第十章 触れてはいけない色
翌日の夕方、実桜は工房の仕事を終えたあと、商店街へ出た帰り、川沿いの遊歩道を歩いていた。
阿波おどり本番が近づくにつれて、町のあちこちで練習の音が濃くなっている。
夕方の光が水面の上で揺れていた。遠くで車の走る音がして、その向こうから、祭り囃子の練習らしい太鼓がかすかに聞こえてきた。
橋の手前で、見覚えのある横顔に気づいた。
綾乃だった。
川を見ているようで、実際にはどこか別の場所を見ているように立っていた。
「綾乃さん」
声をかけると、綾乃はゆっくり振り向いた。
「実桜さん」
「偶然ですね」
「ええ。少し、歩いていました」
「柚葉のこと、先日はすみませんでした」
綾乃が先に言った。
実桜は首を振った。
「謝られるようなことでは」
「あの子、思ったことをすぐ口にするから」
「……そういうところ、少しうらやましいです」
「うらやましい?」
「私はああいうふうに言えないので」
綾乃は小さく笑った。困ったような、けれど少しだけやわらいだ笑みだった。
「言えないくらいが、ちょうどいいこともあります」
「そうでしょうか」
「少なくとも、私はそう思ってきました」
川面を渡る風が、綾乃の髪をわずかに揺らした。
その横顔は穏やかすぎて、どこか触れてはいけないものを抱えたまま立っているようにも見えた。
「柚葉さん、練習を見に行っているんですね」
「ええ。止めても、たぶん行くでしょうね」
「綾乃さんは、それが嫌なんですか」
「嫌というより……怖いんです」
綾乃は少し間を置いてから、言葉を継いだ。
「踊るのは楽しいだけじゃないから。好きだからこそ、失うときは大きいです」
「でも、柚葉さんは」
「分かっています」
綾乃は実桜の言葉をやわらかく遮った。
「分かっているんです。あの子が、私を気にして遠慮していることも。本当はずっと、踊りたいと思っていたことも」
分かっている。
そう言う声が、やけに穏やかすぎて、実桜は逆に胸の奥がざわついた。
「だったら」
言いかけて、少しだけ迷う。
でも、ここで言わなければ何も変わらない気がした。
「だったら、なおさら――」
綾乃がこちらを見る。
その目は穏やかだった。だから実桜は、そこへ自分の言葉を差し出してしまった。
「綾乃さんが止まったままだと、柚葉さんまで止まってしまう気がします」
言った直後、風の音だけが残った気がした。
綾乃の表情が消える。笑みでも困惑でもない、何も見せない顔になった。
実桜は続けた。続けてしまった。
「浴衣のことも、工房でずっと待っていて。祖母も、ずっとそのままにしていて。受け取らないままだと、余計に終われないんじゃないですか。向き合った方が――」
「分かったように言わないでください」
声は大きくなかった。
けれど、はっきりと実桜の足を止める強さがあった。
綾乃は立ち止まっていた。
夕方の川の光がその横顔に当たっているのに、さっきまでよりずっと遠く見えた。
「……すみません。責めるつもりでは」
実桜はとっさに謝った。
「責められたとは思っていません」
綾乃は首を振った。
「でも、簡単に前へ進めるみたいに言われると、つらいです」
実桜は何も返せなかった。
「受け取れないままのものがあることも、見ないままでいるしかない時間があることも」
綾乃は視線を川に落としたまま言った。
「たぶん、まだあなたには分からないでしょう」
その言葉はきついはずなのに、責める響きではなかった。
だから余計に、実桜の胸に深く沈んだ。
「私は……」
何か言おうとした。
でも、言葉が出てこない。
綾乃のためを思ったのだと、さっきまでは信じていた。けれど今は、その言葉の中に、自分の焦りや、自分が“進めなかったもの”への苛立ちまで混ざっていた気がしていた。
綾乃は小さく息をついた。
「今日は、これで失礼します」
「綾乃さん」
呼び止めても、綾乃は振り返らなかった。
足音だけが、遊歩道の先へ遠ざかっていく。
実桜はその場に立ち尽くした。
川の水は何もなかったみたいに流れていて、風だけがさっきと同じように吹いている。
自分だけが、ひどく場違いなことを言ってしまったみたいだった。
止まったままだと、柚葉まで止まってしまうと。
浴衣を受け取らないままだと終われないと。
どれも間違ってはいないと思っていた。
