第八章 染めかけのまま
翌日午前中の棚の整理中だった。
早朝の雨でまた湿気が高くなったため、祖母が棚の通気を確かめるよう実桜に頼んだ。道具や材料が詰まった棚の奥まで手を入れて、布や紙が傷んでいないかを確かめる地味な作業だった。
あの包みの横に、手を入れたとき気づいた。
和紙の包みの後ろ側、棚の板に近い場所に、薄い封筒があった。白い封筒で、長年そこにあったらしく紙の端がわずかに波打っていた。宛名がない。差出人もない。
実桜はすぐに開けなかった。
祖母を呼ぼうかとも思ったが、祖母はちょうど甕の管理をしていて、集中しているときに声をかけることを実桜は覚えていた。封筒を手に持ったまま、しばらく棚の前に立っていた。
封はしてあったが、糊付けが経年で剥がれていた。
実桜は指先で慎重に封を開いた。
中には、便箋が一枚だけ入っていた。
文字は丁寧な手書きで、インクは褪せていたが読めた。
短い文章だった。
便箋の三分の一も使っていない。書いたというより、書きかけて止まったような量だった。
拝啓、という書き出しはなかった。宛名も、署名もない。ただ、いくつかの文が、そこに置かれていた。
実桜は二度読んだ。
手紙というより、渡せなかった言葉の断片だった。
誰かへの言葉が書かれているのは分かった。大切に思っていたこと、伝えられなかったこと、踊りの季節が終わる前に言いたかったこと。でも何を言いたかったのかの核心が、文章の途中で止まっていた。まるで書いている途中で筆を置いたように。
あるいは、書き終えたのに渡せなかったのかもしれない。
渡せなかったのか、渡さなかったのか。読んでいるだけでは分からなかった。
遥人が来たのは昼前だった。
実桜が封筒のことを話すと、遥人は少し目を細めた。
「見てもいい?」
「祖母に確かめた方がいいと思って、まだ誰にも見せていません」
「そうやな」
祖母に声をかけると、甕から離れた祖母は実桜の手の封筒を見て、一瞬だけ動きを止めた。
「どこにあった」
「包みの後ろです。棚の板との間に」
「そうか」
祖母は封筒を受け取って、中を確かめた。読んだかどうかは分からなかった。短い時間、手の中に持っていて、それから実桜に返した。
「知っとったんですか?」
「あるのは知っとった。中は見とらん」
「なぜ」
「見る必要がなかったから」
それだけだった。
祖母は封筒の中を見なかった。棚の奥にあることを知っていても、手を入れなかった。それが祖母の線引きだった。
「これも、綾乃さんのものですか?」
「浴衣といっしょに預かったものや」
「綾乃さんが預けたんですか?」
「受け取れなかったとき、いっしょに置いていった」
実桜は封筒をまた手に持った。
受け取れなかったとき、いっしょに置いていった。浴衣だけでなく、この手紙も。綾乃は浴衣を受け取らなかっただけでなく、この手紙も誰かに渡さなかった。あるいは渡せなかった。それを工房に預けて、四年以上が経った。
「この手紙は、綾乃さんが書いたものですか?」
「そうやと思う」
「誰かへの手紙ですか?」
「それは分からん。中は読んどらんから」
午後、柚葉が来た。
いつものように引き戸を元気よく開けて、「京子さーん」と呼びながら入ってきた。工房の中の空気がいつもと少し違うのに気づいたらしく、「何かあった?」と実桜に尋ねた。
「棚から、封筒が出てきました」
「封筒?」
実桜は経緯を話した。柚葉は黙って聞いていた。いつものよく動く顔が、今日は穏やかだった。
「見てもいいですか?」
柚葉にそう聞かれ、実桜は祖母を見た。祖母は「柚葉には見せてええ」と答えた。
柚葉は封筒を受け取って、中の便箋を取り出した。
読んでいるあいだ、柚葉は一言も話さなかった。
それから顔を上げて、実桜を見た。
「これ、姉ちゃんの話し方に似とる」
声は穏やかだった。
「話し方に?」
「言葉の選び方。文の終わり方。分かる、うちの姉ちゃんやこれ」
柚葉は便箋を、両手で丁寧に持っていた。
「誰への手紙か分かりますか?」
柚葉は少し考えてから、首を振った。
「分からない。でも、大事な人への手紙やと思う。こういう言葉の使い方するときの姉ちゃんは、本当に大事にしてるときやから」
「どんな人だと思いますか?」
