第十一章 夏の入口で止まったまま
綾乃から連絡が来たのは、もう今夜は何も起こらないのだと思いかけた頃だった。
夜の九時過ぎ、実桜が工房の片づけを終えて縁側に出たところで、スマートフォンが震えた。
知らない番号だったが、メッセージの最初に「藤川綾乃です」とあった。
「先日はありがとうございました。少し話せますか。時間があれば、明日の夕方はどうでしょう」
実桜は画面を見ながら、少しの間動かなかった。
綾乃の方から連絡が来るとは思っていなかった。会うことは嫌じゃないと言っていたが、こちらから次の機会を作るものだと思っていた。
「大丈夫です。どこでもお伝えください」と返すと、すぐに「工房の近くの川沿いに小さな公園があります。そこで」という返事が来た。
実桜は縁側に座って、夜空を見上げた。
綾乃が自分から動いた。それだけのことが、やけに胸に重みを持った。
待ち合わせの日は晴れていた。
夕方の川沿いは風があって、水面がきらきらと揺れていた。公園というほどの広さはなく、ベンチがいくつかあるだけの場所だった。川の向こうに眉山が見える。
綾乃は先に来ていた。
ベンチに座って、川を見ていた。普段着で、髪を下ろしていた。工房近くの道で偶然会ったなら、踊り手だったとは気づかないかもしれない。でもやはり、立ち姿に何かが残っていた。
「来てくれてありがとうございます」
「こちらこそ、連絡をもらえてよかったです」
綾乃の隣に座ると、川の音が近くなった。
しばらく二人で川を見ていた。急がなくていいと実桜は思った。綾乃が話し始めるまで、この川の音を聞いていられると思った。
「先日、封筒のことを柚葉から聞きました」
綾乃が先に切り出した。
「棚から出てきたこと」
「はい。柚葉さんに見てもらいました。祖母に確かめてから」
「京子さんは、中を読みましたか?」
「読んでいないと言っていました」
綾乃は小さく息を吐いた。
「そうですか」
「届けようとしましたか。手紙を」
「届けようとした、というか」
綾乃は少し言葉を選んだ。
「書いたのは、届けるつもりで書いた。でも届けられなかった」
「書いたのはいつですか?」
「踊りをやめた年の、阿波おどりの前です」
阿波おどりの前。
実桜はその時間を想像した。連の中心で踊っていた綾乃が、その年の阿波おどりの前に手紙を書いた。でも届けられなかった。そして踊りをやめた。
「その年に、大切な人がいなくなったと聞きました。遥人さんから、詳しくは聞いていませんが」
綾乃は否定しなかった。
「いなくなった、というのは、どちらの意味でもあります」
「どちらの?」
「亡くなったわけではないです。でも、いなくなった」
綾乃の声は平坦だったが、その平坦さの底に、時間をかけて固まったものがあると分かった。
「離れた、ということですか」
「離れた、とも少し違う。私が、手放した。あるいは、手放さなければならなかった」
実桜は黙って聞いていた。
「その人と、阿波おどりの季節に、ずっと踊っていた。毎年、同じ連で。その人がいなくなって、同じ場所で踊ることが、できなくなりました」
「いなくなった理由は」
「言えないことがあります。その人のことだから、私が話すことじゃないかもしれなくて」
「分かりました。それ以上は聞きません」
綾乃は実桜を見た。
「聞かないんですか」
「聞く必要のないことまで聞くつもりはないです。綾乃さんが踊りをやめた年に、大切な人がいなくなって、手紙が届けられなかった。それが浴衣と繋がっているということだけ、分かれば十分です」
「十分、ですか」
「今は」
川面に夕暮れの光が伸びてきた。
綾乃は水面を見ながら言った。
「手紙を書いたのは、踊りの最後の年、というつもりで書いたわけじゃなかったんです。あの人といっしょに、その年も踊りたかった。それを伝えたくて書いた。でも渡す前に、渡せなくなりました」
「渡せなくなった、というのは」
「その人がいなくなったのが、阿波おどり本番の直前だったから」
渡す相手が、阿波おどりの直前にいなくなった。
実桜はその時間の重さを、言葉で測ろうとして、やめた。測れるものじゃないと思った。
「浴衣は」
「染めてもらっていた浴衣を受け取って、その人といっしょに踊る予定でした。でも受け取れなかった。受け取ったら、それを着て踊りに行くつもりだった自分を、認めることになると思って」
「認めることが、つらかった?」
「あの年の自分を、そのまま持ち続けることが、できなかった」
綾乃の声が、わずかに揺れた。揺れたが、崩れなかった。
「手紙は捨てられませんでした。でも持っていることもできなかった。だから工房に置いてきた。京子さんに頼んで」
「祖母は引き受けたんですね」
