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藍の手紙、夏の終わりに――阿波おどりの季節、染めかけの青が動き出す  作者: 明石竜


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第四章 すだち色の声

 実桜が徳島に戻って五日目の午後だった。

 引き戸が開く音がして、続いて「お邪魔しまーす」という、あまり遠慮を感じさせない声が入ってきた。作業台で布の仕分けをしていた実桜が顔を上げると、高校生くらいの女の子が立っていた。

 小柄で、髪を高いところで結んでいる。白いTシャツと短いデニムスカートで、肩には大きめのトートバッグ。日焼けした肌に、人懐っこい目をしていた。工房の中を素早く見渡してから、実桜を見つけて少し驚いた顔をした。

「あれ、誰かいる。京子さーん」

「奥おるよ」

 祖母の声が返ってきた。

 女の子は「あ、どうも」と実桜に向かって軽く頭を下げてから、迷いのない足取りで奥へ入っていった。この工房に来慣れているのが分かった。

 少しして、祖母と短いやり取りをする声が聞こえてきた。それから戻ってきた女の子は、作業台の横にトートバッグを置いて「手伝います」と言った。

「あなたは?」

藤川柚葉ゆずはです。高二。遥人さんの知り合いで、京子さんにも時々お世話になってます」

 藤川。

 実桜は手を止めそうになったが、止めなかった。

「野々瀬実桜です。京子さんの孫で、一か月だけ手伝っています」

「知ってます。遥人さんから聞いた。東京から来たんですよね」

「そうです」

「いいなあ、東京」

 柚葉はそれだけ言って、実桜の隣に立った。何を手伝えばいいかを自分で確かめるように、作業台の上をひと通り見てから、布の端を整え始めた。言われなくてもできることを探してやる子だと分かった。


 柚葉はよく話した。

 話すというより、思ったことがそのまま声になる、という感じだった。作業をしながら、徳島の夏のこと、学校のこと、趣味のこと、商店街で最近できた新しいお店のことなんかを次々と話した。

「マチ★アソビの時は駅前も商店街も、ちょっと別の町みたいになるんですよ。うち、ああいう徳島けっこう好きで」

実桜が短く相槌を打つだけでも、柚葉の話は途切れなかった。

 それが苦手かと思ったが、意外とそうでもなかった。柚葉の声には嘘がなくて、自分のために喋っているのではなく、ただ話すことが呼吸のように自然な子なのだと分かった。

 ひと通り作業が落ち着いたところで、柚葉はお茶を出してくれた。祖母のいる奥からちゃんと急須を持ってきて、湯のみを二つ用意して、というのも自然にできた。来慣れているのがよく分かった。

