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藍の手紙、夏の終わりに――阿波おどりの季節、染めかけの青が動き出す  作者: 明石竜


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第五章 見つからない宛名

 梅雨の名残のような雨が、朝から降っていた。

 工房の屋根を叩く音が一定のリズムを刻んでいて、藍の匂いがいつもより濃く感じられた。雨の日は湿気が高く、染料の発酵が進みやすいと遥人が以前言っていた。甕の中の泡が、今日は特に活発だった。

 外へ出られない日は、工房の中の仕事が増える。

 実桜は午前中を作業場奥の帳場の整理に使った。祖母が長年つけてきた注文帳や、染料の仕入れ記録が綴じられたファイルが何冊もあって、それらを年代ごとに並べ直す作業だった。細かく、地味で、しかし誰かがやらなければならない仕事だった。

 帳場の引き出しを一つひとつ開けていくうちに、古い領収書の束や、客へ送ったらしい礼状の控えが出てきた。几帳面な祖母の筆跡が、何年分も積み重なっていた。

 一冊の注文帳を開いたとき、名前が目に入った。

 藤川、という文字だった。

 実桜は手を止めた。 

 帳のページを丁寧にめくる。浴衣一着、という注文の記録。仕上がり予定日と、受け取り予定の欄がある。受け取り済みの欄は、空白のままだった。

 四年以上前の日付だった。


 昼過ぎに雨が少し弱まった。

 遥人は今日も来ていた。甕の管理を終えてから、帳場の実桜の横に立って「何か見つかった?」と尋ねた。

「注文帳に記録がありました。藤川、という名前で」

「そうか」

「受け取り済みの欄が、空白でした」

「それはそうやろうな」

 遥人は特に驚かなかった。知っていたのだろう、というより、知っていることを確認した、という顔だった。 

「遥人さんは、綾乃さんと親しかったんですか?」

「顔は知っとる。連つながりで」

「阿波おどりの連で、踊っていた人ですよね」

「昔は、な」

 遥人の声はいつもより少し平坦だった。軽くあしらうのではなく、踏み込みを選んでいる感じがした。

「踊りをやめた理由は、知っていますか?」

「聞いたことはある。でもそれは、俺の口から言う話じゃない」

「みんなそう言いますね」

「みんなが言うということは、みんなが同じように思っとるということやから」

 実桜は注文帳を閉じた。

「教えてもらえなくても、探すことはできますか?」

 遥人はしばらく実桜を見ていた。それから短く笑った。

「探す気なんやな」

「気になります。染まりかけの浴衣が、四年以上ここにある。それには理由があるはずで、その理由を知りたい」

「なんで」

 問われて、実桜は少し止まった。

好奇心だと言えば、簡単だった。

けれど、それだけではない。

受け取られなかった浴衣のことを考えるたびに、自分が東京に置いてきたものまで、同じ棚の上にあるような気がした。 

「なんで、と聞かれると、うまく言えませんが」

「言えなくてもええよ。動きたいと思ったんやろ」

 遥人はそれだけ言って、雨で薄暗くなった工房の窓を見た。

「手伝えることは手伝う。でも綾乃さんを傷つけるようなことになりそうやったら、止めるかもしれん」

「それは分かりました」

「それでもいい?」

「はい」

 遥人は頷いて、「じゃあまず佳乃さんとこへもう一回行こう」と言った。

「あの人は知っとることを全部は言わんけど、聞き方によっては答えてくれる」


 雨上がりの商店街は、水を吸ったアスファルトが照り返しをしていた。

 店の前の提灯が増えていた。阿波おどり本番まで二週間半。準備が加速している。道行く人の中に、浴衣姿の人がちらほら見えた。衣装合わせだろうか、あるいは単に夏の装いか。

 坂東写真館の引き戸を開けると、佳乃はカウンターの中でアルバムを整理していた。

「あら、また来てくれた。今日も二人で」

「佳乃さん、少し聞いてもいいですか?」

 佳乃は手を止めて、丸眼鏡の奥で実桜に視線を向けた。

「先に聞くけど、あなた、何のために調べとるの?」

 実桜は正直に答えた。

「工房にある浴衣のことが気になっています。染まりかけのまま、四年以上置いてある。持ち主の方が受け取れなかった理由を知りたくて、それが浴衣の続きに繋がるかもしれないと思っています」

