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藍の手紙、夏の終わりに――阿波おどりの季節、染めかけの青が動き出す  作者: 明石竜


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第三章 踊りの外にいる人

 翌朝も五時半に目が覚めた。

 体が勝手に時間を覚えてしまったらしい。カーテンの隙間から差し込む光はまだ薄く、外の空気が少しだけ夜の温度を残していた。それでも徳島の夏は早い。起き上がって縁側の戸を開けると、もうそこには蝉の声があった。

 工房では祖母がすでに甕の前にいた。

「おはよう」

「おはよう」

 それだけで朝が始まった。

 今日の実桜の仕事は、染め上がった布の水洗いと干し作業だった。染料をしっかり定着させるために、染めた後の布を丁寧に水で流す。単純に見えて、力と根気の要る作業だった。腕に水が跳ね、膝が痛くなるほどしゃがんで、ひとつの布を仕上げるのに想像以上の時間がかかった。

 午前中を使い切って、三枚の布を竿に吊るした。

 朝の光の中で揺れる藍色の布を見上げながら、実桜は少しだけ息をついた。きれいだと思った。自分が手を動かして、水を流して、それが今ここに揺れている。そのことの単純さが、何かを穏やかに満たしてくれた。

「竿が曲がっとる。均一に張らなあかん」

 祖母の声が飛んできた。

 実桜はまた梯子を持ち直した。


 遥人が来たのは昼をまわってからだった。

 今日は連の練習があったらしく、少し汗ばんで入ってきた。顔に疲れはないが、どこか高揚した気配が残っている。阿波おどりの連、と聞いていたから、踊りの練習だろうと実桜は思った。

「今日も来たんやね」

 遥人は実桜を見て、少し意外そうな顔をした。

「来たというか、仕事があるので」

「東京の人って、もっと適当にやるかと思っとった」

「失礼ですね」

「あ、ごめん。褒めとるつもりやったんやけど」

 どういう意図の褒め方か分からなかったが、実桜は追及しなかった。

 遥人は祖母と短いやり取りをして、甕の管理を始めた。手慣れた動きで温度を測り、かき混ぜ、表面の泡を確かめる。それから実桜の方を振り返って「今日時間あったら、商店街行けへん?」と言った。

「また誘うんですか」

「行って損はないから。俺も用事があって行くんやけど、どうせなら」

「用事って?」

「写真館に寄りたくて。古い知り合いのとこ」

 写真館、という言葉に実桜は少し引っかかりを覚えたが、理由は分からなかった。

「工房の仕事が終わったら、でいいですか?」

「全然。夕方でもええよ」

 祖母に確かめると、「午後は上がっていい」と言われた。一も二もなく、という感じで。最初から二人で行くものと思っていたように。


 商店街は、実桜が思っていたより活気があった。

 アーケードの天井に提灯が連なっていて、その多くにはまだ電球が入っていない。祭りに向けた準備が少しずつ進んでいる、という段階だった。店の前に阿波おどりの告知ポスターが貼られ、衣料品店の軒先には浴衣が並んでいる。

 夕方前の商店街は人の往来がゆったりしていて、知り合いと立ち話をしている人が何人もいた。遥人は歩きながら二度三度、「お、遥人!」と声をかけられた。そのたびに軽く手を上げて返事をする。地元に根を張っているのが、その小さなやり取りから分かった。

「顔が広いんですね」

「地元やから。実桜ちゃんは、ここに友達いなかったの?」

「子どもの頃しか来てないので。友達というより、祖母のとこに来る、という感じだったから」

「それは少し、もったいないな」

 遥人はそれ以上言わなかった。

 もったいない、という言葉の続きを実桜は少し考えた。町を知らなかったことか、人を知らなかったことか、あるいは別の何かか。どれでもあって、どれでもないような気がした。


 写真館は商店街の中ほど、少し引っ込んだ場所にあった。

 古い木の看板に「坂東写真館」と書かれていて、ショーウィンドウには七五三や成人式の写真が並んでいた。その隣に、阿波おどりを撮った写真が何枚か飾られている。踊り手の足元、揃った扇、高く上がった手の指先。切り取られた一瞬に、熱と音が封じ込められているようだった。

