表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
藍の手紙、夏の終わりに――阿波おどりの季節、染めかけの青が動き出す  作者: 明石竜


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

11/16

第十一章 夏の入口で止まったまま

 綾乃から連絡が来たのは、もう今夜は何も起こらないのだと思いかけた頃だった。

 夜の九時過ぎ、実桜が工房の片づけを終えて縁側に出たところで、スマートフォンが震えた。

 知らない番号だったが、メッセージの最初に「藤川綾乃です」とあった。

「先日はありがとうございました。少し話せますか。時間があれば、明日の夕方はどうでしょう」

 実桜は画面を見ながら、少しの間動かなかった。

 綾乃の方から連絡が来るとは思っていなかった。会うことは嫌じゃないと言っていたが、こちらから次の機会を作るものだと思っていた。

「大丈夫です。どこでもお伝えください」と返すと、すぐに「工房の近くの川沿いに小さな公園があります。そこで」という返事が来た。

 実桜は縁側に座って、夜空を見上げた。

 綾乃が自分から動いた。それだけのことが、やけに胸に重みを持った。


 待ち合わせの日は晴れていた。

 夕方の川沿いは風があって、水面がきらきらと揺れていた。公園というほどの広さはなく、ベンチがいくつかあるだけの場所だった。川の向こうに眉山が見える。

 綾乃は先に来ていた。

 ベンチに座って、川を見ていた。普段着で、髪を下ろしていた。工房近くの道で偶然会ったなら、踊り手だったとは気づかないかもしれない。でもやはり、立ち姿に何かが残っていた。

「来てくれてありがとうございます」

「こちらこそ、連絡をもらえてよかったです」

 綾乃の隣に座ると、川の音が近くなった。

 しばらく二人で川を見ていた。急がなくていいと実桜は思った。綾乃が話し始めるまで、この川の音を聞いていられると思った。


「先日、封筒のことを柚葉から聞きました」

 綾乃が先に切り出した。

「棚から出てきたこと」

「はい。柚葉さんに見てもらいました。祖母に確かめてから」

「京子さんは、中を読みましたか?」

「読んでいないと言っていました」

 綾乃は小さく息を吐いた。

「そうですか」

「届けようとしましたか。手紙を」

「届けようとした、というか」

綾乃は少し言葉を選んだ。

「書いたのは、届けるつもりで書いた。でも届けられなかった」

「書いたのはいつですか?」

「踊りをやめた年の、阿波おどりの前です」

 阿波おどりの前。

 実桜はその時間を想像した。連の中心で踊っていた綾乃が、その年の阿波おどりの前に手紙を書いた。でも届けられなかった。そして踊りをやめた。

「その年に、大切な人がいなくなったと聞きました。遥人さんから、詳しくは聞いていませんが」

 綾乃は否定しなかった。

「いなくなった、というのは、どちらの意味でもあります」

「どちらの?」

「亡くなったわけではないです。でも、いなくなった」

 綾乃の声は平坦だったが、その平坦さの底に、時間をかけて固まったものがあると分かった。

「離れた、ということですか」

「離れた、とも少し違う。私が、手放した。あるいは、手放さなければならなかった」

 実桜は黙って聞いていた。

「その人と、阿波おどりの季節に、ずっと踊っていた。毎年、同じ連で。その人がいなくなって、同じ場所で踊ることが、できなくなりました」

「いなくなった理由は」

「言えないことがあります。その人のことだから、私が話すことじゃないかもしれなくて」

「分かりました。それ以上は聞きません」

 綾乃は実桜を見た。

「聞かないんですか」

「聞く必要のないことまで聞くつもりはないです。綾乃さんが踊りをやめた年に、大切な人がいなくなって、手紙が届けられなかった。それが浴衣と繋がっているということだけ、分かれば十分です」

「十分、ですか」

「今は」


 川面に夕暮れの光が伸びてきた。

 綾乃は水面を見ながら言った。

「手紙を書いたのは、踊りの最後の年、というつもりで書いたわけじゃなかったんです。あの人といっしょに、その年も踊りたかった。それを伝えたくて書いた。でも渡す前に、渡せなくなりました」

「渡せなくなった、というのは」

「その人がいなくなったのが、阿波おどり本番の直前だったから」

 渡す相手が、阿波おどりの直前にいなくなった。

 実桜はその時間の重さを、言葉で測ろうとして、やめた。測れるものじゃないと思った。

「浴衣は」

「染めてもらっていた浴衣を受け取って、その人といっしょに踊る予定でした。でも受け取れなかった。受け取ったら、それを着て踊りに行くつもりだった自分を、認めることになると思って」