でも、間違っていないことが、人に向けていい言葉になるわけではない。
工房へ戻る道で、実桜は何度もさっきの会話を思い返した。
言い過ぎた、では足りない気がした。
踏み込んだ、でもまだ軽い。
自分はたぶん、綾乃の痛みに触れたかったのではなく、自分の中で引っかかっていた「途中で止まったもの」に、答えを出したかっただけなのだ。
引き戸を開けると、工房の中はいつもと同じ藍の匂いがした。
祖母が作業台の前で布をたたんでいる。
「おかえり」
「……ただいま」
その一言で、喉の奥が少し詰まった。
祖母はすぐには何も聞かなかった。実桜の顔をひと目見て、それからまた手元へ視線を戻す。
しばらくして、実桜は小さく言った。
「私、言いすぎた」
祖母の手が止まる。
でも振り向かないまま、低い声で言った。
「待つしかないときに、急がせたらあかん」
それだけだった。
けれど実桜は、その短い言葉の中に、自分が綾乃にしてしまったことをそのまま見た気がした。
その夜、実桜は縁側に出た。
昼の熱がまだ板の上に薄く残っていて、座るとじわりと腿の裏に伝わった。空はもう暗いのに、どこかに昼の名残があるような、夏の夜だった。
遠くで囃子の練習が続いている。
笛の音が先に流れてきて、その少しあとを追うように太鼓が響く。町のどこかでは、祭りに向けて変わらず時間が進んでいる。その当たり前さが、今夜は少しだけ苦しかった。
待つしかないときに、急がせたらあかん。
祖母の言葉を、実桜は頭の中で繰り返した。
責めるような言い方ではなかった。だからこそ、逃げ場がなかった。あの短い一言の中には、綾乃に対してしてはいけないことと、実桜がついしてしまったことの両方が、もう言い尽くされている気がした。
自分は、何を急がせたかったのだろう。
綾乃に前へ進んでほしかった。浴衣を受け取ってほしかった。柚葉のためにも、止まったままではいてほしくなかった。
そこまでは、たぶん嘘ではない。
でも、それだけではなかった気がした。
綾乃が止まったままではいけないと思ったとき、実桜はその言葉を綾乃だけに向けていたのではなかったのかもしれない。自分自身にも、同じことを言いたかったのかもしれない。途中で投げた仕事も、曖昧なまま閉じた東京での日々も、このままにしておきたくないと思っていた。だから、止まっているように見える誰かに向かって、向き合った方がいいと口にしてしまった。
けれど、それは綾乃の痛みを借りて、自分に言い聞かせているのと同じだった。
実桜は膝の上で手を組んだ。
昼間より少し荒れた指先が、互いに触れ合ってひっかかる。工房へ来てから、手は少しずつ変わっていた。水に触れ、布を絞り、染料を扱ってきた手だった。何もしていないわけではない。ここで過ごした日々は確かに自分の中に積もっている。それなのに、言葉ひとつで、また何も分かっていない場所へ戻ったような気がした。
分かったように言わないでください。
綾乃の声は大きくなかった。
それでも、胸の奥にはっきり残っていた。怒鳴られたわけではない。責め立てられたわけでもない。ただ、冷ややかに線を引かれただけだ。だから余計に痛かった。自分が越えてはいけないところへ、きちんと足を踏み入れてしまったことが分かってしまう痛さだった。
虫の声が絶え間なく続いている。
夜の匂いの奥に、藍の気配がかすかに混じっていた。工房の中には、あの浴衣がまだある。染まりきらないまま止まって、けれど祖母は処分もせず、急がせもせず、そこに置き続けている。あれは放っておかれているのではなく、待たれているのだと、実桜は今夜になってやっと少し分かった気がした。
待つ、というのは何もしないことではないのだろう。
受け取れる日が来ると信じて、勝手に終わらせずに置いておくことだ。相手の時間を、自分の焦りで塗りつぶさないことだ。
実桜には、それができなかった。
答えが見えかけた気がすると、そこへ手を伸ばしてしまう。自分が安心したいからだ。曖昧なままのものに耐えるのが苦手だからだ。東京でも、きっとそうだった。曖昧なまま考え続けるより、だめだったと決めてしまう方が楽で、退職という形で早く終わらせた。終わったことにしてしまえば傷は広がらないと思った。実際には、閉じたつもりの場所でずっと立ち尽くしていただけだったのに。
