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藍の手紙、夏の終わりに――阿波おどりの季節、染めかけの青が動き出す  作者: 明石竜


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第九章 阿波おどりの裏側

 遥人から「陸久りくさんに会ってみる?」と言われたのは、翌朝だった。

 甕の管理をしながら、さりげなく言う感じだった。実桜が「どんな人ですか?」と尋ねると、「連の運営やっとる人。阿波おどりのことを本当に知りたいなら、会っといた方がいい」と答えた。

「綾乃さんのことも知っていますか?」

「知っとる。ただ、陸久さんは話したがらんかもしれん。でも、阿波おどりの現実を知っとる人間として、会う価値はあると思う」

 実桜は少し考えた。

 浴衣の謎を追うことと、阿波おどりそのものを知ることは、別のことかもしれない。でも綾乃が踊りをやめた理由が阿波おどりの中にあるなら、阿波おどりを知らずに綾乃を理解しようとするのは、地図なしで歩くようなことかもしれない。

「会ってみます」

「じゃあ夕方、連の倉庫に来て。今日、道具の確認があるから」


 連の倉庫は、商店街から少し外れた場所にあった。

 古い建物で、引き戸を開けると提灯や法被、鳴り物の道具が整然と並んでいた。阿波おどりのためだけに使われる道具が、一年のほとんどをここで過ごしているのだと分かった。

 片桐陸久は倉庫の奥で道具の確認をしていた。

 整った顔立ちだが、表情が少ない。法被姿がよく似合って、動きに無駄がなかった。遥人が「陸久さん」と声をかけると、振り返らずに「遥人か」と答えた。声が低い。

「紹介したい人がいて。水城工房の孫の、実桜さんです」

 陸久は手を止めて振り返った。実桜を一度だけ見て、短く頷いた。

「水城さんとこの」

「はい。野々瀬実桜といいます」

「聞いとる。遥人から少し」

 それだけで、また道具に向いた。

 実桜は遥人を見た。遥人は「ああいう人やから」という顔をして、肩をすくめた。


 倉庫の中で、陸久は提灯の数を確かめ、法被の状態を確認し、鳴り物の道具を点検した。一つひとつを丁寧に、しかし素早くこなしていく。

 実桜は邪魔にならない場所に立って、その様子を見ていた。

 遥人が時々手伝いながら、陸久に確認を取る。陸久は短い言葉で答える。必要なことだけを言う人だと分かった。

 しばらくして、陸久が実桜に向かって口を開いた。

「浴衣のことを調べとると聞いた」

「はい」

「なぜ」

 単刀直入だった。実桜は正直に答えた。

「染まりかけのものには続きがあると思っています。工房に四年以上置いてある浴衣に、それを感じました」

「続き」

「はい」

 陸久は手を止めて、実桜を正面から見た。

「阿波おどりは人の気持ちを救うためだけにあるんじゃない」

 唐突に聞こえたが、実桜には文脈が分かった。

「どういう意味ですか?」

「感動して、背中を押されて、前に進む。それで解決するなら、誰も苦労しない」

 陸久は道具の留め具を確かめながら、淡々と続けた。

「阿波おどりの夜だけ、泣いたり笑ったりして、何か変わったみたいな顔になる人はおる。けど、朝になったら結局元の場所へ戻っていく。戻らざるを得ん人もおる」

 実桜は黙って聞いていた。

「踊れば救われる、祭りがあれば立ち直れる、そういう話にしたがる人は多い。でも、そんなふうに意味を乗せられたら、踊る側はしんどい。祭りは人一人の人生を背負うためにあるんやない」

「……」

「戻ってきたように見えて、そのあと結局来んようになった人も見た。逆に、何も変わっとらんように見えて、何年もしてからふっと戻る人もおる。外から見える変化なんて、あてにならん」