「柚葉さんは、工房によく来るんですか?」

「たまに。京子さんに会いに来る感じで。あとは、手が足りないときとか」

「家は近い?」

「自転車で十分くらい。お姉ちゃんが昔、ここにお世話になってたんで、それで来るようになったんです」

 お姉ちゃん。

 実桜はお茶を一口飲んでから、続きを待った。柚葉は特に隠す様子もなく話を続けた。

「お姉ちゃんが昔、ここで浴衣を染めてもらってて。それで私も来るようになって、京子さんに懐いた感じです」

「お姉さん、今は来ないんですか?」

 柚葉の言葉のテンポが、ほんの少しだけ変わった。変わった、というより、わずかに選ぶような間が入った。

「来ないです。いろいろあって」

「そうなんですね」

 実桜はそれ以上聞かなかった。柚葉も、そこから先は話さなかった。


 夕方近くに遥人が来た。

 引き戸を開けて「柚葉来とるやん」と言った声は、明らかに予想通りという響きがあった。

「遥人さん、今日遅い」

「練習やった。あ、実桜ちゃん、柚葉と話した?」

「少し」

「この子、うるさいやろ」

「うるさくないです」

実桜がそう言うと、

「ほんまに?」

遥人が少し驚いた顔をした。そして微笑む。

「うるさいって何ですか」

柚葉が不愉快そうに言って、遥人の肩を小突いた。二人の間に長い付き合いがあるのが見えた。

 遥人が甕の確認をしているあいだ、柚葉は作業台の端に腰かけて足をぶらぶらさせていた。それからふと、棚の方を見た。

「あの包み、まだあるんですね」

 実桜は顔を上げた。

「知ってるんですか」

「うん。お姉ちゃんの浴衣やから」

 その言葉が、静かに落ちた。

 お姉ちゃんの浴衣。藤川、という名前。写真の中の踊り手。

 実桜は遥人の方を見た。遥人は甕に向いたまま、だがどこか聞いている気配があった。

「お姉さんの、というのは」

「染めてもらってたやつ。途中のまま、ずっとここにある」

柚葉は足をぶらぶらさせるのを止めずに言った。

「お姉ちゃんが受け取りに来なかったんです。来られなくなって、それで」

「来られなくなった、というのは」

「踊りをやめたから」

 柚葉の声は平坦だった。事実を言っているだけ、という言い方だったが、その平坦さの底に何かが沈んでいる気がした。

「踊り、というのは阿波おどりの?」

「そう。お姉ちゃん、連の中心で踊ってたんです。すごく上手くて。でもある年から、ぴたっとやめた」

「なぜ」

「分からない。教えてくれないから」

 柚葉の足がまた動き出した。

 実桜は何か言おうとしたが、適切な言葉が来なかった。遥人が甕から手を引いて、作業台のそばに来た。

「柚葉、あんまり話しすぎやで」

「別に、隠してるわけじゃないし」

「綾乃さんが隠しとるかもしれんやろ」

 綾乃。

 実桜はその名前を心の中で繰り返した。

「お姉さんの名前は綾乃さんというんですか?」

「そう。今は病院で働いてます。真面目で、優しくて。わたしより十歳以上離れてるから、姉っていうより、ちょっとお母さんみたいな感じで」

 柚葉は少し間を置いた。

「踊りのことだけ、話さない人です」


 遥人が帰り支度をして、柚葉もいっしょに出ると言ったとき、実桜は縁側で二人を見送った。 

 路地を自転車を押して歩く柚葉の背中と、その隣を歩く遥人の後ろ姿が、夕暮れの光の中に小さくなっていく。

 藤川綾乃。 

 阿波おどりの連で踊っていた女性。染めかけの浴衣の持ち主。ある年から踊りをやめて、浴衣を受け取りに来なかった人。

 写真の中で踊っていた女性の顔は、遠くて、はっきりは見えなかった。でも踊り方に、何か強いものがあった。踊ることが好きだと全身で言っているような、そういう踊りだった。

 その人が、なぜやめたのか。

 柚葉は分からないと言った。教えてくれないから、と。


 夕食の片づけを終えてから、実桜は祖母に声をかけた。

「藤川綾乃さんという人を知っていますか?」

 祖母は茶を一口飲んでから、答えた。

「知っとる」

「あの浴衣の持ち主ですか?」

「そうや」

 あっさりと認めた。実桜は少し拍子抜けして、でもそれが祖母らしいとも思った。

「なぜ、ここに置いてあるんですか。受け取りに来られなかったのなら、こちらから届けることもできたのでは」

「届けようとした」

「でも」

「受け取らんかった」

 祖母はまた茶を一口飲んだ。

「受け取れる状態じゃなかったということですか?」

「本人がそう言った。だから置いとる」

「ずっとですか。四年以上」

「本人が受け取ると言うまでは、処分する理由がない」

 祖母の言い方は短いが、芯があった。処分しないのは忘れているからでも、面倒だからでもない。待っているのだと分かった。

「綾乃さんは今でも連絡は」

「ない。でもそれでええ」

「なぜですか?」

 祖母は実桜を見た。穏やかな目だった。

「色は逃げんから」

 それだけ言って、祖母は湯のみを流しに持っていった。


 色は逃げんから。

 染め上がった藍の色は、時間が経っても褪せない。それと同じことを、祖母は言っているのだと実桜は思った。浴衣はここにある。綾乃が受け取れるようになるまで、ここに在り続ける。

 待つことが、祖母の返事だった。


 その夜、実桜はなかなか眠れなかった。

天井を見上げながら、柚葉の声を思い出していた。

明るく、よく話す子だった。けれど姉のことになると、その声の底に小さな影が落ちる。その影が、実桜の胸に残っていた。


大切にしすぎて、前へ進めなくなるということは、ある。

そう思ったとき、東京でのことがふと頭をよぎった。

うまくいかなかった仕事を、失敗として胸の中央に置いたまま、それを大切にするように離せずにいる。

離せないのではなく、離してしまうのが怖いのかもしれない。


天井の木目を目で辿りながら、実桜は目を閉じた。


 翌朝、工房に出ると祖母がすでに甕の前にいた。

 いつもと変わらない朝だった。実桜は水洗いの道具を準備しながら、昨日のことを整理していた。

 藤川綾乃。染めかけの浴衣。受け取れなかった人。踊りをやめた年のこと。

 佳乃は「順番がある」と言った。遥人も「教えるのは俺じゃない」と言った。祖母は待っていると、行動で示している。

 みんな、綾乃を守っている。

 実桜は部外者だ。一か月だけ来た、東京からの逃げ帰り組だ。この町に友達もいないし、連のことも阿波おどりのことも何も知らない。

 それでも浴衣のことが気になって仕方がない。

 なぜかは、うまく言えない。ただ、染まりかけて止まったものには続きがあるはずだという気持ちが、日を追うごとに強くなっていた。

「実桜」

 祖母が呼んだ。

「今日は染料を触ってみなさい」

 実桜は手を止めた。

「染料を?」

「甕には触らんでええ。布を一枚、藍に入れてみる。それだけでええから」

 それだけでええ、と祖母はいつもそう言う。でもそれだけ、のひとつひとつが、少しずつ実桜の手に何かを積み上げていた。

 実桜は作業台を離れて、甕のそばへ歩いた。

 藍の液体が、暗い青緑色に静まり返っていた。表面に小さな泡が浮いている。生きている証拠だと、遥人に教わった。

 布の端を持って、そっと液体に沈める。

 青が、布に触れた。

 その瞬間、布の色が変わり始めた。白から、うすい青へ。まだ染まりきっていない、淡い色だった。でも確かに、そこに藍が入っていく。

 実桜は息を詰めて、それを見ていた。

 色が入っていく。染まっていく。

 途中のものが、続きへ向かっていく。

 ただそれだけのことに、なぜか胸のどこかが動いた。


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