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藍の手紙、夏の終わりに――阿波おどりの季節、染めかけの青が動き出す  作者: 明石竜


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第一章 戻るための青

 徳島駅前でバスを降りた途端、空気がひとつ分厚いと思った。

 まとわりつくような湿気が肌に触れて、息を吸うだけで夏が胸の奥まで入りこんでくる。東京の暑さとは違う。光も、風の匂いも、もっと近い場所で生きているような気がした。

 キャリーケースの持ち手を握り直し、実桜みおは小さく息をついた。

 見上げた空は高いのに、なぜか逃げ場がないようにも見えた。

 帰ってきてしまった、と思う。

 その言葉は、安心より先に胸の内側へ沈んだ。

 駅前のロータリーでは、どこかの連だろう、阿波おどりの練習帰りらしい一団が笑いながら横切っていった。揃いのTシャツの背中が、夕方の光の中でやけに眩しい。

 その輪の外を、実桜はキャリーケースを引いて通り過ぎる。

 知らない町ではない。

 子どもの頃の夏休みには何度も来た。商店街の古びた看板も、川の匂いも、町の向こうに見える眉山のやわらかな稜線も、覚えている。覚えているはずなのに、今はどこか、昔見た写真の中へ入りこんだみたいだった。

 スマートフォンが震えた。 

 表示されたのは、祖母からの短いメッセージだった。

 ――着いたんなら、気ぃつけて帰ってきなさい。

 それだけだった。

 おかえり、とは書いていない。大丈夫か、とも聞かない。

 それが祖母らしいと思いながら、実桜はなぜか少しだけ救われた。


 駅前からしばらく歩いて、工房のある路地に着いたのは夕暮れが濃くなった頃だった。

 細い道の奥に、白い漆喰壁の建物がひっそりと立っている。格子窓の木がやや黒ずんで、古さを正直に見せていた。表の看板には「水城藍彩堂」と墨で書かれていて、その文字だけはいつ来ても変わらない。

 引き戸に手をかけると、中から藍の匂いがした。

 鼻の奥を仄かに通り抜けていくその香りに、実桜は一瞬立ち止まった。草と、土と、何か発酵したような複雑さ。子どもの頃は「変な匂い」だと思っていた。今は懐かしい、というより、しんとする、という感じがした。

「おばあちゃん」

 呼んだ声は思ったより小さくなった。

 奥から短い足音がして、割烹着姿の祖母が現れた。小柄で白髪をきちんと結い上げた、背筋のまっすぐな人だった。七十七歳だというのに、目の光だけは若い頃から変わっていないように思う。

「来たんか」

 祖母は実桜の顔をひと通り見てから、それだけ言った。

「うん」

「痩せたな」

「そうかな」

「そうや」

 それ以上、何も聞かなかった。

 東京はどうだったか、会社はなぜ辞めたか、これからどうするつもりか。何一つ問われないまま、祖母は「荷物はそこ置いて。ご飯できとる」と言って奥へ引っ込んだ。

 実桜は玄関に立ったまま、少しの間動けなかった。

 泣くかと思ったが、泣かなかった。ただ、ずっと張り詰めていた何かが、形のないまま少し解けていくような気がした。

  

 夕食は、飾り気のないものだった。

 冷やした豆腐とフィッシュカツ、小松菜のお浸し、麦飯。それから祖母が「阿波尾鶏の煮物」と言って出してきた皿が、少しだけ夏らしかった。小皿には、切ったすだちが添えられていた。