「浴衣の続き」

「染まりきっていないものには、続きがあるはずだと思うので」

 佳乃は少しの間、実桜を見ていた。それから「まあ、座って」と言った。

 カウンターの横に椅子が二脚あって、遥人と実桜は並んで座った。佳乃はお茶を出してから、カウンターの中の丸椅子に腰かけた。

「私が知っとることは、全部が全部、言えるわけじゃないからね。それは最初に言うとく」

「はい」

「その上で、聞くのはどんなことか、言ってみて」

 実桜は整理しながら話した。写真の中の踊り手のこと、藤川という名前が裏に書かれていたこと、柚葉から綾乃のことを聞いたこと、注文帳の記録のこと。

 佳乃は話を聞きながら、何度か小さく頷いた。

「よく調べたね」

「まだ全然、分かっていないことの方が多いです」

「そうやね。じゃあ、私が言えることだけ言う」

 佳乃は立ち上がって、棚からアルバムを一冊取り出してきた。先日見たものとは別の、もう少し新しいアルバムだった。

「綾乃ちゃんが踊っていた頃の写真が、何枚かある。それは見せられる」

 開かれたページに、阿波おどりの写真が並んでいた。

 今度は、人の顔がはっきり見える距離で撮られた写真だった。連の踊り手たちが列を作っている。その中の一人に、実桜は自然と目が止まった。

 落ち着いた美しさのある女性だった。踊っているのに、どこか静けさがある。揃いの衣装に混じって、その人だけが別の浴衣を着ていた。深い藍色の、流水の柄。

「この人ですか?」

「そう」

 実桜は写真を見つめた。

 踊りに、迷いがなかった。体のどこにも余計な力が入っていない。音といっしょに動いているというより、音そのものが体の形を取ったような踊り方だった。

「うまい人やった」

遥人が穏やかな声で言った。

「うまいだけじゃない。好きやったと思う。踊りが」

 佳乃は付け加える。

 実桜は写真から目を離せなかった。

 踊ることが好きだと全身で言っているような人が、なぜある年からぴたりとやめたのか。

「この浴衣は、工房で染めてもらったものですか?」

「そう。染め途中でやめてもらった、というか、途中で受け取りが止まった、というのが正確やね」

「途中でやめてもらった、というのは」

 佳乃は少し考えた。

「それ以上は、私から言うことやないかな。でも一つだけ言うと」

 佳乃はアルバムを閉じながら、実桜を見た。

「綾乃ちゃんは今、徳島にいる。市内の病院で働いとる。連絡しようと思えば、できないことはないよ」


 写真館を出ると、夕方の光が商店街に戻ってきていた。

 雨上がりの空気が澄んでいて、遠くに眉山のやわらかな稜線が見えた。

 歩きながら、遥人が「どうする?」と尋ねた。

「綾乃さんに連絡することを考えています」

「それは、俺もそれがいいと思う。でも」

「でも?」

「いきなり連絡するより、柚葉を通した方がええかもしれん。綾乃さんにとって、知らない人から浴衣のことを聞かれるのは、想像以上につらいと思うから」

 実桜は頷いた。

「柚葉さんに相談します」

「あの子、口は軽いけど、人の気持ちの読み方は悪くないから」

 遥人はそう言って、少し笑った。

 商店街を抜ける手前で、二人はしばらく黙って歩いた。阿波おどりの準備で活気づいた道を、実桜は少し外側にいる気分で歩いていた。

 自分はまだ、この町の熱には入れていない。

 探しているものがある。でもそれがどこにあるか、どうすれば届くかが、まだ分からない。

 宛名のない手紙を持っている、という感じがした。


 工房に戻ると、祖母がひとりで竿の布を取り込んでいた。

 実桜は急いで「私がやります」と言って、梯子を持った。雨上がりの夕風の中で揺れていた布は、しっかり乾いていた。畳みながら、実桜は祖母に尋ねた。

「綾乃さんに、連絡したことはありますか? 最近」

「ない」

「なぜですか?」

「向こうから来るのを待っとるから」

「待っている間に、浴衣の色は変わりませんか」

 祖母は布を受け取りながら、少し考える顔をした。

「変わる。でも、そっちの方がええこともある」

「変わった方が?」

「時間が染み込む。それも色やから」

 実桜は手を止めて、祖母の言葉を繰り返した。

 時間が染み込む。それも色。

 藍染の色は、年月を経ることで独特の深みを持つことがある。使い込まれた藍の布が、新しいものとは違う美しさを持つように。時間は色を薄くするだけではなく、別の何かを加えることもある。

 祖母は、その時間を待ち続けている。

 綾乃が受け取れるようになる時間を。浴衣に時間が染み込む時間を。

 実桜は布を抱えながら、工房の中へ入った。

 棚の上の包みが、夕暮れの薄明かりの中にひっそりとあった。

 見つからない宛名。届けられなかった時間。

 でも、時間は逃げない。祖母がそう言っている。色も、時間も、染み込んだものは消えない。

 実桜はしばらくその包みを見てから、視線を外して布を畳み直した。

 明日、柚葉に連絡してみよう。

 そう決めたとき、遠くから囃子の音が聞こえてきた。今日は雨のせいで練習が遅くなったのかもしれない。夜の始まりを叩くような音が、工房の中まで確かに届いた。

 阿波おどり本番まで、あと二週間と少しだった。


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