第十三章 言えなかったこと
綾乃が工房を訪れた翌日、実桜は帳場をもう一度整理した。
綾乃と柚葉が来たことで、何かが動いた感触があった。でも動いたのは気持ちの話で、浴衣と手紙がどうなるかは、まだ綾乃が決めることだった。急かしてはいけないと思いながら、実桜は手を動かせる仕事を続けた。
帳場の引き出しの中に、古い受注記録が残っていた。
工房が長年受けてきた注文の控えで、客の名前と、注文の内容と、受け取り日が記されていた。ほとんどは済の印がついている。ごくわずかだけ、印のないものがあった。
実桜はそれらを丁寧に確かめながら、一枚に目が止まった。
藤川の名前が、また出てきた。
でも今度は、一件ではなかった。
記録は三件あった。
一件目は、実桜がすでに知っている浴衣の注文だった。受け取り済みの欄が空白のまま。
二件目は、その前の年の記録だった。同じ藤川の名前で、こちらは済の印がついていた。受け取られた浴衣が、一着ある。
三件目は、さらにその前の年。これも済だった。
つまり、綾乃は毎年工房に浴衣を注文していた。二年連続で受け取って、三年目に受け取れなかった。
実桜はその記録を並べて見た。
毎年、同じ工房に。同じ時期に。
それは阿波おどりのためだったのだろう、と実桜は思った。踊りの季節に向けて、毎年浴衣を染めてもらっていた。それが三年目で止まった。
止まった年に、大切な人がいなくなった。
祖母に見せると、祖母は記録を見て、ゆっくりと頷いた。
「知っとった?」
「知っとる」
「綾乃さんは、毎年注文していたんですね」
「三年続いた」
「最初の年から、この工房でしたか」
「最初の年は、別のところやった。二年目からここへ来た」
「なぜここへ」
「誰かに紹介されたと言っとった。誰か、とは聞かんかった」
誰かの紹介。阿波おどりの連で知り合った人間関係の中で、工房を教えてもらったのかもしれない。あるいは、いなくなったその人が教えたのかもしれない。
「三年目の浴衣は、受け取れなかった」
「そうや」
「二年目と三年目で、何か違いがありましたか。浴衣に」
祖母は少し考えた。
「三年目は、少し特別な染めを頼んどった」
「特別な染め?」
「流水の柄に、もう少し手を入れてほしいと言われた。普通より時間のかかる仕事やった」
写真で見た浴衣の柄を、実桜は思い出した。流水の柄が入っていた。肩の近くから、裾にかけて流れるような線が続いていた。
「その柄は、綾乃さんが決めたんですか」
「いっしょに来た人間が決めた」
実桜は動きを止めた。
「いっしょに来た人、ですか」
「三年目の注文のとき、綾乃さんといっしょに来た人間がいた。若い人やった。柄のことを熱心に話しよった」
「その人が、柄を決めたんですか」
「二人で決めた、という感じやったな」
実桜は祖母の言葉を整理した。
綾乃が一人で注文したのではなく、誰かといっしょに来て、いっしょに柄を決めた。その人が、大切な人だったのかもしれない。踊りの季節に踊るための浴衣を、二人で選んだ。
それが受け取れなかった。
遥人が来たのは昼過ぎだった。
実桜が帳場で見つけた記録のことを話すと、遥人は少し表情を変えた。
「いっしょに来た人間、というのは」
「祖母が覚えているだけで、詳しくは分からないみたいです。若い人だったとだけ」
「そうか」
遥人は甕の方を見た。
「綾乃さんが踊りをやめた年に、連で一人いなくなった人間がいる。俺が来る前の話やから、直接は知らん。でも、聞いたことがある」
「どういう人でしたか」
「踊りが上手かった、とだけ聞いとる。綾乃さんと同じ連で」
「いなくなったのは、なぜですか」
「体の具合が悪くなって、徳島を離れたと聞いとる。病気、というほど大げさな話でもなかったらしいけど、踊れなくなる事情やった」
踊れなくなる事情。
実桜はその言葉を胸の中に置いた。
亡くなったわけではない、と綾乃は言っていた。でも、いなくなった。体の具合が悪くなって、徳島を離れた。踊れなくなる事情を持って。
「その人へ、手紙を書いたのかもしれない」
「そうやと俺も思う」
「渡せなかった、というのは」
「阿波おどりの前に離れたなら、渡す機会がなかったかもしれん」
実桜は封筒を思い返した。踊りの季節が終わる前に伝えたかったこと、と書かれていた。でも季節が終わる前に、相手がいなくなった。
書き終えたのに、渡せなかった。
浴衣は染まりかけで止まった。手紙は書かれたのに届かなかった。どちらも、途中で止まったものだった。