 向かいに座った祖母は、食べながらもほとんど話さない。テレビもつけない。聞こえるのは虫の声と、どこか遠くで練習しているらしい囃子の断片だけだった。

「体は、今はどうなの?」

 実桜は自分から尋ねた。

 祖母は箸を置かずに答えた。

「去年の秋からや。医者には大事にしぃやと言われとるけん、立ちっぱなしの仕事は長うはできん」

「そっか」 

「あんたに来てもらうのは、一か月でええ。本番が終わったら、少し落ち着く」

 本番というのは阿波おどりのことだと分かった。お盆の時期、四日間にわたって行われる徳島最大の祭り。まだ三週間ほど先のことだ。

「お手伝いできることがあれば」

「できることだけでええ」

 祖母はそう言って、また黙々と食べ続けた。

 実桜はお浸しを口に運びながら、窓の外の暗さを見ていた。東京のマンションの夜とは違う。街灯の数が少なく、その代わり虫の声がよく聞こえる。そういう暗さだった。


 翌朝は、祖母の言う通り早かった。

 五時半に目が覚めると、工房の方からもう動く気配がしていた。顔を洗って作業着を借り、実桜が建物の奥へ続く工房スペースへ入ると、祖母はすでに作業台の前に立っていた。

「覗くだけでええから、見ておきなさい」

 工房の中は薄暗く、天井が高かった。木組みの棚には染料の壺が並び、隅には長い棒と布を吊るすための竿がいくつも渡してある。空気の底に藍の匂いが濃く沈んでいた。

 祖母が何をしているのか、実桜にはまだよく分からなかった。ただ、祖母の手の動きが淀みなく、迷いがないことだけは見ていて分かった。

 染料の入ったかめを丁寧に撫でるように確かめ、布を沈める前の水の温度を指先で測る。無駄な動作がひとつもない。

「見ててええの?」 

「見るだけで邪魔になるような仕事はない」

 祖母がそう答えると、実桜はそれきり黙って、隅に立っていた。


 工房の棚の整理を頼まれたのは、午前の半ばを過ぎた頃だった。

 長く使われていない棚の上段に、反物や端切れといっしょにいくつかの包みが並んでいた。紙で丁寧にくるまれたそれらを一つひとつ確かめながら実桜が作業していると、ひとつだけ、ほかより大きな包みに気がついた。

 和紙の表面がやや黄ばんでいる。だいぶ長い時間、そこに置かれていたものだと分かった。

「これも動かしていい?」

 聞くと、祖母は一瞬だけ手を止めた。

「そこは触らんでええ」

 穏やかな、しかし明確な答えだった。

 実桜はその包みをそっと元の場所に戻した。

 それからしばらく作業を続けながら、どうしてか目がそこへ向いてしまう。和紙の縁から、わずかに布が見えていた。藍色ではあるけれど、染まりきっていないような、奥の色が透けているような、不思議な青だった。

 均一ではなかった。布の端から中ほどにかけて、濃さが少しずつ変わっている。まるで、染め途中で止まったまま時間が経ってしまったかのように。

 実桜はまた、視線を剥がして別の棚へ移った。

 聞かなかった。聞けなかった。というより、祖母の「触らんでええ」という言葉が、それ以上の問いを穏やかに押しとどめていた。

 工房の外から、遠い囃子の練習音が流れてきた。高く、くりかえし、夏の始まりを叩くような音だった。


 夕方になって、実桜は工房の表へ出た。

 路地の向こうに薄く橙色の空が見える。遠くで電線が一本、夕風に揺れていた。

 スマートフォンを開くと、東京の同僚だった真鍋から短いメッセージが来ていた。

 ――着いた? ゆっくりしてね。

 それだけだったが、それだけで十分だった。

 返信は短く「着いた」とだけ打って、実桜はスマートフォンをポケットにしまった。

 路地の先、通りに出ると、夕方の商店街がぼんやりと灯りをつけ始めていた。祭りの準備だろうか、街路灯に提灯を取り付けている人の姿が見えた。

 実桜は少しの間、それを見ていた。

 自分はここに何をしに来たのか、と問う声が頭の中にある。手伝いのため、という答えは正しいが、正しいだけだという気もした。逃げてきた、と言ってしまえば楽だが、どこへ逃げたのかがまだ自分でも分からない。

 帰ってきてしまった。

 今朝もそう思った。けれど今は、その言葉が少しだけ違う色に見えた。

 安心なのか、諦めなのか、それとも別の何かなのか。

 工房の中に、あの包みがある。

 染まりきっていない、途中で止まった青。

 実桜は路地へ戻りながら、それのことをまだ考えていた。なぜかは分からない。ただ、あの色が頭の隅に引っかかって、離れないでいた。

途中で止まったものを見ると、落ち着かなかった。

それは浴衣のことだけではない気がした。

東京に置いてきた仕事も、辞めた理由も、まだ自分の中で染まりきらないまま残っている。あの青を見ていると、その部分を静かに見つめ返されているようで、少しだけ苦しかった。


 夜の空気が降りてくる前の、夏の入口だった。


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