 引き戸を開けると、丸眼鏡をかけた五十代の女性がカウンターの中から顔を上げた。

「あら、遥人ちゃん。久しぶりやないの」

「お久しぶりです。連のチラシ、今年も頼みたくて」

「言うてくれたらよかったのに。あら、後ろの子は?」

「水城さんとこの孫。実桜ちゃんです」

 女性は実桜をひと目見て、「あら」と言った。それから眼鏡の奥でにこりと笑った。

「京子さんの。聞いとったよ、しばらく来てくれるって。坂東佳乃です。よろしくね」

「野々瀬実桜です。よろしくお願いします」

「東京から? 徳島は久しぶりなんやって?」

「はい。子どもの頃以来で」

「それならええタイミングやわ。うちにはね、この町の写真がたくさんあるから、暇なときにいつでも来て。昔の徳島が見られるよ」

 佳乃はカウンターの奥を示しながら言った。棚には大小のアルバムが並んでいて、ファイルケースがいくつも積まれている。写真館の記録、というより、町の記録を預かっているような圧があった。

 遥人がチラシの話で佳乃と打ち合わせを始めたあいだ、実桜はショーウィンドウの写真を見ていた。

 阿波おどりの写真は、どれも躍動感があった。連として揃う場面より、誰か一人に焦点を当てた写真の方が多い。そのひとりひとりに、踊ることへの熱が映っている。見ているだけで音が聞こえてくる気がした。

「気に入ったのある?」

 佳乃が声をかけてきた。

「どれも、すごいなと思って」

「阿波おどりは生き物やからね。写真に撮れるのは一瞬だけど、その一瞬に全部入っとる」

 佳乃はそう言いながら、カウンターの横の引き出しから一冊のアルバムを取り出した。

「せっかくやから、少し古いの見る? 京子さんとも縁のあるやつ」

 祖母との縁、という言葉に実桜は少し身を正した。

 佳乃がテーブルの上に開いたのは、日付の入った古いアルバムだった。フィルムカメラで撮られたと分かる写真が、几帳面に収められている。阿波おどりの写真が中心で、年代ごとに整理されていた。