遠くで、太鼓がひときわ強く鳴った。
はっとして顔を上げる。祭りの練習だと分かっているのに、その音だけが妙に胸に響いた。
踊りの輪の中に入る人たちと、その外で見ている人たちがいる。
自分はずっと、外にいる側だった。今日もまた、その外側から綾乃に向かって、こちらへ来ればいいのに、みたいなことを言ってしまった。自分は輪の中に入ったこともないのに。
実桜は小さく息を吐いた。
謝りたいと思った。けれど、今すぐ言葉を送ることがまた別の踏み込みになる気もした。謝ることで自分だけが少し楽になるのなら、それも結局、同じことの繰り返しだ。
ポケットの中でスマートフォンが重かった。
取り出すこともせず、実桜は空を見上げた。星は今夜も多かった。東京では見えなかった数の光が、やけに穏やかな顔で空に散っている。きれいだと思うのに、そのきれいさの中へうまく息が入っていかない。
今夜はまだ、分からないままでいるしかない。
そのことを認めるのが、思ったより苦しかった。
縁側の板に手をつくと、昼の熱はもうほとんど消えていた。
代わりに、夜気のひやりとした感触が掌に移る。実桜はしばらくそのまま動かなかった。急がないこと。答えを先に置かないこと。待つしかないときがあること。
祖母なら、きっと何も言わずに布をたたみ、甕の様子を見て、明日もいつも通り仕事をするのだろう。
実桜にはまだそこまでできない。でも、できないままでも、今夜はせめて余計な言葉を足さずにいようと思った。
工房の奥では、藍がひっそりと眠っている。
あの浴衣も、棚の上で、誰にも急かされずに夜を越している。
実桜はようやく立ち上がった。
障子を閉める前にもう一度だけ夜空を見たが、星の数はさっきと変わらなかった。変わらないものがある。そのことに、少しだけ救われるような気もした。
翌朝、目が覚めたときには、もう工房の奥で物音がしていた。
障子の向こうは薄く明るんでいて、蝉の声がまだ控えめに鳴いている。昨夜は眠れたのか、眠れなかったのか、自分でもよく分からなかった。ただ、胸の奥に重いものが残っていることだけは、起き上がる前から分かっていた。
顔を洗って作業着に着替え、実桜は工房へ向かった。
引き戸を開けると、藍の匂いがいつも通り鼻の奥を微かに抜けていく。草と土と、少し発酵したような匂い。昨日までと何も変わらないはずなのに、その変わらなさが今朝は少しだけ眩しかった。
祖母はもう甕の前に立っていた。
割烹着の袖をまくり、表面の泡を確かめている。横顔はいつもと同じで、昨夜のことを特に思い出しているようには見えない。
「おはよう」
実桜が挨拶すると、祖母は振り向かずに、
「おはよう」
と返した。
それだけだった。
実桜は少しだけ戸惑いながら、作業台のそばへ行った。
何か言われるかと思った。昨夜の続きを、短くても何か。けれど祖母は甕の様子を見終えると、いつもの調子で木桶をひとつ指した。
「今日は水洗いした布、先に干してしまいなさい。雨は降らんと思う」
「……うん」
「そのあと、棚の下段の端切れ、色ごとに分けて」
「分かった」
「昨日の続きの晒しもある。水にくぐらせといて」
仕事が、ひとつずつ置かれていく。
それはいつも通りの朝の段取りで、祖母の声にも特別な色はなかった。実桜は返事をしながら、胸のどこかが少しだけ詰まるのを感じた。
責められなかった。
慰められもしなかった。
その代わりに、いつもの朝がそのまま差し出された。
実桜は木桶を持って外へ出た。
庭先の竿には、昨日干した藍布が朝の光の中で静かに揺れている。まだ陽は高くないのに、空気はもう夏の温度を含み始めていた。
水を含んだ布は思ったより重い。
桶から引き上げ、端を揃え、ねじれないよう気をつけながら竿にかける。手順はもう少しずつ体に入ってきていた。最初の頃みたいに、どこを持てばいいか毎回迷うことはない。手が勝手に動くところまではいかなくても、次に何をすればいいかは分かる。
そのことに、少しだけ救われる気がした。
布を二枚干し終えたところで、背後から祖母の声が飛んだ。
「端、引っ張りすぎや」
「え」
「そこまで張ると、乾いたときに歪む」
実桜は慌てて手を緩めた。
祖母はそれだけ言って、また甕の方へ戻っていく。怒っているわけでも、機嫌が悪いわけでもない。ただ、必要なことだけを言っている。
