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藍の手紙、夏の終わりに――阿波おどりの季節、染めかけの青が動き出す  作者: 明石竜


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第七章 踊らなくなった人

 柚葉から綾乃のことでメッセージが来たのは、翌日の朝だった。

「姉に話しました。会ってもいいと言っています。ただ、浴衣の話は自分からは言えないかもしれないと言っていました」

 続けて、

「でも会うことは嫌じゃないって。実桜さんのことは私から伝えてあります」という一文が来た。

 実桜は少しの間、その文面を見ていた。

 会うことは嫌じゃない。それは、踏み込んでいいということではない。ただ、扉が少し開いている、ということだけだった。

「分かりました。柚葉さんもいっしょに来てもらえますか」と返すと、「行きます、絶対」という返事がすぐに来た。


 待ち合わせは商店街の端にある小さな喫茶店で、昼過ぎの時間だった。

 遥人には声をかけなかった。今日は実桜と柚葉と綾乃の三人の方がいいと思った。遥人もそれを察したのか、「どうやったかあとで教えて」とだけ言って、甕の管理に集中していた。

 喫茶店は古い建物の一階にあって、木のカウンターと、テーブルが四つだけの静かな店だった。昼時を過ぎていたせいか客は少なく、奥の席が空いていた。

 柚葉が先に来ていた。

 いつものTシャツ姿で、トートバッグを胸に抱えるようにして、入口の前に立っていた。実桜を見つけると「来た」と言って、小さく手を上げた。

「お姉ちゃん、あとちょっとで来ます。連絡来てるから」

「ありがとう、柚葉さん。間を取ってくれて」

「私も会いたかったし。お姉ちゃん最近、なんか考えとる顔してるから」

「考えとる顔?」

「眉山に一人で行ったって言ってたから。あそこ、ひとりで行くときはだいたいそういうときやから」

 実桜は遥人の言葉を思い出した。眉山は時々ひとりで来たくなる場所、と言っていた。

 引き戸が開いた。


 最初に気づいたのは、立ち姿だった。

 遠目に眉山で見たときより、はっきりと分かった。背筋がまっすぐで、足の置き方に無駄がない。踊りの名残が、普段の動作の中に染み込んでいる。それは意識してそうしているのではなく、体に入ってしまっているものだった。

 落ち着いた色のシャツに、細いパンツ。化粧は薄く、髪は肩より少し下まであった。年齢より少し落ち着いて見えた。

 実桜と目が合うと、綾乃は微かに微笑んだ。

 警戒でも歓迎でもない、穏やかな笑い方だった。

「藤川綾乃です。妹がお世話になっています」

「野々瀬実桜です。工房で祖母の手伝いをしています」

「京子さんの。妹から聞いています」

 柚葉が「座ろ座ろ」と二人を促して、奥の席へ向かった。綾乃はその後ろを、少し苦笑いしながら歩いた。妹への苦笑いだったが、嫌がっている感じはなかった。


 注文を済ませてから、しばらくは当たり障りのない話をした。

 工房の仕事のこと、柚葉の学校のこと、阿波おどり本番までの準備が町全体で進んでいること。綾乃は聞き上手で、実桜が話すことに短く、でも的確に応じた。話していて居心地が悪くない人だと分かった。

 ただ、阿波おどりの話になると、綾乃の答えがわずかに短くなった。

 距離を置いている、というより、触れる範囲を自分で決めている、という感じだった。

「連の話は、今でも聞きますか?」と実桜が尋ねると、綾乃は「妹から少し」と答えた。

「柚葉さんが踊りに興味があることは、知っていますか?」

「知っています」

 綾乃の声が、ほんの少し変わった。

「どう思いますか?」

「柚葉は自分で決められる年齢だから」

 答えには乗れない、というより、乗りたくない、というような言い方だった。柚葉は「また、その言い方」という顔をしたが、口には出さなかった。

 実桜は少しの間を置いてから、尋ねた。

「工房のことで、少しだけ聞いてもいいですか?」

 綾乃の目が、実桜の方へ向いた。

「どんなことですか?」

「工房に、染めかけの浴衣があります。かなり長い間、棚に保管されています」

 綾乃は表情を変えなかった。変えなかった、というより、変えないように保っている、という感じがした。

「知っています」

「持ち主の方に届けようとしたが、受け取ってもらえなかったと祖母から聞きました」

「……そうですね」

「それがあなたのものだということも」

 綾乃はコーヒーカップを両手で持って、少し下を向いた。

 長い沈黙ではなかった。でも何かを確かめるような、短い間だった。

「柚葉から聞きましたか?」

「はい。それから、商店街の写真館で、写真を見せてもらいました。阿波おどりの、昔の写真を」

「佳乃さんに」

「はい。浴衣の柄が一致して、それで」

 綾乃は小さく息を吐いた。

「もう昔のことだから」

 柔らかい声だった。押し返しているわけではない。でも「もうここまで」という線が、その言葉の後ろに引かれていた。

「踊っていた頃の写真を見ました。とても、好きで踊っていたのが分かりました」

 綾乃は顔を上げなかった。

「そうだったかもしれません」

「そうだったかもしれない、というのは」

「今となっては、あの頃の気持ちを正確に思い出せないから」

 正確に思い出せない、という言葉の選び方が、実桜の胸に引っかかった。思い出したくない、ではなく、思い出せない、と言った。遠ざけているのか、本当に届かなくなっているのか、あるいはどちらでもない何かなのか。