「これ、何年前ですか」

「このページは十年以上前やね。このへんはもっと昔。私がまだ若かった頃」

 佳乃がページをめくりながら説明した。

 連の集合写真、夜の鳴り物の場面、観客の中から撮ったらしい流し踊りの列。どの写真にも名前はなく、だが確かな時間が宿っていた。

 そのページのひとつで、実桜の目が止まった。


 女性の踊り手が一人、写っていた。

 連の中の一場面だったが、その人だけに光が当たっているようだった。揃いの衣装ではなく、一着の浴衣を着ている。藍色で、柄のある。

 実桜は身を乗り出した。

 浴衣の藍は、写真の色再現の限界の中でも深く澄んでいた。裾に向かって濃さが変わっていくような、複雑な染め。そして肩の近くに、特徴のある流水の柄が入っていた。

「この浴衣」

 声に出してから、自分でも気づかなかった確信が頭の中に像を結んだ。

 工房の棚にある包み。和紙の縁から少しだけ見えていた布の端。流水のような柄の線。

 同じだ、と思った。

「これ、誰ですか?」

 佳乃は写真を覗き込んで、少し間を置いた。

「誰やったかな。名前、写真の裏に書いたかもしれん」

 丁寧にページからそっと写真を外して裏を見た。

 手書きの文字が残っていた。年と月だけはっきり読める。それから名前らしきものが、しかし一部だけ滲んで、読めなかった。

「なんて書いてある?」

「……藤川、とだけ読める。あとは滲んどるな」

 藤川。

 実桜はその名前を胸の中で繰り返した。

「この人、知っていますか?」

 佳乃は実桜の顔を見て、また少し間を置いた。

「知っている人はいると思うよ。でも私の口から言うのは、ちょっと違う気がして」

 柔らかい声だったが、明確な線引きだった。

「それはどういう」

「あなたが工房の子なら、時間かけて探した方がいいと思う。それだけ」

 佳乃は写真を元に戻しながら、微かに笑った。おせっかいで、だが言っていいことと悪いことの分かる笑い方だった。


 写真館を出たとき、外はもう夕暮れに差し掛かっていた。

 商店街のアーケードに橙色の光が差し込んで、提灯の輪郭がぼんやりと浮かんでいた。遥人は隣で「どうやった?」と尋ねた。

「あの浴衣、写真に写っていた」

「え?」

 実桜は見たことを短く説明した。遥人は話を聞きながら、少し表情が変わった。驚いているというより、何かを確かめているような顔だった。

「藤川って名前、心当たりありますか?」

「……あるっちゃある」

「教えてもらえますか」

「それは、俺より佳乃さんに聞いた方が、ていうか」

遥人は少し言葉を選ぶように間を取った。

「すぐに教えてしまうより、順番があると思う。京子さんにも関わることやし」

 また、誰かが線を引く。

 佳乃も、遥人も、直接には語らない。知っている様子なのに、知らないふりをしない代わりに、教えもしない。

 実桜は苛立ちより先に、奇妙な納得を感じた。誰かを守っているのだと分かった。誰を、とは分からないが。

「分かりました」

 それ以上は聞かなかった。

 二人並んで商店街を抜けると、川沿いの道に出た。吉野川の支流が夕光を反射して、橙色に光っている。川の向こうに眉山がある。山の稜線がやわらかく空に溶けていた。

「きれいですね」

 実桜がぽつりと言うと、遥人は「うん」と短く答えた。しばらく二人とも黙って川を見ていた。

 町が熱を帯び始めている、と実桜は感じた。阿波おどり本番に向けて、少しずつ、しかし確実に。提灯が吊るされ、ポスターが貼られ、どこかで囃子の練習が続いている。その熱の中に自分だけが乗り遅れているような、外側にいるような気がした。

 浴衣の写真の中で踊っていた女性は、連の輪の中にいた。

 藤川、という名前。

 染まりかけのまま止まった浴衣。

 何かが繋がろうとしているのに、その糸をまだ手でつかめていない感じがした。


 工房に戻ると、祖母は夕食の支度をしていた。

 実桜は着替えながら、写真のことを話そうかと思った。でも言葉の始めを探しているうちに、祖母が「お風呂先に入っておいで」と言ってしまった。

 それで、その夜は何も言えなかった。


 夕食の最中、祖母がほんの少しだけ疲れた顔をしているのに気づいた。体調のことは多くを言わないが、今日は少し立ちっぱなしが長かったのかもしれない。

「今日の水洗い、だいぶうまなったな」

 唐突に祖母が言った。

「そうですか」

「まだ力の入れ方が均一やないけど、昨日より全然ええ」

 昨日より全然ええ。

 祖母の褒め方は最小限だが、最小限だから確かだった。

 実桜はご飯を食べながら、藤川という名前を心の中に置いていた。誰なのか、なぜ浴衣がここにあるのか、なぜ受け取りに来なかったのか。問いが増えるほど、浴衣の存在が工房の中でただ保管されているものではなく、何かを待っているものに見えてきた。

 染まりかけたまま、四年以上。

 どんな事情があるのかはまだ分からない。だが、あの浴衣には続きがある。実桜はそう確信していた。

 夜の虫の声の中で、遠くから囃子の音が流れてきた。

 練習の笛と太鼓が、また今夜も繰り返されている。阿波おどりの本番まで、まだ少し時間がある。その間に、実桜は何を知ることができるだろうか。

 浴衣の持ち主を探す、という言葉が浮かんだ。

 誰かに頼まれたわけでも、使命があるわけでもない。ただ、あの染まりかけの青が気になって仕方がなかった。途中で止まったものには、続きがあるはずだという気がした。

 それはたぶん、自分自身のことも含めて、そう思いたかったのかもしれない。

 実桜は縁側に出て、夜空を見上げた。

 星が多い。東京では決して見えない数の星が、濃い夏の夜空に散っていた。


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