午後、祖母が実桜を呼んだ。
帳場の椅子に座った祖母は、少し疲れた顔をしていたが、目は澄んでいた。
「綾乃さんが浴衣を受け取らんかった理由を、昨日まで私は一度も人に話さんかった」
「聞いていいですか」
「もう話せる時期やと思うから、話す」
祖母は穏やかな声で、ゆっくりと話し始めた。
綾乃が三年目の浴衣を受け取りに来なかった日の話だった。
受け取り予定の日を過ぎても連絡がなく、祖母から綾乃に連絡を入れた。綾乃は来られなくなった、と言った。理由は言わなかった。
「でも、そのあと来た。ひとりで。受け取れない、と言いよった。理由は聞かんかった。でも、顔を見たら聞けんかった」
「どんな顔でしたか」
「疲れた顔やなかった。怒った顔でも、泣いた顔でもなかった」
祖母は少しの間を置いた。
「もう決めた、という顔やった」
「何を決めた?」
「踊らないことを。受け取らないことを。あの年の自分を、これ以上続けないことを」
実桜は祖母の言葉を聞いていた。
もう決めた、という顔。それは強さではなく、それ以上動けない場所まで来てしまった人の顔だったのかもしれない、と実桜は思った。
「浴衣と封筒を預けていった」
「置いていくしかなかったんやろな、と思った。捨てられんけど、持っとれん。そういうものがある」
「そういうものを、工房で預かったんですね」
「染めかけのものを置いておく場所は、工房が一番ええ」
祖母は短く言った。
染めかけのものを置いておく場所。それが工房だという祖母の言い方は、仕事の話であり、同時にそれ以上のことでもあった。
夕方、柚葉からメッセージが来た。
「昨日のこと、お姉ちゃんと少し話した。言いすぎたこと、謝れた。連のことはまだ途中やけど、前よりちゃんと話せた気がする。ありがとう、実桜さん」
実桜は返事をしながら、続きを待った。
少し間があってから「お姉ちゃん、泣いた。久しぶりに」という一文が来た。
実桜は画面を見ていた。
泣いた。それがどういう涙だったかは分からない。でも、涙が出たということは、閉じていた場所が少し開いたということだとも思った。
「柚葉さんは泣きましたか」と実桜は返した。
「泣いた。二人で泣いた。なんか、すっきりした」という返事が来た。
その言葉の単純さに、実桜は少し救われた。複雑に抱えていたものが、二人で泣くことで少し軽くなった。そういうことが、ある。
夜、実桜は縁側に出た。
棚の中の浴衣と手紙のことを考えていた。
浴衣は途中で止まった。でも、染まりかけている。手紙は書かれたのに届かなかった。でも、書かれた時間は消えない。
綾乃が工房に来て、包みの前に立った。触れる手前で止まったが、来ることはできた。柚葉と泣いた。何かが動いた。
実桜は自分のことを考えた。
東京でのことを、まだ整理できていない。向いていたのか、向いていなかったのか。失敗したのか、そもそも間違えていたのか。
でも、ここで布を洗って、藍に手を入れて、染まりかけの布を竿に干してきた。一つひとつは小さかったが、積み重なっている。
染まりかけていた。自分自身も。
実桜は夜空を見上げた。
星が多い夜だった。
工房の中から、祖母の気配がした。遅くまで起きていることは珍しい。実桜は縁側から室内に戻って、台所の方を見た。
祖母が湯を沸かしていた。
「眠れないんですか?」
「たまにある。実桜は?」
「少し考えていました」
「何を」
「綾乃さんのことと、自分のこと」
祖母は湯のみを二つ出した。一つを実桜に渡して、自分も座った。
「似とると思うか」
「綾乃さんと私が?」
「そうや」
「似ていると思います。止まっている場所は違うけど、止まり方が似ている気がします」
「そうやな」
祖母は否定しなかった。
「分かっていましたか」
「来た日から」
実桜は湯のみを持ったまま、少し笑った。笑うつもりはなかったが、自然に出た。
「何も言わなかったですね」
「言う必要がなかった」
「なぜですか」
「仕事しとったら、分かることやから」
祖母は湯を一口飲んだ。
水を触り、布を洗い、藍に手を入れていたら、自分の手が何を覚えていくかが分かってくる。それと同じように、自分の中にあるものが見えてくる。
「続きがあると思いますか、私にも」
「ある」
「なぜ分かるんですか」
「手が動いとるから」
それだけだった。
染まりかけていても、止まっていても、手が動いているうちは続きがある。
実桜は湯を一口飲んだ。
夜が、静かに深くなっていった。
阿波おどり本番まで、あと四日だった。




