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藍の手紙、夏の終わりに――阿波おどりの季節、染めかけの青が動き出す  作者: 明石竜


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8/15

第八章 染めかけのまま

 翌日午前中の棚の整理中だった。

 早朝の雨でまた湿気が高くなったため、祖母が棚の通気を確かめるよう実桜に頼んだ。道具や材料が詰まった棚の奥まで手を入れて、布や紙が傷んでいないかを確かめる地味な作業だった。

 あの包みの横に、手を入れたとき気づいた。

 和紙の包みの後ろ側、棚の板に近い場所に、薄い封筒があった。白い封筒で、長年そこにあったらしく紙の端がわずかに波打っていた。宛名がない。差出人もない。

 実桜はすぐに開けなかった。

 祖母を呼ぼうかとも思ったが、祖母はちょうど甕の管理をしていて、集中しているときに声をかけることを実桜は覚えていた。封筒を手に持ったまま、しばらく棚の前に立っていた。

 封はしてあったが、糊付けが経年で剥がれていた。

 実桜は指先で慎重に封を開いた。

 中には、便箋が一枚だけ入っていた。


 文字は丁寧な手書きで、インクは褪せていたが読めた。

 短い文章だった。

 便箋の三分の一も使っていない。書いたというより、書きかけて止まったような量だった。

 拝啓、という書き出しはなかった。宛名も、署名もない。ただ、いくつかの文が、そこに置かれていた。

 実桜は二度読んだ。

 手紙というより、渡せなかった言葉の断片だった。

 誰かへの言葉が書かれているのは分かった。大切に思っていたこと、伝えられなかったこと、踊りの季節が終わる前に言いたかったこと。でも何を言いたかったのかの核心が、文章の途中で止まっていた。まるで書いている途中で筆を置いたように。

 あるいは、書き終えたのに渡せなかったのかもしれない。

 渡せなかったのか、渡さなかったのか。読んでいるだけでは分からなかった。


 遥人が来たのは昼前だった。

 実桜が封筒のことを話すと、遥人は少し目を細めた。

「見てもいい?」

「祖母に確かめた方がいいと思って、まだ誰にも見せていません」

「そうやな」

 祖母に声をかけると、甕から離れた祖母は実桜の手の封筒を見て、一瞬だけ動きを止めた。

「どこにあった」

「包みの後ろです。棚の板との間に」

「そうか」

 祖母は封筒を受け取って、中を確かめた。読んだかどうかは分からなかった。短い時間、手の中に持っていて、それから実桜に返した。

「知っとったんですか?」

「あるのは知っとった。中は見とらん」

「なぜ」

「見る必要がなかったから」

 それだけだった。

 祖母は封筒の中を見なかった。棚の奥にあることを知っていても、手を入れなかった。それが祖母の線引きだった。

「これも、綾乃さんのものですか?」

「浴衣といっしょに預かったものや」

「綾乃さんが預けたんですか?」

「受け取れなかったとき、いっしょに置いていった」

 実桜は封筒をまた手に持った。

 受け取れなかったとき、いっしょに置いていった。浴衣だけでなく、この手紙も。綾乃は浴衣を受け取らなかっただけでなく、この手紙も誰かに渡さなかった。あるいは渡せなかった。それを工房に預けて、四年以上が経った。