「何も聞かずに、と言いました。いつでも取りに来ていい、とだけ言われました」
実桜は祖母の顔を思い浮かべた。
何も聞かずに引き受ける。処分せずに待つ。色は逃げんから、と言う人だった。
「四年が経ちました。長いと思う。でも、取りに行けなかった」
「なぜ、今、連絡をくれたんですか?」
綾乃は少し考えてから、答えた。
「あなたが、続きがあると言ったから」
「染まりかけのものには、続きがあると」
「そう言われたとき、何か動いた気がした。続きがある、という言葉が、ずっと頭に残っていて。自分では、もう終わったことだと思おうとしていたのに」
実桜は川に視線を向けた。
水は流れていく。同じ場所に同じ水はない。でも川は続いている。
「終わったことにしようとすることと、本当に終わることは、違うと思います」
「そうかもしれない」
「私も、東京でのことを終わったことにしようとしていました。でも手放せていない。それがここへ来た理由かもしれないと、最近思います」
綾乃は実桜を見た。
「あなたも、止まっているんですか?」
「そう思います」
「どんなふうに」
「向いていなかったと思っていた仕事が、本当に向いていなかったのか、向いていないと思い込んでいただけなのか、今もまだ分からないんです。分からないまま、東京を出てきた」
「分からないまま来た」
「祖母に多くを聞かれなかったので、そのままここにいます」
綾乃は小さく笑った。工房での時よりも、少し力が抜けた笑い方だった。
「京子さんらしい」
「そうですね」
二人でしばらく川を見ていた。
似ている、と実桜は思った。
綾乃は踊りをやめた年から止まっている。実桜は東京を出た日から止まっている。止まっている場所も、止まった理由も違う。でも似たような場所に立っているという感じがした。
似ているからこそ、踏み込めない部分もあった。
どうすればいいか、が分からない。自分の止まり方も、相手の止まり方も、まだ正確には分かっていない。分かっていないのに答えを出そうとすることの危うさを、実桜は感じていた。
「柚葉さん、少しずつ前を向こうとしている気がします」
「……そうですね」
「それを見ていて、綾乃さんはどう思いますか?」
「複雑です。私が止まっているせいで、柚葉まで遠慮させているのかもしれない、とも思う」
「綾乃さんが止まっていることが、柚葉さんに影響していると?」
「姉が踊りをやめた理由を、柚葉は正確には知らない。でも敏感な子だから、踊りの話を私の前でしにくくなっていた時期があった。それは私のせいだと思っています」
「柚葉さんは今、はっきり言えていますよね。踊りたいと」
「最近は言えるようになってきた」
綾乃はそこで少し間を置いた。
「あなたと話すようになってから、らしいです」
「そうですか」
「柚葉から聞きました。実桜さんが、ちゃんと聞いてくれるって」
実桜は少し戸惑った。
「私は、聞いていただけです」
「聞いてもらえることが、話せるようにする。それは簡単なことじゃないと思います」
帰り際、綾乃はそっと立ち上がった。
「浴衣のことを、少し考えてみます。受け取る、受け取らないではなく、どう向き合うかを」
「急ぎません。祖母もそう言っています」
「京子さんに、一度会いに行けたらいいと思っています。長く迷惑をかけてしまったので」
「迷惑だとは思っていないと思いますが、来てもらえたら祖母も喜ぶと思います」
綾乃は頷いて、川沿いの道へ歩き始めた。
数歩進んでから、振り返った。
「続きがある、という言葉、もう少し持っていてもいいですか」
「どういう意味ですか?」
「信じてみたい。染まりかけのものには、続きがあるという言葉を。まだ完全には信じられないけど、持っていたい」
実桜は頷いた。
「持っていてください」
綾乃はまた前へ向いて、歩いていった。
夕暮れの川沿いに、その後ろ姿が遠くなっていく。立ち姿に、踊りの名残があった。体が覚えていることを、本人だけが忘れようとしている。
実桜はベンチに残って、川を見た。
流れていくものと、残っているものが、そこには一緒にあった。
自分も、綾乃も、止まっていると思っている。でも止まっているあいだも、時間は流れていた。気づかないうちに、何かが積み重なっていた。
工房での日々のことを思った。
水を触り、布を洗い、藍に手を入れた。染まりかけの布を竿に干し、棚を整理し、封筒を見つけた。一つひとつは小さなことだった。でも積み重なって、今ここにいる。
阿波おどり本番まで、あと一週間になっていた。
夕暮れの光が川面に伸びて、眉山の稜線がやわらかく夕空に溶けていく。
実桜はしばらくそこにいた。
急がなくていい、と思った。でも動いていくことは、やめなくていいとも思った。
川の音が、夕暮れの中に続いていた。




