第十二章 柚葉の初めて
翌日の夕方、工房を出たところで、柚葉は自転車にまたがりかけてふいに振り返った。
「少しだけ、寄っていきませんか」
「どこにですか」
「練習場の近く。見るだけです」
実桜は少し迷ったが、頷いた。
川沿いの広場に近づくにつれて、先に音が聞こえてきた。
笛が一本、夕暮れの空気を裂くように伸び、そのあとを太鼓が追いかける。手拍子が重なり、人の声が混じった。まだ本番ではないのに、そこだけ町の温度が違っていた。
柚葉は土手の手前で足を止めた。
下では連の練習が始まっていた。揃いの動きで列が流れ、足が地面を刻むたび、乾いた音が小さく跳ねる。踊り手たちの手が上がるたび、夕方の残り光が指先に引っかかった。
「近くで聞くと、やっぱり違う」
柚葉は小さく言った。
その声は明るいのに、どこか苦しかった。
「入りたいですか」
実桜が聞くと、柚葉は少し笑った。
「入りたいです。ずっと」
笑ったまま、視線は下へ向いたままだった。
「でも、近くで見たら見たで、こわくなる。好きやから、余計に」
「何がこわいんですか」
「ほんまに入ってしまったら、もう言い訳できなくなるから」
柚葉は土手の草をつま先で軽くこすった。
「お姉ちゃんのせいにして、やっぱり入らん方がよかった、なんて言えんなる」
実桜は練習の列を見た。
輪の中に入る人と、外から見ている人。その境目は、遠くから見るよりずっと細く見えた。
「見てるだけでも、足が動きそうです」
思わずそう言うと、柚葉が少しだけ目を丸くした。
「実桜さんも?」
「はい。まだ動かないですけど」
柚葉はその返事に、少し救われたような顔をした。
下でひとつ、掛け声が上がった。
列が折り返し、揃った足音がもう一度こちらまで届く。
「今日も、そばまでは行きません」
柚葉は強く言った。
「でも、逃げるだけでもないです。見に来たから」
それから、実桜を見た。
「見た、ってことは、前よりちょっとだけ進んだことにしていいですか」
「いいと思います」
実桜が言うと、柚葉は短く笑った。
「じゃあ、今日はそれで帰ります」
二人はしばらく、土手の上から練習を見ていた。
輪の外に立ったままでも、音は確かに体の中へ入ってきた。
やがて、土手の下の道からこちらへ上がってくる人影が見えた。
綾乃だった。仕事帰りらしく、落ち着いた色の服のまま、こちらへ歩いてくる。
「お姉ちゃん」
柚葉の声が少しだけ弾んだ。
綾乃は実桜にも会釈してから、柚葉の顔を見た。
「練習、見ていたの?」
「うん、ちょっとだけ」
「……そう」
その返事は短かったが、責める響きはなかった。
ただ、その静けさに、柚葉はかえって何かを読み取ったようだった。
「帰る?」
実桜が尋ねると、綾乃が「ええ」とうなずいた。
「途中までいっしょに」
三人で土手を下り、河川敷沿いの道を歩き出した。
最初は誰もあまり喋らなかった。風が草を揺らし、遠くに残った囃子の音が、夜の入口に細く流れている。
実桜は少しだけ歩幅を緩め、姉妹の半歩後ろについた。二人のあいだに、自分がすぐには入らない方がいい気がした。
「やっぱり、入りたい」
しばらくして、柚葉が言った。
夜風に、高い声が少しだけほどける。
「見るだけじゃ足りん。あんなの見たら、余計に無理やもん」
綾乃は足を緩めた。
振り向いた顔は怒っていなかったが、穏やかすぎて、実桜はその横顔に少しだけ身構えた。
「柚葉」
「分かっとるよ、急に言っても無理なんは。でも来年まで待てとか、そういう話じゃなくて」
「そういう話です」
綾乃はやわらかく言った。
「勢いだけで入るものじゃないでしょう」
「勢いだけじゃないよ」
「じゃあ、何を分かった上で言ってるの」
「分からんと入ったらダメなん?」
「ダメとかじゃなくて――」
綾乃はそこで言葉を切った。
風が吹いて、土手の草がさわさわと鳴る。遠くではまだ太鼓の名残みたいな音が小さく続いていた。