「この手紙は、綾乃さんが書いたものですか?」

「そうやと思う」

「誰かへの手紙ですか?」

「それは分からん。中は読んどらんから」


 午後、柚葉が来た。

 いつものように引き戸を元気よく開けて、「京子さーん」と呼びながら入ってきた。工房の中の空気がいつもと少し違うのに気づいたらしく、「何かあった?」と実桜に尋ねた。

「棚から、封筒が出てきました」

「封筒?」

 実桜は経緯を話した。柚葉は黙って聞いていた。いつものよく動く顔が、今日は穏やかだった。

「見てもいいですか?」

柚葉にそう聞かれ、実桜は祖母を見た。祖母は「柚葉には見せてええ」と答えた。

 柚葉は封筒を受け取って、中の便箋を取り出した。

 読んでいるあいだ、柚葉は一言も話さなかった。

 それから顔を上げて、実桜を見た。

「これ、姉ちゃんの話し方に似とる」

 声は穏やかだった。

「話し方に?」

「言葉の選び方。文の終わり方。分かる、うちの姉ちゃんやこれ」

 柚葉は便箋を、両手で丁寧に持っていた。

「誰への手紙か分かりますか?」

 柚葉は少し考えてから、首を振った。

「分からない。でも、大事な人への手紙やと思う。こういう言葉の使い方するときの姉ちゃんは、本当に大事にしてるときやから」

「どんな人だと思いますか?」

「……踊りの人、じゃないかな。阿波おどりのことが書いてあるから。踊りの季節って書いてあるし」

 実桜はもう一度、文面を思い返した。

 踊りの季節が終わる前に言いたかったこと。伝えられなかったこと。大切に思っていたこと。

 書きかけ、あるいは書き終えたのに渡せなかった言葉。


 遥人に封筒のことを話したとき、遥人はしばらく黙っていた。

 甕の横に立ったまま、考えている顔だった。

「綾乃さんが踊りをやめた年に、連で何かあったのは知っとる」

「何があったんですか?」

「詳しくは言えんけど、大切な人がいなくなった、ということは聞いとる」

「いなくなった、というのは」

「いなくなった、や。それ以上は、俺の口から言えることやない」

 いなくなった。その言葉の重さが、実桜の胸に静かに落ちた。

 亡くなったのか、離れたのか、あるいは別の何かなのか。遥人は言わなかった。でも踊りをやめるほどの喪失だったということは、分かった。

「手紙は、その人への言葉かもしれないですね」

「そうかもしれん」

「渡せなかったとしたら」

「渡せなかったまま、ここに置いた、ということやな」

 実桜は封筒を手の中で見た。

 浴衣も、手紙も、途中で止まったものだった。染まりかけの浴衣と、渡せなかった言葉。どちらも、あの棚の奥に、並んで置かれていた。

 綾乃は受け取れなかったとき、浴衣だけでなく手紙もいっしょに置いていった。それはなぜだろう、と実桜は思った。

 捨てることができなかったからか。

 手放すことも、持ち続けることもできなかったから、誰かに預けたのかもしれない。

 工房は、染まりかけのものを保管する場所でもあった。


 夕方、柚葉が帰る前に実桜に声をかけた。

「実桜さん、この手紙、姉ちゃんに見せた方がいいと思いますか?」

 実桜は少し考えた。

「私には分からないです。柚葉さんはどう思いますか?」

「分からん。でも、自分で置いてったものやから、姉ちゃんはここにあることは知っとる」

「知っていて、それでも四年間、取りに来なかった」

「そう」

 柚葉はトートバッグの肩紐を握って、少し下を向いた。

「姉ちゃんが踊りをやめた理由、私、全部は知らないんです。事情がある、というのは分かっとる。でも詳しくは教えてくれなくて」

「それは、あなたを守るためかもしれないですね」

「それが嫌やねん」

柚葉は感情的ではなかった。冷静で、しかしはっきりした言い方だった。

「守られるのが?」

「守るために、全部一人で抱えとるのが。姉ちゃんらしいけど、それが嫌」

 実桜は柚葉の顔を見た。

 まっすぐで、不器用なほど本音で生きる子だと思っていた。それは今も変わらないが、その真っ直ぐさの奥に、長い時間の積み重ねがあることが見えた。姉が何かを抱えているのを知りながら、踏み込めずにいた時間。

「柚葉さんは、お姉さんに踊りに戻ってほしいですか?」

「戻ってほしい。でもそれより、苦しいまま止まっていてほしくない」

「戻ることと、止まらないことは、別のことですか?」

「別やと思う。踊らなくてもいい。でも、止まったまま笑ってるのは、違う」

 実桜は何も言わなかった。

 言えなかった、というより、柚葉の言葉の方が実桜が言えるどんな言葉より正確だったから。


 夜、縁側に出ると星が見えた。

 実桜は手の中の封筒を見た。祖母に返しておくべきだったが、気づくとまだ持っていた。

 渡せなかった言葉。届かなかった手紙。

 手紙は届いて初めて手紙になる。届かなければ、ただの言葉の欠片だ。でもその欠片にも、確かに時間が染み込んでいる。書いた人の時間、書かれた季節、渡せなかった夜の重さ。

 実桜は自分の胸の中にも、届けられなかった言葉がいくつかあることを思った。

 東京でうまくいかなかったとき、誰かに本当のことを言えたか。大丈夫です、と言い続けて、それで終わらせてきた。言えなかった言葉が、胸の棚の奥に積んである。

 綾乃のことを、遠い話だとは思えなかった。

 封筒を持って立ち上がり、工房の中へ戻った。

 棚の前に立って、和紙の包みの横に、そっと封筒を戻した。

 浴衣の隣に、手紙が戻った。

 染まりかけのものと、渡せなかったものが、また並んだ。

 工房の中が、夜の静けさに沈んでいく。

 実桜はしばらくその前に立っていた。

 阿波おどり本番まで、あと十日あまりだった。

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