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藍の手紙、夏の終わりに――阿波おどりの季節、染めかけの青が動き出す  作者: 明石竜


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第二章 藍の底に沈むもの

 工房の朝は、体が慣れる前に始まった。

 五時半に目が覚めると、すでに台所から水の音がしていた。実桜が顔を洗って作業着に着替えると、祖母はもう甕の前に立っていた。昨日と同じ姿勢で、昨日と同じ静けさで。まるで夜のあいだも、ずっとそこにいたように見えた。

「今日は布を触ってみなさい」

 祖母は振り向かずに言った。

「どうやって」

「まず触るだけでええ」

 実桜は言われた通り、作業台の横に畳まれていた白い布に手を伸ばした。表面はさらりとしていて、重さよりも薄さが手に伝わった。

「これを染めるの」

「今日は下準備だけや。染める前に、布に水を含ませる。それだけでも一仕事やから」

 下準備、と実桜は心の中でくり返した。

 染める、という仕事がどれだけ多くの「まだ染めていない時間」でできているか、その日の午前中かけて、実桜は少しだけ知ることになった。


 布を水に浸し、むらなく濡らしてから引き上げ、軽く絞って水気を均一にする。それだけのことが、意外なほど難しかった。

 力の入れ方が少し違うと、布の端と中央とで水の含み方が変わる。祖母が「そこ、もう少し丁寧に」と言うたびに、実桜は自分の手を見た。デザインの仕事では何百時間もマウスを動かし、キーボードを叩いてきた。しかし布を扱う手は、まるで別の言語を話すように不器用だった。

「向いてないかも」

 独り言のつもりで言うと、祖母はあっさり答えた。

「最初から向いとる人間はおらん」

 それだけで終わった。

 励ましでも叱責でもない。ただの事実として置かれた言葉だった。実桜はそれを聞きながら、また布に向き直った。

 午前中を水との格闘に費やして、昼前になった頃、引き戸が開いた。


「お疲れっす。あれ、誰か来とる?」

 入ってきたのは、実桜よりいくつか年上に見える青年だった。

 日焼けした肌、背が高く、すらっとした体つき。作業着のシャツを腕まくりしていて、その腕にうっすら藍の痕がある。顔には人懐っこい笑みが浮かんでいて、工房の入口に立ったまま、実桜の方をまじまじと見た。

「孫だ」

 祖母が短く言った。

「そっか」

 青年は納得したように頷いた。

「京子さんの孫の、野々瀬実桜と申します」

「へえ、実桜ちゃん? 俺は篠原遥人はると。いつも工房手伝わせてもらってます。よろしく」 

 遥人、と名乗った青年は実桜が返事をする前にもう靴を脱いでいた。遠慮のない動き方で、この場所に慣れきっているのが分かった。

「あ、よろしくお願いします」

 実桜は少し遅れて答えた。

 遥人は祖母のそばへ行き、「今日どこからやる?」と確かめてから、作業台の横に道具を広げ始めた。その一連の動きがよどみなく、祖母も何も説明せずに仕事を続ける。二人の間に長い時間の積み重ねがあるのが見えた。

「実桜ちゃんも手伝いに?」

「一か月だけ。祖母の体調が落ち着くまで」

「そっか。どこから?」

「東京です」

「東京か。徳島は久しぶり?」

「子どもの頃以来です」

「じゃあ、阿波おどりのシーズンに来たのは初めてくらい?」

「何度か来たことはあります。ただ、それもだいぶ前なので」

 遥人は「それはちょうどよかった」と笑った。何がちょうどよかったのかは言わなかった。

 実桜はその軽さが少し苦手だと思った。初対面で距離の詰め方が早い人間は、慣れるまでに時間がかかる。悪意があるわけではないのが分かっても、身構えてしまう。

 

 昼食を三人で食べてから、午後は遥人が藍甕の管理を担った。

 藍染で使う染料は、単に藍の粉を水に溶かせばできるものではない。すくもと呼ばれる原料に、灰汁や石灰、ふすまを加え、長い時間をかけて発酵させることで染料として働くようになる。