「楽しいだけじゃないから、言ってるの。好きだからやれることもあるけど、好きだからつらいこともある。途中でやめたくてもやめられないこともあるし、逆に、続けたくても続けられんこともある」
「お姉ちゃんは、そうやったんやろ」
柚葉の声が少し固くなる。
「でも、それをそのまま私に乗せんでよ」
「乗せてるつもりはありません」
「乗せてるやん」
実桜は二人のあいだの空気が変わるのを感じた。
さっきまで夜の興奮に少し浮いていた柚葉の声に、尖ったものが混じり始めている。綾乃の方も、表情は変わらないのに、目だけが少し硬かった。
「私はただ、ちゃんと考えてからにしなさいって」
「またそれ」
柚葉が遮った。
「ちゃんと考えてからって、ずっとそう言うやん。危ないとか、早いとか、まだ知らんからとか」
「実際、あなたはまだ知らないでしょう」
「知らんけん知りたいんやん」
綾乃は答えなかった。
その沈黙が、柚葉を余計に焦らせたようだった。
「お姉ちゃん、いつもそうや」
柚葉は俯いたまま言った。
「何も言わんで、自分だけ分かったみたいな顔する。踊りのことも、あの年のことも、何一つ教えてくれんのに、危ないからって止めるばっかり」
「柚葉」
綾乃の声は低かった。
「その言い方は」
「じゃあどう言えばいいん」
柚葉は顔を上げた。
目が少し光っていた。怒っているというより、泣く手前の強さに近かった。
「私、お姉ちゃんが踊ってたの、ちゃんと覚えとるよ。楽しそうやったし、きれいやったし、みんなお姉ちゃんを見とった。なのに、ある年から急にやめて、何も言わんで、浴衣もそのままで」
「柚葉、もう」
実桜が口を開きかけたが、柚葉は止まらなかった。
「お姉ちゃんが勝手に止まっただけやん」
その一言のあと、音がなくなった気がした。
実際には風も鳴っていたし、遠くの車の音もしていたはずなのに、実桜にはそこだけがすっと抜け落ちたみたいに感じられた。
綾乃はすぐには何も言わなかった。
ただ、立ち止まったまま柚葉を見ていた。怒っている顔ではなかった。驚いたとも少し違う。もっと冷静で、もっと深いところに届いてしまったときの顔だった。
柚葉も、自分で言った言葉の重さに気づいたらしかった。
口を結んで、肩が小さくこわばる。
「……そうかもしれませんね」
綾乃はようやく、それだけ言った。
穏やかな声だった。否定もしないし、責めもしない。ただ、その穏やかさがかえって痛かった。
「違っ、そういう意味じゃ」
柚葉の声が裏返る。
「私、別に」
「今日は帰りなさい」
綾乃は言った。
「これ以上、今ここで話しても、たぶんよくないから」
「お姉ちゃん」
「帰りなさい、柚葉」
綾乃はもう柚葉を見ていなかった。
その視線の外し方が、怒るよりずっと重かった。
実桜は一歩前に出た。
「綾乃さん」
呼ぶと、綾乃はほんの少しだけこちらを向いた。けれどその目には、今は誰の言葉も入れたくない、という疲れがはっきりあった。
「すみません」
実桜はとっさにそう言った。
自分が謝ることではないのかもしれない。でも、ほかに言えることがなかった。
綾乃は首を横に振った。
「実桜さんは、悪くないです」
それから少しだけ間を置いて、
「……今日は、ひとりにしてください」
と小さく続けた。
そのまま、綾乃は踵を返して歩き出した。
夜道の向こうへ遠ざかっていく後ろ姿を、実桜は追えなかった。
追ったところで、それはまた別の踏み込みになる気がした。
隣で、柚葉が動かなかった。
実桜が振り向くと、柚葉は唇を強く噛んでいた。泣くのをこらえているのが分かる。けれど、その顔にはまだ意地も残っていて、すぐには声をかけられなかった。
「……言いすぎたね」
実桜はようやく、それだけ言った。
柚葉はうつむいたまま、小さく息を吸った。
「分かっとる」
声が震えていた。
「分かっとるけど、あのままやったら、ほんまにずっと変わらん気がして」
「うん」
「私、どうしたらよかったん」
最後の言葉で、柚葉の声が崩れた。