「……踊りの人、じゃないかな。阿波おどりのことが書いてあるから。踊りの季節って書いてあるし」
実桜はもう一度、文面を思い返した。
踊りの季節が終わる前に言いたかったこと。伝えられなかったこと。大切に思っていたこと。
書きかけ、あるいは書き終えたのに渡せなかった言葉。
遥人に封筒のことを話したとき、遥人はしばらく黙っていた。
甕の横に立ったまま、考えている顔だった。
「綾乃さんが踊りをやめた年に、連で何かあったのは知っとる」
「何があったんですか?」
「詳しくは言えんけど、大切な人がいなくなった、ということは聞いとる」
「いなくなった、というのは」
「いなくなった、や。それ以上は、俺の口から言えることやない」
いなくなった。その言葉の重さが、実桜の胸に静かに落ちた。
亡くなったのか、離れたのか、あるいは別の何かなのか。遥人は言わなかった。でも踊りをやめるほどの喪失だったということは、分かった。
「手紙は、その人への言葉かもしれないですね」
「そうかもしれん」
「渡せなかったとしたら」
「渡せなかったまま、ここに置いた、ということやな」
実桜は封筒を手の中で見た。
浴衣も、手紙も、途中で止まったものだった。染まりかけの浴衣と、渡せなかった言葉。どちらも、あの棚の奥に、並んで置かれていた。
綾乃は受け取れなかったとき、浴衣だけでなく手紙もいっしょに置いていった。それはなぜだろう、と実桜は思った。
捨てることができなかったからか。
手放すことも、持ち続けることもできなかったから、誰かに預けたのかもしれない。
工房は、染まりかけのものを保管する場所でもあった。
夕方、柚葉が帰る前に実桜に声をかけた。
「実桜さん、この手紙、姉ちゃんに見せた方がいいと思いますか?」
実桜は少し考えた。
「私には分からないです。柚葉さんはどう思いますか?」
「分からん。でも、自分で置いてったものやから、姉ちゃんはここにあることは知っとる」
「知っていて、それでも四年間、取りに来なかった」
「そう」
柚葉はトートバッグの肩紐を握って、少し下を向いた。
「姉ちゃんが踊りをやめた理由、私、全部は知らないんです。事情がある、というのは分かっとる。でも詳しくは教えてくれなくて」
「それは、あなたを守るためかもしれないですね」
「それが嫌やねん」
柚葉は感情的ではなかった。冷静で、しかしはっきりした言い方だった。
「守られるのが?」
「守るために、全部一人で抱えとるのが。姉ちゃんらしいけど、それが嫌」
実桜は柚葉の顔を見た。
まっすぐで、不器用なほど本音で生きる子だと思っていた。それは今も変わらないが、その真っ直ぐさの奥に、長い時間の積み重ねがあることが見えた。姉が何かを抱えているのを知りながら、踏み込めずにいた時間。
「柚葉さんは、お姉さんに踊りに戻ってほしいですか?」
「戻ってほしい。でもそれより、苦しいまま止まっていてほしくない」
「戻ることと、止まらないことは、別のことですか?」
「別やと思う。踊らなくてもいい。でも、止まったまま笑ってるのは、違う」
実桜は何も言わなかった。
言えなかった、というより、柚葉の言葉の方が実桜が言えるどんな言葉より正確だったから。
夜、縁側に出ると星が見えた。
実桜は手の中の封筒を見た。祖母に返しておくべきだったが、気づくとまだ持っていた。
渡せなかった言葉。届かなかった手紙。
手紙は届いて初めて手紙になる。届かなければ、ただの言葉の欠片だ。でもその欠片にも、確かに時間が染み込んでいる。書いた人の時間、書かれた季節、渡せなかった夜の重さ。
実桜は自分の胸の中にも、届けられなかった言葉がいくつかあることを思った。
東京でうまくいかなかったとき、誰かに本当のことを言えたか。大丈夫です、と言い続けて、それで終わらせてきた。言えなかった言葉が、胸の棚の奥に積んである。
綾乃のことを、遠い話だとは思えなかった。
封筒を持って立ち上がり、工房の中へ戻った。
棚の前に立って、和紙の包みの横に、そっと封筒を戻した。
浴衣の隣に、手紙が戻った。
染まりかけのものと、渡せなかったものが、また並んだ。
工房の中が、夜の静けさに沈んでいく。
実桜はしばらくその前に立っていた。
阿波おどり本番まで、あと十日あまりだった。