昨夜のことを引きずっているのは、自分だけなのだと思った。
いや、引きずっていないのではなく、祖母は引きずったままでも仕事を進められるのかもしれない。何かがあっても、それで朝の手順を崩さない。布を洗い、甕を見て、竿に干す。その積み重ねの中に人を置いておくことができる。
実桜にはまだ、そのやり方がうまく分からなかった。
何かあると、すぐそこに意味を求めてしまう。言葉にしたくなる。きちんと向き合わなければと思う。けれど祖母は、向き合うことと急ぐことを同じにはしていないのだろう。
干し終えた布の下で、実桜は一度だけ空を見上げた。
青かった。昨日と同じ空のはずなのに、今日は少しだけ遠く感じる。
工房へ戻ると、祖母が棚の前で端切れを選り分けていた。
藍の濃淡ごとに布を分け、小さく畳んで重ねていく。その指先の動きは淀みなく、迷いがない。
「これ、どこからどこまでを同じ色にするの?」
「自分で見て決めなさい」
「でも、似た色が多くて」
「似とっても同じやない。よう見たら分かる」
「……うん」
実桜は布を一枚手に取った。
浅い青、少し緑を含んだ青、夜に近い濃い藍。似ているようで、どれも違う。祖母の言う通りだった。急いで見れば同じに見えるものも、立ち止まって見れば違っていた。
昨夜、自分は急ぎすぎたのだと思う。
綾乃の沈黙も、柚葉のまっすぐさも、浴衣が置かれた時間も、違う色をしていたのに、ひとつの答えでまとめようとしてしまった。
端切れを分ける手を動かしながら、実桜は口を開きかけた。
昨夜のことをもう一度、祖母に話した方がいいのかもしれない。ちゃんと謝るべきなのかもしれない。けれど、そのどちらも今ではない気がした。
祖母は何も急がせない。
それなら自分も、今朝はただ渡された仕事をやろうと思った。
無言のまま布を重ねていると、しばらくして祖母がぽつりと言った。
「昼から、甕の様子見てもらうけん」
「私が?」
「見るだけやない。今日は手も入れなさい」
実桜は顔を上げた。
祖母は布をたたみながら続ける。
「昨日より難しいこと、ひとつ増やすだけや」
「……できるかな」
「できることだけでええ」
祖母はそこでようやく、ほんの少しだけ実桜の方を見た。
「昨日できんかったことと、今日できることは別や」
それだけ言って、また手元へ視線を戻す。
実桜は返事をしなかった。
できなかったことと、できることは別。
昨夜の自分に向けられた言葉ではないのかもしれない。けれど、そうとしか聞こえなかった。
工房の中には、朝の光が少しずつ差し込んでいた。
棚の上の包みは、いつもと同じ場所にある。染まりきらないまま止まっている浴衣も、今朝は何も言わずそこにあった。
実桜は目をそらさなかった。
ただ、すぐに意味を取りにいこうとも思わなかった。
目の前の端切れを色ごとに分け、次に甕を見る。それで朝は進んでいく。進んでいくものの中にいながら、まだ止まったままのものもある。その両方がいっしょにあることを、今はそのまま受け取るしかなかった。
昼前になると、工房の中の空気は朝より少し重くなった。
外では蝉が途切れなく鳴いていて、開けたままの障子の向こうで、庭の白い石が強い日差しを返している。藍の匂いも、時間が進むにつれて濃くなるようだった。
「こっち来なさい」
祖母に呼ばれて、実桜は甕のそばへ立った。
藍の液面には細かな泡が浮いている。深い青緑色は静まり返っているのに、ただの水ではない気配が底にあった。
祖母は柄杓を甕の縁に置き、実桜を見た。
「手ぇ入れてみなさい」
「……そのまま?」
「怖がらんでええ。暴れん」
実桜は思わず少し笑って、それから袖をまくった。
甕の上に身をかがめる。藍の匂いが、朝より近く濃く感じられた。草と土に、何か発酵した熱が混ざっている。指先を近づけるだけで、液面の温度が空気と違うのが分かる。
「急いで混ぜんでええよ。底を探るみたいに、ゆっくり」
「底を探るみたいに」
「そう。中がどうなっとるか、手で聞くんよ」
手で聞く。
その言い方が少し不思議で、でも分かる気もした。
実桜はそっと手を沈めた。
ひやりとするかと思ったのに、液は思っていたよりやわらかく温かかった。水よりも少し重く、指先にまとわりつく感触がある。表面を切って中へ入っていくと、手首のあたりでふっと温度が変わるのが分かった。