「何も言わんかったら、お姉ちゃんずっとあのままやし。でも言ったら、ああなるし」
実桜はすぐに返せなかった。
少し前の自分なら、落ち着いてとか、急がない方がいいとか、何か正しい形の言葉を探したかもしれない。けれど今は、それを言っていい場所ではないことだけは分かった。
柚葉は両手で顔をこすった。
「私、お姉ちゃんに踊ってほしいわけじゃないんよ」
しゃくりあげるのをこらえながら言う。
「ただ、あんな顔して生きてほしくないだけで」
そこまで言って、自分でもまずいと思ったのか、柚葉は口を閉じた。
でももう遅かった。その言葉もまた、さっきとは別の痛さを持って夜の中に残った。
実桜はしばらく黙ったあと、柚葉の少し前に立った。
「帰ろう」
それだけ言った。
柚葉はうなずかなかった。けれど、しばらくしてから小さく息を吐いて、実桜の隣に並んだ。
土手の道を戻るあいだ、二人ともほとんど話さなかった。風が草を揺らす音だけが続いている。さっき見た練習の熱気はもう遠く、同じ夜の中のこととは思えなかった。
歩きながら実桜は、綾乃の「そうかもしれませんね」を何度も思い返していた。
否定しないことで、言葉はあんなにも深く沈むのだと知った。柚葉は綾乃を動かしたかったのだろう。自分が前に進みたかったのと同じように。でも、相手の止まっている場所へ届く前に、言葉だけが先に刺さってしまうことがある。
それを、実桜はもう知っていた。
知ったばかりだった。だからこそ、隣で肩を震わせている柚葉に向かって、簡単な正しさを返すことができなかった。
工房の近くまで戻ってきた頃、通りの角にある自販機の白い灯りが見えた。
夜道の中では、それだけが妙に明るかった。虫が何匹か、光のまわりを頼りなく回っている。
「なんか飲む?」
実桜が尋ねると、柚葉は首を横に振った。
でも足は止まったままで、自販機の前から動こうとしない。
実桜はスマートフォンをかざして、冷たいお茶を二本買った。
一本を差し出すと、柚葉は少し迷ってから受け取った。礼も言わず、ただ細い指で缶を握りしめる。
沈黙が落ちた。
遠くではまだ、祭り囃子の練習の名残みたいな音がかすかに聞こえる。ほんの少し前まで、その音に胸を躍らせていたはずなのに、今はずいぶん遠い場所のことみたいだった。
「……私」
柚葉が、缶を見たまま言った。
「ほんとは、あんなこと言いたかったんじゃない」
実桜は何も言わなかった。
柚葉の声は、自分で思っていたよりも弱かったのかもしれない。言葉のあとに、小さく喉が震える音が混じった。
「お姉ちゃんが勝手に止まったとか、そんなん」
柚葉は唇を噛んだ。
「ほんとは思ってない。思ってないけど……でも、見とると苦しくなるんよ」
缶を握る手に力が入る。
細い肩が、ほんの少しだけ縮こまった。
「私が踊りたいって言うたら、いつもお姉ちゃん、ああいう顔するけん」
「うん」
「止めたいんじゃなくて、怖がっとる顔。あれ見るたびに、じゃあ私はどうしたらええんってなる」
柚葉はそこで言葉を切った。
鼻をすする音がして、顔を背ける。泣くまいとしているのが分かった。
「……今日、練習見て、やっぱり好きやって思ったんよ」
声がかすれる。
「見るだけじゃ嫌やって、ちゃんと思った。なのに、お姉ちゃんの前やと、そう思う自分が悪いみたいになる」
その最後の一言で、とうとう柚葉の目から涙が落ちた。
大きく泣くわけではない。声も上げない。ただ、こらえきれなかったものが、頬を伝ってぽつりと落ちた。
実桜はすぐには触れなかった。
背中をさすることも、慰める言葉を探すことも、今は違う気がした。代わりに、自分の缶を開ける小さな音だけが夜に響く。
「悪い子になりたいわけじゃないんよ」
柚葉は涙を手の甲で乱暴に拭った。
「お姉ちゃんを困らせたいわけでもない。ほんとは、ちゃんと話したいだけやのに」
実桜はしばらく黙ってから、小さく言った。
「分かってほしかったんだね」
柚葉はうつむいたまま、少しだけうなずいた。
