第六章 眉山の夕暮れ
柚葉への連絡は、翌日の昼前に返ってきた。
短いメッセージだった。「綾乃姉に話してみます。でも急かさないでほしい」という一文と、それから少し間を置いて「姉のことを大事にしてくれるなら、会わせます」という一文が続いた。
実桜は「分かりました。急ぎません」と返した。
それでいい、と思った。順番がある、と佳乃が言った言葉の意味が、少しずつ体に馴染んできていた。知りたいという気持ちと、踏み込み方の加減は、別のことだった。
その日の工房は静かだった。
祖母が午後から少し体を休めると言って、奥の部屋に引っ込んだ。遥人も今日は連の用事があって来ない。実桜は一人で甕の見回りをして、棚の整理の続きをして、染め上がった布に最後の水通しをした。
ひとつひとつの仕事が、手に慣れてきていた。
最初は何をどの順番でやればいいかも分からなかった。祖母に言われるたびに確かめて、やり直して、また確かめた。それが今は、言われなくても次の手が分かるようになっている。体が覚えた、という感じではなく、仕事の流れが自分の中に入ってきた、という感じだった。
水通しをしながら、実桜は布の色を見ていた。
同じ藍から染まったはずなのに、一枚一枚で少しずつ色が違う。甕に入れる角度、引き上げるタイミング、絞り方のわずかな差が、色に出る。祖母が「同じ青は一つもない」と言っていた意味が、手を動かすほど分かってきた。
夕方近くに遥人から短いメッセージが来た。
「連の用事が早く終わった。眉山、行けへん?」
眉山、と実桜は繰り返した。
徳島市街の南西に立つ山で、町のどこからでも見える。緩やかな稜線が、子どもの頃から変わらず空の一部になっていた。ロープウェイで上れると聞いたことがある。
祖母に声をかけると「行っておいで」と言われた。それ以上は何も言わなかった。
ロープウェイを降りると、風があった。
市街の暑さとは違う、少し高いところの風だった。夕方が近いせいか、観光客は少なく、展望台に出るとほとんど人がいなかった。
徳島の町が、足の下に広がっていた。
吉野川の支流が幾筋も光を反射して、市街を縫うように流れている。街路が碁盤の目に近い形で広がり、その中に建物が密集している。遠く水平線の方に、海の光がうっすら見えた。
実桜はしばらく無言でそれを見ていた。
高いところから町を見下ろすと、自分がその中にいた時間の密度が変わって見えた。工房も、商店街も、写真館も、あの路地も。全部ここに入っている。小さいが、確かにある。
「きれいですね」
「夕方が一番好きやな、俺は」
遥人は柵に肘をかけて、町を見ていた。
「川が多い」
「そうやね。水の町やから。藍の産地としても、水の質がよかったことが大きいと聞いとる」
「水が色を作るんですね」
「染料の中で布が変わるのも、水があってこそやしな」
風が一つ通り過ぎた。夕暮れの光が町全体に橙色を乗せていた。
しばらくして、遥人が打ち明けた。
「俺も一回、出たんよ。県外に」
脈絡なく聞こえたが、実桜は続きを待った。
「大学で大阪に行って、卒業してからも向こうで就職した。二年くらい」
「徳島には戻りたかったんですか?」
「戻りたい、というより、向こうで生きていくイメージが、どうしても薄かった。仕事は悪くなかったけど、ここで藍師の見習いをしたい、連で踊り続けたい、という気持ちが消えんかった」
「それで戻ったんですか?」
「そう。でも戻ったとき、同期に言われたんよ。『結局帰ってきたんやな』って」
遥人の声は平坦だったが、その言葉の重さは隠れていなかった。
「どういう意味で言われたんですか、それは」
「本人はたぶん、深い意味はなかったと思う。でも『結局』という言葉には、何かが入っとる。諦めたとか、逃げたとか、そういうニュアンスが」
「そうは思わなかったんですか?」
「最初は気にしなかった。でもあとで、じわじわ来た。戻ることを、自分の中で弁護しないといけない気がして。理由を並べて、正当化して、それでやっとここにいる気になる感じが、しばらく続いた」
実桜は柵の縁を握った。
「今は?」
「今は違う」
「どうして変わったんですか?」
遥人は少し間を置いた。
「藍甕の世話をしとるときに、ふと思ったんよ。この甕は毎日見てないとあかん。温度も、泡の状態も、かき混ぜる加減も。それは大阪からはできない仕事やと。それだけの話で、弁護も正当化も要らんかった」
「ここにしかできないことがあった」
「そう言うとかっこええけど、単純にそれだけやった。好きなもんが、ここにある。それだけで十分やった」
町が、少しずつ夕暮れに沈んでいく。
実桜は遥人の言葉を胸の中で転がした。
戻ることを恥じていた、という気持ちは、実桜にも分かった。徳島に帰ってきたとき、自分でも「逃げてきた」と思った。それは今も消えていない。でも遥人の話を聞いていると、戻ることの意味が少し別の形に見えてくる気がした。
展望台の端の方で、少し離れて景色を見ていたとき、遥人が「あ」と言った。