 遥人がそれを実桜に説明したのは、甕の様子を確かめながらだった。

「これ、藍建てっていうんですか?」

「正確には、染めるための藍を建てて、毎日面倒を見ることやな。甕の中の藍は、生き物みたいなもんやから」

「生き物」

「機嫌が悪かったら染まらんし、調子がよかったら色がよく出る。毎日様子を見てやらないと」

 実桜は甕の縁からそっと中を覗いた。深い青緑色の液体が穏やかにたたえられていた。表面に細かい泡が浮いている。

「これ、泡が出てるのは」

「それが健康な証拠。発酵してる証拠や」

「なんか、生きてるみたいに見える」

「そやから生き物やって言うとるやん」

 遥人は笑いながら、甕に向かって丁寧に手を入れ、液体をゆっくりかき混ぜた。その動きには、さっきのおしゃべりと同じ人物とは思えない落ち着きがあった。

 仕事は誠実にやる人間だ、と実桜は思った。軽そうに見えて、手だけは本気だ。


 午後の後半、遥人が棚の整理を始めたとき、あの包みの前で手が止まった。

 実桜は作業台で布の仕分けをしながら、横目でそれを見ていた。

 遥人は包みを取り上げることなく、和紙の角に指先を当てて、少しの間だけそこにいた。それからひとりごとのように、ぽつりと言った。

「まだ置いとったんやな」

 実桜は手を止めた。

「それ、何ですか?」

 遥人は振り返ったが、少し間があった。

「浴衣や。染めかけの」

「染めかけ?」

「途中で止まったまま、ここにある。ずいぶん長い間」

「どれくらい?」

 遥人は少し考えるような顔をしてから、「俺が来る前からやから、四年は経っとるんちゃうかな」と答えた。それ以上は語らなかった。

 実桜は何かを待ったが、遥人はもう棚の別の場所に向いていた。

 まだ置いとったんやな、という言い方が引っかかった。それは長く保管されていることへの驚きではなく、知っていたものがまだそこにある、という確認の声だった。

 あの浴衣を、遥人は前から知っている。

 でも何も言わない。

 実桜は布に視線を戻しながら、その問いをどこに置いたらいいか分からなかった。


 夕方、遥人が帰り支度をしながら「明日、仕事終わったあと時間ある?」と実桜に確かめた。 

「何かあるんですか?」

「いや、帰り道に商店街通るんやけど、どうせならいっしょに」

「そこまでいっしょに行く必要は特に」

「せっかく来たんやから、徳島くらい見といた方がええよ。阿波おどりまで時間あるうちに」

 実桜は少し迷って、「また今度」と答えた。

 遥人は特に気にした様子もなく「まあ、いつでも」と言って引き戸を開けた。

 出て行く前に、一度だけ工房の奥へ目を向けた。棚の方を、というより、あの包みのある方角を、という感じがした。

 実桜がそれに気づいたのは、引き戸が閉まった後だった。


 夕食のあと、実桜は縁側に出て空を見た。

 徳島の夜は暗い。星がよく見える。東京では忘れていたことだ。

 夏の虫の声と、どこかから流れてくる囃子の練習音が混ざっている。あと三週間もすれば、この町全体が祭りの熱を帯びる。その頃には自分はここで何をしているだろう、と実桜は思った。

 スマートフォンの画面を開いたが、特に連絡することも思いつかず、また閉じた。

 東京に帰れば、探せばどこかに仕事はある。デザインの経験はある。手は動く。でも今は、それを考えようとすると頭が白くなった。

 向いていなかったのかもしれない、とまた思う。

 大きな仕事を任されたとき、最初は喜んだ。期待されている、と感じた。でも結果を出す段になって、何度やり直しても「自分らしい」と思えるものが出てこなかった。納品した先から修正が入り、クライアントの顔が少しずつ曇っていくのを見ながら、実桜はいつからか「自分でなくてもよかった」と考えるようになっていた。

 そして辞めた。

 辞めたことは正しかったのかもしれない。でも正しかったかどうかより、自分がどこにも向いていないという感覚だけが残った。

 藍甕の中の泡を思い出した。

 発酵している証拠、と遥人は言った。生きている証拠。

 実桜は自分の手を見た。今日一日で、指の先が少し荒れていた。布を扱い、水に触れ続けた痕だった。何もしていない東京の最後の頃の手より、少しだけ生きているような気がした。

 それだけのことだったが、なぜかその夜は早く眠れた。


 眠りに落ちる直前、あの浴衣の青のことを考えた。

 染まりきっていない青。途中で止まったまま、四年以上そこにある青。

 誰かが、受け取りに来ていない。

 それはどういうことなのか、なぜ祖母は処分しないのか、遥人はなぜあの言い方をしたのか。

 問いだけがいくつも浮かんで、答えは一つも来なかった。

 工房の闇の中で、あの包みはまだ棚の上にある。

 染まりかけたまま、誰かを待っているように。

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