それから、また一粒だけ涙が落ちた。
自販機の光は変わらず明るい。
その下で見る涙は、昼間よりもずっと幼く見えた。柚葉はまだ十七歳で、でも十七歳だからこそ、好きなものを好きだと言うことと、誰かを傷つけないことの両方を、うまく持て余しているのだろうと実桜は思った。
「帰ろうか」
今度は、柚葉はちゃんとうなずいた。
歩き出す前に、柚葉は缶を持ったまま、かすれた声で言った。
「……明日、お姉ちゃんに謝れるかな」
「今日は無理でも、明日は分からないよ」
実桜は言ってから、自分の言葉が少しだけ昨日までと違うことに気づいた。
急がせない。答えを先に置かない。
たぶん今は、それでよかった。
柚葉は何も返さなかった。
けれど、自販機の前を離れるときには、さっきより少しだけ息が整っているように見えた。
夜道はまだぬるく、遠い囃子の音だけが夏の続きみたいに流れていた。
☆
翌朝、柚葉から短い連絡が来た。
「今朝、姉ちゃんと少し話しました。来てもらえますか。工房に」
「お姉さんもいっしょですか」と実桜が返すと、「いっしょに来ます」という返事が来た。
実桜は祖母に伝えた。祖母は「分かった」とだけ言って、いつもより丁寧に工房の中を整えた。掃除をするわけではない。でも道具の位置を確かめ、甕の状態を確認し、棚の埃を払った。
迎える準備を、自分のやり方でする人だった。
二人が工房に来たのは午前の終わりだった。
柚葉が先に入ってきて、綾乃がその後ろに続いた。
綾乃は工房の入口で少し立ち止まった。久しぶりに来た場所を確かめるように、中をじっくり見渡した。藍の匂いが、その表情を少し変えた。何かを思い出している顔だった。
「京子さん」
綾乃が呼ぶと、祖母が奥から出てきた。
二人は向かい合って、少しの間、何も言わなかった。
それから祖母が「まあ、上がりなさい」と言った。
謝罪も再会の言葉もなかった。でもその「上がりなさい」の中に、四年分のものが入っていた。綾乃は小さく頭を下げて、工房に入った。
台所でお茶を出してから、五人が工房の中に集まった。
実桜と遥人は少し離れた場所にいた。今日は柚葉と綾乃と祖母の話を、邪魔しないようにしていた。
最初に口を開いたのは柚葉だった。
「私、本気で連に入りたい。昨日みたいな言い方じゃなくて、ちゃんとお姉ちゃんに言いたくて、来てもらった」
綾乃はお茶のカップを両手で持って、柚葉を見ていた。
「遥人さんから聞いた」
「だから今日、直接言いたかった。ずっと言えなかったから」
「なぜ今、言えるようになったの」
「言えないままでいることが、お姉ちゃんのためにならないと思ったから」
綾乃は少しの間、柚葉を見ていた。
「私が踊りをやめたことと、柚葉が踊ることは、別のことよ」
「分かってる。でも、そうやって分かったみたいに言われるの、ずるい」
「ずるい?」
「だって、別やって言われたら、こっちだけが勝手に気にしてたみたいやん。うちは、ずっと気ぃつかってたのに」
「柚葉」
「でも、お姉ちゃんの前で踊りの話をするの、ほんまに怖かった」
「怖かった?」
「傷つけるかもしれないと思って。だから言えなかった」
綾乃はカップを置いた。
「傷つけることを心配してくれていたの」
「そうじゃなかったら、言えてたよ」
その言葉が、静かに工房に落ちた。
綾乃は下を向いた。下を向いたまま、少しの間動かなかった。
「私が踊りをやめたのは、柚葉のせいじゃない。それだけは分かってほしい」
「分かってる」
「でも、やめたことで柚葉に遠慮させていたなら、それは私のせいかもしれない」
「お姉ちゃんのせいとか、そういうことじゃなくて。私はただ、お姉ちゃんに止まっていてほしくない」
「止まっている?」
「そう見える。踊りをやめてから、お姉ちゃん、前と違う。笑うけど、何かが止まってる」
綾乃は顔を上げた。
「柚葉には、そう見えていたの」
「ずっと」
綾乃は窓の外を見た。工房の小さな窓から、夏の光が差し込んでいた。