実桜は視線を追った。
ロープウェイの乗り場の近く、マチ☆アソビカフェの建物前に一人の女性が立っていた。落ち着いた色のワンピースで、髪は長め。遠目でも、立ち姿に何か独特のものがあった。
「知っている人ですか?」
「綾乃さんや」
実桜は息を少し詰めた。
女性は建物のガラスを眺めていた。一人で来ているらしく、連れはない。展望台の方は見ていない。
「声をかけますか」
「今日はやめた方がいい」
遥人の声は穏やかだったが、はっきりしていた。
「なぜ」
「柚葉がまだ話をしとる途中やから。今、俺たちが行ったら順番が壊れる」
実桜は女性を見ていた。
綾乃はカフェの前から、ふと視線を上げた。展望台の方を、一瞬だけ見た。実桜と目が合うような距離でも角度でもなかったが、実桜は思わず少し身を引いた。
綾乃はすぐに視線を戻して、ゆっくりと乗り場の方へ歩いていった。阿波おどりのポスターの前で一度足を止めた。立ち止まっただけで、ポスターを読んでいるかどうかも分からなかった。
でもその足の止まり方が、避けているように見えた。
阿波おどりの言葉から、あるいは阿波おどりの季節から。
綾乃はロープウェイに乗って、山を下りていった。
帰りのロープウェイの中で、実桜は窓から町を見ていた。
夕暮れがさらに深くなって、街灯が一つひとつ灯り始めていた。
「綾乃さんは、ここに何しに来たんでしょう」
「さあ。でも、眉山は時々ひとりで来たくなる場所やから」
「遥人さんも?」
「俺もたまに。考えごとがあるときとか」
「綾乃さんも、何か考えていたんでしょうか」
遥人はしばらく黙っていた。
「阿波おどりのポスターで足が止まったのを、実桜ちゃんも見とったやろ」
「はい」
「避けとる人間の足の止まり方じゃなかった、と俺は思う」
「どういう意味ですか?」
「完全に遮断しとる人間は、ああいう止まり方はせん。止まるということは、まだそこに何かある、ということやと思う」
実桜は遥人の言葉を、窓の外の景色に重ねた。
染まりかけの浴衣。染まりきれていない青。途中で止まったものの続き。
綾乃の中にも、止まったままの続きがあるのかもしれない。
ロープウェイが麓に着いた。
夜の入口の風が、山の下には待っていた。夏の、少し甘い匂いのする風だった。
工房に戻ると、祖母は台所にいた。体調が戻ったらしく、夕食の支度をしていた。
「どうやった」
「眉山はきれいでした」
「そうやな」
祖母は鍋に向かったまま答えた。
「眉山で、綾乃さんを見かけました」
祖母の手が、ほんのわずかだけ止まった。止まった、というより、間が入った、という程度だった。でも実桜にはそれが分かった。
「そうか」
「それだけです。声はかけませんでした」
「それでよかった」
祖母はまた鍋をかき混ぜ始めた。
実桜は着替えをしながら、今日見た綾乃の立ち姿を思い返した。
遠くからしか見ていない。でも、あの立ち方には踊りの名残があった。遥人が言った通り、体の中にまだ何かが残っている人の立ち方だった。
止まっていても、体は覚えている。
染まりきっていなくても、藍はすでに布の中に入っている。
夕食のあいだ、祖母は何も聞かなかった。実桜も多くは話さなかった。でも食卓の空気が、いつもより少しだけ違う温度を持っていた気がした。
それが何なのかは、うまく言えなかった。
ただ、何かが少しだけ動き始めている、という感触だけがあった。
☆
翌日の夕方、工房に来た柚葉は、いつもより少し上気した顔をしていた。
好きなアニメキャラクターのキーホルダーが付いたトートバッグを置いて、お茶を出してくれて、作業の手伝いを始めるまでは普通だった。でも遥人が来てから、空気が変わった。
「柚葉、昨日の夜、練習場に来とったやろ」
遥人はさりげなく言ったが、確認だった。
柚葉は一瞬だけ固まって、それから「見てただけです」と答えた。
「俺は別にええけど。綾乃さんは知っとる?」
「知らない」
「そうか」
遥人はそれ以上言わなかった。でも実桜には、遥人が柚葉を責めているのではなく、先のことを考えている顔をしているのが分かった。
柚葉は手を動かしながら、少し下を向いていた。
「ずっと見てたかったんです」
柚葉の声は誰かへの言い訳ではなく、自分に言い聞かせているようだった。
「連の練習。近くで音を聞いたら、もっと踊りたくなった」
「踊りたい、という気持ちは、ずっとあったんですか?」
実桜は尋ねた。
「小さい頃からあった。でも、お姉ちゃんが踊りをやめてから、言えなくなって」
「なぜ言えなかったんですか」
柚葉は布を持つ手を止めた。
「言ったら、お姉ちゃんが傷つくかもしれないと思って。踊りのことで何かがあって、それでやめたのに、私が楽しそうに踊ります、なんて言えない」
柚葉はそう言って、また布へ視線を落とした。
実桜は柚葉の顔を見た。
姉のために何年も自分の願いを引っ込めていた。それは優しさだが、優しさが正しいとも限らない、と実桜は思った。
阿波おどり本番まで、あと二週間を切っていた。