 柚葉がトイレに立った隙に、席は実桜と綾乃の二人になった。

 綾乃は窓の外を見ていた。商店街のアーケードが見えて、その天井に提灯が並んでいた。

「阿波おどりまで、もうすぐですね」

「そうですね」

「嫌いですか、阿波おどりが」

 綾乃は少し驚いた顔をした。柔らかい驚き方だった。

「嫌いでは、ないです」

「でも避けている、という感じがします」

 踏み込みすぎたかもしれない、と実桜は思った。でも綾乃は怒らなかった。

 ただ、答える前に、少しだけ視線を伏せた。

「避けている、というより」

 綾乃は言いかけて、膝の上で指先を重ねた。

「近づくと、体の方が先に思い出してしまうんです」

 綾乃は、また窓の方を見た。

「正確には、自分があの中にいることを、想像できないんです。あの場所に踊りに行く自分が、どうしても見えなくて」

「見えなくなったのは、ある時から?」

「ええ」

「それは、浴衣を受け取らなかった時期と、重なりますか?」

 綾乃はゆっくりと実桜を見た。

「重なります」

「そうですか」

「……あなたは、なぜそんなに気にするんですか?」

 実桜は正直に答えた。

「染まりかけの浴衣が、四年以上置いてある。途中で止まったものには、続きがあるはずだと思っています。それだけです」

「続き」

「染まりきっていないものには、まだ先がある。そういう気がして」

 綾乃は実桜の顔を見ていた。

 見ていた、というより、その言葉を受け取っていいのか、自分でも分からないように見えた。

「もう昔のことだから、と言いましたが。自分でも、本当にそう思えているかは、分からないです」

 それだけ言って、綾乃はコーヒーを一口飲んだ。


 柚葉が戻ってきて、席に座りながら「何話してた?」と尋ねた。

「いろいろ」

実桜が答えた。

「お姉ちゃん、どんな顔してた?」

「普通の顔」

「普通じゃない顔してる」

「普通よ」

 綾乃はすぐに反論する。

「ふうん」

 柚葉はそう反応して、アイスコーヒーをストローで混ぜた。それからあっさりとした顔で、綾乃に向かって言った。

「私、連の練習、見に行ってる……お姉ちゃんには、今日ちゃんと言おうと思ってた」

 綾乃の手が、コーヒーカップの上で止まった。

「いつから?」

「少し前から。見てるだけやけど。でも、踊りたい」

 柚葉の声は明るかったが、真剣だった。

「柚葉」

「だめって言わんといて。もう言い訳とか、理由とか、聞きたくないから」

 綾乃は何かを言おうとして、止めた。

 実桜は二人を見ていた。

 止めた、というのが、綾乃の正直さだと思った。反射的に止めようとした言葉を、自分で引っ込めた。その引っ込め方に、まだ何かが残っていることが見えた。


 喫茶店を出たのは、二時間近く経ってからだった。

 綾乃は「今日は来てくれてありがとうございました」と実桜に言った。礼儀として言っているのではなく、本当にそう思っている言い方だった。

「こちらこそ、会ってもらえてよかったです」

「浴衣のことは、まだ、すぐには」

「急ぎません。祖母も待っています。ずっと」

 実桜がそう言うと、綾乃は少し目を伏せた。

「京子さんが、そう言っていましたか」

「処分する理由がないと言っていました。受け取ると言うまでは」

 綾乃はしばらく何も言わなかった。

 それから「そうですか」と、短く言った。声が少し変わっていた。柔らかく、でも何かをこらえているような変わり方だった。

 柚葉が「また来てね、実桜さん」と言いながら、綾乃の隣に並んだ。二人の姉妹が並ぶと、顔の輪郭が少し似ていた。

 商店街の人波の中へ、二人は歩いていった。

 途中で綾乃が一度だけ振り返った。実桜を確かめるように、それとも何かを言いかけるように。でも何も言わず、また前へ向いた。


 工房に戻ると、遥人がいた。

 実桜の顔を見て、「どうやった?」と尋ねた。

「会えました」

「綾乃さんは」

「穏やかで、感じのいい人でした。でも……」

 実桜は少しの間を置いた。

「浴衣のことを、昔のことだからと言いました。でも、本当にそう思えているかは分からないとも言いました」

「自分で言ったんか、それを」

「はい」

 遥人は黙って頷いた。

「俺が綾乃さんを知っとる限り、本音を他人に言う人じゃないから。それを言ったなら、実桜ちゃんのことを信用したんやと思う」

「信用、か」

「会って最初の日に、それを言えたということは」

 実桜は棚の方を見た。

 包みは今日もひっそりとそこにあった。和紙の縁から、少しだけ布が見えている。染まりかけの、途中の青。

 綾乃は昔のことだと言った。でも本当にそう思えているかは分からないとも言った。矛盾しているようで、矛盾していなかった。終わったことにして生きていく時間と、まだ終わっていないものを抱えたまま生きていく時間が、一人の中に同時にある。それはたぶん、珍しいことではなかった。

 実桜も、そういう時間を持っていた。

 東京でのことを終わったことにしようとして、でも手放しきれずに帰ってきた。そのまま工房で水を触り、布を洗い、藍の匂いの中で過ごしている。

 染まりかけている、のかもしれない。自分自身も。

「まだ続きがある、という確信は深まりました」

 実桜がそう言うと、遥人は「そうやな」と短く答えて、甕の方へ向いた。

 工房の外から、夕暮れ前の光が差し込んでいた。その光の中に、藍の染まった布が揺れていた。

 青が、確かにそこにあった。


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