「止まっている、か」
「違う?」
「違わないかもしれない」
綾乃の声が低くなっていた。
「自分では、前に進んでいるつもりだった。でも進むことと、止まらないことは、別のことかもしれない」
実桜は、綾乃が川沿いで言っていた言葉を思い出した。終わったことにしようとすることと、本当に終わることは違う、と実桜が言ったときに綾乃が頷いた。
綾乃は進んでいた。仕事を続けて、毎日を送って、笑って。でも止まっていた。あの年の阿波おどりの前で。
柚葉の声が、少し変わった。
穏やかだったのが、急に真剣になった。まっすぐで、不器用なほどの、本音の声だった。
「お姉ちゃんは、たぶん、まだ怖いんやと思う」
工房が静かになった。
綾乃の顔が、わずかに固まった。
「また踊ったら、あの頃を思い出すのが怖い。あの人のことを思い出すのが怖い。だからやめたままにしてる。そうやろ」
「柚葉」
「違う?」
「……そんな簡単なことじゃない」
「簡単じゃないのは分かってる。でも、怖いから止まってるのは本当やろ」
綾乃は何も言わなかった。
言えなかった、というより、否定できなかった。柚葉の言葉が正確すぎて、反論の言葉が来なかった。
柚葉は続けた。
「私、お姉ちゃんが踊ってた頃の写真を見たことある。すごく好きそうに踊ってた。今のお姉ちゃんより、ずっと自由な顔してた」
「それは」
「今のお姉ちゃんが嫌いなわけじゃない。でも、あの顔を見たことがあるから。なかったことにしてほしくない」
綾乃の目が、濡れそうになった。濡れたが、こぼれなかった。
それをこらえている横顔を、実桜は見ていた。
少しの間、誰も話さなかった。
祖母が立ち上がって、お茶を足しにいった。それだけのことだったが、場の空気が少し緩んだ。
遥人が穏やかな声で言った。
「俺も、戻ってきたとき怖かった。ここに戻ることが、諦めることに見えるんじゃないかと思って。でも甕の世話をしてたら、そういうことどうでもよくなった。ここにしかできないことがあるって分かったから」
綾乃は遥人を見た。
「遥人さんは、怖くなくなったんですか?」
「完全にはなってない。でも、怖いまま甕の世話はできる。怖さといっしょに仕事はできる」
綾乃はそれを聞いて、少し下を向いた。
怖いまま、でも動ける。そういうことがある、と遥人は言っていた。
帰り際、綾乃が棚の前に立った。
和紙の包みを、正面から見ていた。
今日初めて、ちゃんと向き合っている顔だった。実桜はその横に行かなかった。祖母も、柚葉も、遥人も、少し離れた場所にいた。
綾乃は包みに手を伸ばした。
触れるか触れないかの距離で、手が止まった。
そのまま、しばらくそこにいた。
それから、そっと手を引いた。
「まだ、今日は」
「そうやね」
柚葉は責めない声だった。
「でも、来られた」
「来られたね」
綾乃は包みから視線を離して、工房全体を見渡した。
藍の匂い。竿に吊るされた布。甕の穏やかな気配。長い時間を積んできた場所の空気。
「また来てもいいですか」
「いつでも」
二人が帰ったあと、工房に残った三人は少しの間、静かにしていた。
遥人がお茶を一口飲んで「綾乃さん、変わってきたな」と言った。
「変わってきた、というより。止まっていたものが、少し動き始めた気がします」
「そうやな」
祖母は棚の前に立って、包みを見ていた。
背中しか見えなかったが、その背中が少し違う温度を持っているような気がした。
「おばあちゃん」
「なんや」
「ずっと待っていたんですね」
「待っとった、というより」
祖母は振り返らずに言った。
「ここに置いとっただけや」
「それが待つことでしょう」
祖母は少しの間、黙っていた。
それから「まあ、そうかもしれんな」と言って、甕の方へ歩いていった。
工房の外から、連の練習の音が聞こえてきた。
笛と太鼓と鉦。阿波おどり本番まで、あと五日だった。
その音が今日は、遠くからではなく、もう少し近くから来る気がした。




