらなかった視線が少しずつ聖花へと向けられていて、やがて真正面から重なる。
―――今度こそ目が合った。
ほんの僅かな変化だったが、先ほどまでのように聖花の向こう側の誰かを探しているような感じはしない。途端に、聖花の胸に溜まっていた苛立ちが一気に込み上げてきた。
「……本当に、いい加減にしてください」
フェルナンは何も言わない。
「シンシア様がいなくなったことが辛かったのは分かります。何処を探しても見つからなかったことも、今までずっと引きずってきたことも」
そこまで言って、聖花は眉を寄せた。
「ですが、それと私にシンシア様を重ねることに何の関係があるんですか?他人に重ねて、それで何かが解決するんですか?」
「僕は……」
「私をシンシア様だと思い込んで、こうして巻き込んで、それで貴方は満足なんですか?」
言葉を重ねるほど、これまで押さえていたものまで次々と溢れてくる。
事情を聞いた時には、これ以上踏み込むべきではないと思った。辛い過去を無理に思い出させるのも違うと思い、自分なりにそこで線を引いたつもりだった。
けれど、当の本人がこうして何度も聖花を巻き込んでくるのであれば話は別だ。
「それに、先ほどから聞いていれば、どうしていなくなった、どうして自分を置いていったって……おかしくないですか?」
フェルナンの眉が僅かに動く。
「突然いなくなっただけなのでしょう?」
「……何が言いたいの」
「だったら、何故もう会えないと決めつけているんですか」
その言葉を聞いた瞬間、フェルナンの表情がはっきりと変わった。
「何処を探しても見つからなかったからって、それで終わりなんですか?まだ何処かで生きているかもしれないじゃないですか」
「君に何が分かる」
それまで黙っていたフェルナンから低い声が返ってきたものの、聖花は怯むことなく真正面から受け止めた。
「分かりませんよ。私はシンシア様のことを殆ど知りませんし、貴方がこれまで何をしてきたのかだって知りません」
だからこそ、と聖花は続ける。
「今まで聞いたことだけで言っています」
フェルナンの瞳が僅かに見開かれた。
「貴方は可哀想なんじゃない。見つからなかったから、もういないのだと思い込んで、他人に重ねて……そうやって知ることから逃げただけじゃないですか」
「……違う」
「何が違うんですか?」
「違う……僕は……」
否定する声とは裏腹に、その先の言葉は続かなかった。
そんなフェルナンを見ながら、聖花の脳裏にはパトリシア王国で耳にした話と、アデルから借りたあの本が浮かんでいた。
罪人となった婚約者と、彼女を逃がしたことで王族の身分を失った『殿下』。パトリシア王国で耳にした元第一王子の話。そして、リリスがフェルナンに向けて口にした名前。
これまで別々に引っ掛かっていたものが一つの答えを指し示している。
いや、本当は以前から薄々気付いていた。ただ、あまりにも有り得ないと思い、敢えてそこから目を逸らしていただけなのだ。
けれど、もう偶然だとは思えない。
「……認めたらどうですか」
「何を……」
フェルナンの声が僅かに揺れる。聖花は今度こそ逃がすまいとするように彼の目を見据えた。
「貴方自身が、一番分かっているのでしょう?」
一度だけ息を吸い、聖花は確信へと変わった名前を口にした。
「――ねえ、ナハト殿下」