「そう言ってはいません」

「そう思っとるやろ。浴衣の続きが阿波おどりにある、と。綾乃さんが阿波おどりで何かを受け取れば変わる、と」

 実桜は少し黙った。

「そう思っていたかもしれません」

「正直やな」

 陸久はまた道具に向いた。

「阿波おどりで人が変わったように見えても、翌日には元に戻る。変わるのは阿波おどりの夜だけで、朝が来たら現実がある。それを何度も見てきた」

「それでも、続けているんですね」

「俺の仕事やから」

 感情がない言い方だったが、その分だけ本気だと分かった。好きだから続けているのではなく、責任として支えている人の言葉だった。


 道具の確認が終わって、三人で倉庫の外に出た。

 夕暮れが始まっていた。倉庫の前の路地に、夏の光が斜めに差し込んでいる。

 陸久は煙草を取り出そうとして、実桜の視線に気づいてポケットに戻した。

「準備現場を見るか」

「いいんですか?」

「遥人が連れてきたなら、それなりの理由があるやろ」

 陸久の言い方は無愛想だったが、断っているわけではなかった。


 連の練習場は、倉庫から歩いて五分ほどの場所にある広場だった。

 すでに何人かが集まって、鳴り物の練習をしていた。笛と太鼓と鉦の音が混ざり合って、広場に広がっていく。実桜はその音の厚みに、思わず足を止めた。

 録音で聞く音とは違った。空気が揺れる感じがあった。

 陸久は練習している人たちに短い指示を出しながら、実桜に説明した。

「阿波おどりは見る側は自由やが、踊る側は細かい決まりがある。連ごとのスタイル、衣装、道を歩く順番。全部、長い時間をかけて作ってきたものや」

「それを陸久さんが管理しているんですか」

「俺だけじゃない。でも俺は裏方が向いとるから、ここにいる」

「踊らないんですか?」

「昔は踊っとった」

 それだけで、それ以上は言わなかった。

 踊っていた人が、今は裏方にいる。その経緯を実桜は聞けなかった。聞く権利がまだない、と感じた。

 練習を見ていると、笛の音が一つだけずれていた。陸久はすぐに気づいて、その人のところへ歩いていった。声を荒げることなく、どこがどうずれているかを正確に伝えた。相手は頷いて、もう一度吹く。今度はきれいに揃った。

 厳しいが、乱暴ではない。精度を求めているのは、阿波おどりへの誠実さからだと分かった。


 練習が一段落したとき、陸久が実桜の隣に来た。

「綾乃さんのことは、知っとる」

 実桜は驚かなかった。遥人が連つながりだと言っていたから、陸久も知っているだろうと思っていた。

「踊りをやめた理由も?」

「大体は」

「教えてもらえますか」

 陸久は少しの間、練習している人たちを見ていた。

「綾乃さんから直接聞いた話じゃないから、俺の口から言うことやない」

 またその言葉だった。実桜はもう反発しなかった。

「綾乃さんに、また踊ってほしいと思いますか」

「それは関係ない」

「関係ない?」

「俺が思うかどうかは、綾乃さんの話とは別の話や。踊るかどうかは本人が決めること」

「でも、陸久さんは何か思っていますか。踊りをやめた人について」

 陸久は実桜を見た。

「やめた理由が何であれ、踊りたかった人間が踊れなくなるのは、損失や。その人にとっても、阿波おどりの踊り子にとっても」

「損失、という言葉を使うんですね」

「感情的に言うより正確やろ」

 実桜はそれを聞いて、少し陸久が分かった気がした。

 感情を抑えているのではなく、感情を正確な言葉に変える人だった。それが冷たく見えても、実際は人一倍、阿波おどりと踊り手のことを考えている。

「私が浴衣の続きを探していることは、無意味だと思いますか?」

「無意味かどうかは分からん。ただ、阿波おどりがあれば解決する、とは思うな。阿波おどりは道具やない」

「道具にしているつもりはないです」

「なら、いい」

 短い答えだったが、それは承認に近い響きがあった。


 帰り道、遥人と二人で歩きながら、実桜は陸久の言葉を整理していた。

「陸久さんは、厳しい人ですね」

「厳しいけど、正直な人や。好きなこと嫌いなことが陸久さんにも当然あるけど、それを表に出さん」

「なぜそれほど阿波おどりに誠実なんですか」

「昔、何かがあったんやと思う。でもそれも、俺の口から言うことやない話やから」

 遥人はそう言って笑った。いつもの軽い笑い方だったが、その後ろに重さがあることは分かった。

 町の人がそれぞれに、言えないものを持っている。言えないことの多さが、この町の深さでもあるのかもしれない、と実桜は思った。

 商店街の端まで来ると、提灯に電球が入っていた。

 昨日まで輪郭だけだった提灯が、今日は光を持っていた。阿波おどりの準備が、また一段進んでいた。

「きれいになってきました」

「本番が近くなると、町が変わるんよ。光の量が違う」

 実桜は提灯の列を見上げた。

 橙色の光が、アーケードの天井に連なっている。その光の中を、夕方の人波が流れていく。

 阿波おどりは道具やない、と陸久は言った。

 実桜はその言葉を胸の中で確かめた。

 綾乃に踊ってほしい、という気持ちが自分の中にあることに気づいていた。でもそれは、踊ることで綾乃が変わる、という期待ではなく、綾乃の中の止まったものが、動き出せる場所があるといいという、もっと小さな願いだった。

 陸久の言う通り、阿波おどりはその願いのための道具ではない。

 でも、扉は一つじゃないとも思う。

 綾乃が自分で扉を開けるとき、その傍らに何かが置いてあればいい。浴衣でも、手紙でも、あるいはただ待っている人の存在でも。

 阿波おどり本番まで、あと十日だった。

 提灯の光が、夏の入口を照らしていた。


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