「どう」
「……あったかい」
「うん」
「それに、思ったより重い」
「生きとるから」
祖母の返事は短かった。
実桜は甕の中で指を開き、ゆっくり動かした。かき回す、というより、確かめるように。液の中に目に見えない流れがあって、その流れに逆らわずに手を進めると、泡が静かに揺れた。
「そんな感じや。急ぐと機嫌悪うする」
「人みたい」
「人より正直や」
実桜は少しだけ息を吐いた。
さっきまで肩のあたりに入っていた余計な力が、わずかにほどける。
うまくやろうと思うと、すぐ動きが硬くなる。失敗しないように、正しく触れようとする。そうすると余計に分からなくなる。藍の中の手は、それを見透かすみたいに重くなった。
「急がんでええよ」
祖母がもう一度言った。
実桜は手を止めた。
止めてから、もう一度だけ、ほんの少しずつ動かした。底を探るみたいに。何かをつかみにいくのではなく、あるものに触れていくみたいに。
すると、さっきまで曖昧だった感触が少しだけ変わった。
液の重さの向こうに、温度のむらや、ゆるい流れが分かる気がする。ここが少しぬるい、ここは泡が多い。言葉にするほどはっきりしていないのに、手の中では確かに違っていた。
「……分かる、かも」
「何が」
「さっきより、少しだけ」
「それでええ」
祖母はそれ以上言わなかった。
褒めるでもなく、説明を足すでもなく、ただそのままにしておく。実桜は甕の中に手を入れたまま、しばらく動かなかった。
急がずに触れる。
そのことが、どうしてこんなに難しかったのだろうと思う。
昨日、自分は綾乃に向かって、答えの形を先に差し出してしまった。痛みの中身を聞く前に、そこからどう出ればいいかを言おうとした。藍に向かってそんなふうに手を入れたら、きっと中を濁らせるだけなのだろう。
甕の中で、実桜はゆっくり手を返した。
液が指のあいだを静かに流れていく。つかもうとしなければ、向こうから伝わってくるものがある。そのことを、いまさらみたいに思った。
「上げてみ」
祖母に言われて、実桜はそっと手を引き上げた。
濡れた指先は、空気に触れた途端、うすい青を帯び始める。青というより、最初はまだ緑に近い、頼りない色だった。それが時間をおいて少しずつ変わっていく。
「空気に触れて、色が立つ。甕の中だけやと、まだ見えん」
実桜は自分の手を見つめた。
さっきまでただ濡れていただけの指先に、ゆっくり藍が現れてくる。すぐには分からない。外へ出て、空気に触れて、少し待ってからようやく見えてくる。
それをきれいだと思った。
きれいだと思うのと同時に、少しだけ苦しかった。分からないまま触れて、待って、やっと色が出る。そういうものがあるのだとしたら、自分は今まで、ずいぶん急いで見切ろうとしてきたのかもしれない。
「もう一回やってみ」
祖母がそう言うと、実桜はうなずいて、もう一度甕に手を入れた。
今度はさっきより少しだけ、ためらわなかった。答えを取りにいくのではなく、ただ触れるために手を沈める。液の中の温度と重さが、今度は最初から少しだけ分かった。
工房の外では、蝉が変わらず鳴いている。
夏は急ぐように進んでいるのに、甕の中の時間はそれとは違う速さで流れていた。
実桜はその中へ、そっと手を入れていた。
午後の仕事は、そのあともいつも通り続いた。
水洗いした布を干し、乾いた端切れを畳み、使った道具を洗う。祖母は必要なことだけを言い、実桜も余計なことは口にしなかった。昨夜のことが消えたわけではない。ただ、それを抱えたままでも手は動くのだと、少しずつ体が覚え始めていた。
棚の上の包みには、その日も触れなかった。
けれど目を逸らしもしなかった。急がずに触れる、というのが、手だけの話ではないのかもしれないと実桜は思った。分からないものを、分からないままそこに置いておくこと。答えを先に決めずに、まだ見えていないものがあると認めておくこと。今の自分にできるのは、そのくらいなのだろうと思った。
夕方、工房の戸を閉める頃には、空の青はすっかり薄まっていた。
遠くから、また祭り囃子の練習音が聞こえてくる。町の夏は変わらず前へ進んでいる。その速さに追いつけなくても、せめて自分の手元にあるものだけは、急がず見ていたいと実桜は思った。