「認めることが、つらかった?」

「あの年の自分を、そのまま持ち続けることが、できなかった」

 綾乃の声が、わずかに揺れた。揺れたが、崩れなかった。

「手紙は捨てられませんでした。でも持っていることもできなかった。だから工房に置いてきた。京子さんに頼んで」

「祖母は引き受けたんですね」

「何も聞かずに、と言いました。いつでも取りに来ていい、とだけ言われました」

 実桜は祖母の顔を思い浮かべた。

 何も聞かずに引き受ける。処分せずに待つ。色は逃げんから、と言う人だった。

「四年が経ちました。長いと思う。でも、取りに行けなかった」

「なぜ、今、連絡をくれたんですか?」

 綾乃は少し考えてから、答えた。

「あなたが、続きがあると言ったから」

「染まりかけのものには、続きがあると」

「そう言われたとき、何か動いた気がした。続きがある、という言葉が、ずっと頭に残っていて。自分では、もう終わったことだと思おうとしていたのに」

 実桜は川に視線を向けた。

 水は流れていく。同じ場所に同じ水はない。でも川は続いている。

「終わったことにしようとすることと、本当に終わることは、違うと思います」

「そうかもしれない」

「私も、東京でのことを終わったことにしようとしていました。でも手放せていない。それがここへ来た理由かもしれないと、最近思います」

 綾乃は実桜を見た。

「あなたも、止まっているんですか?」

「そう思います」

「どんなふうに」

「向いていなかったと思っていた仕事が、本当に向いていなかったのか、向いていないと思い込んでいただけなのか、今もまだ分からないんです。分からないまま、東京を出てきた」

「分からないまま来た」

「祖母に多くを聞かれなかったので、そのままここにいます」

 綾乃は小さく笑った。工房での時よりも、少し力が抜けた笑い方だった。

「京子さんらしい」

「そうですね」


 二人でしばらく川を見ていた。

 似ている、と実桜は思った。

 綾乃は踊りをやめた年から止まっている。実桜は東京を出た日から止まっている。止まっている場所も、止まった理由も違う。でも似たような場所に立っているという感じがした。

 似ているからこそ、踏み込めない部分もあった。

 どうすればいいか、が分からない。自分の止まり方も、相手の止まり方も、まだ正確には分かっていない。分かっていないのに答えを出そうとすることの危うさを、実桜は感じていた。

「柚葉さん、少しずつ前を向こうとしている気がします」

「……そうですね」

「それを見ていて、綾乃さんはどう思いますか?」

「複雑です。私が止まっているせいで、柚葉まで遠慮させているのかもしれない、とも思う」

「綾乃さんが止まっていることが、柚葉さんに影響していると?」

「姉が踊りをやめた理由を、柚葉は正確には知らない。でも敏感な子だから、踊りの話を私の前でしにくくなっていた時期があった。それは私のせいだと思っています」

「柚葉さんは今、はっきり言えていますよね。踊りたいと」

「最近は言えるようになってきた」

綾乃はそこで少し間を置いた。

「あなたと話すようになってから、らしいです」

「そうですか」

「柚葉から聞きました。実桜さんが、ちゃんと聞いてくれるって」

 実桜は少し戸惑った。

「私は、聞いていただけです」

「聞いてもらえることが、話せるようにする。それは簡単なことじゃないと思います」


 帰り際、綾乃はそっと立ち上がった。

「浴衣のことを、少し考えてみます。受け取る、受け取らないではなく、どう向き合うかを」

「急ぎません。祖母もそう言っています」

「京子さんに、一度会いに行けたらいいと思っています。長く迷惑をかけてしまったので」

「迷惑だとは思っていないと思いますが、来てもらえたら祖母も喜ぶと思います」

 綾乃は頷いて、川沿いの道へ歩き始めた。

 数歩進んでから、振り返った。

「続きがある、という言葉、もう少し持っていてもいいですか」

「どういう意味ですか?」

「信じてみたい。染まりかけのものには、続きがあるという言葉を。まだ完全には信じられないけど、持っていたい」

 実桜は頷いた。

「持っていてください」

 綾乃はまた前へ向いて、歩いていった。

 夕暮れの川沿いに、その後ろ姿が遠くなっていく。立ち姿に、踊りの名残があった。体が覚えていることを、本人だけが忘れようとしている。

 実桜はベンチに残って、川を見た。

 流れていくものと、残っているものが、そこには一緒にあった。

 自分も、綾乃も、止まっていると思っている。でも止まっているあいだも、時間は流れていた。気づかないうちに、何かが積み重なっていた。

 工房での日々のことを思った。 

 水を触り、布を洗い、藍に手を入れた。染まりかけの布を竿に干し、棚を整理し、封筒を見つけた。一つひとつは小さなことだった。でも積み重なって、今ここにいる。

 阿波おどり本番まで、あと一週間になっていた。

 夕暮れの光が川面に伸びて、眉山の稜線がやわらかく夕空に溶けていく。

 実桜はしばらくそこにいた。

 急がなくていい、と思った。でも動いていくことは、やめなくていいとも思った。

 川の音が、夕暮れの中に続いていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