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藍の手紙、夏の終わりに――阿波おどりの季節、染めかけの青が動き出す  作者: 明石竜


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第十四章 踊る阿呆の外で

 阿波おどり本番の三日前から、町が変わった。

 変わった、というのは比喩ではなかった。商店街の提灯に全部電球が入って、夕方になると通りが橙色に染まった。駅の周辺に臨時の案内板が立ち、観光客の姿が一気に増えた。土産物屋の前に浴衣姿の人が増えて、どこからか囃子の音が途切れなく聞こえてくるようになった。

 工房も、忙しくなった。

 阿波おどりに合わせた注文が最後の仕上げを迎えていて、祖母の手が足りなかった。実桜と遥人で分担して、染め上がった布の水通し、乾燥、畳みと仕上げを続けた。朝から夕方まで手を動かして、それでもまだ終わらない日が続いた。

 体は疲れたが、不思議と気持ちは穏やかだった。

 手を動かしていると、余計なことを考えなくていい。頭の中が整理される、というより、整理しなくていい状態になる。それが工房の仕事の、実桜にとって一番ありがたいところだった。


 遥人に連れられて連の練習場へ行ったのは、阿波おどり二日前の夕方だった。

「見るだけでいいから。本番前の練習は、本番と別物やから」

 広場には、すでに多くの人が集まっていた。

 揃いの浴衣を着た踊り手が、何列にも並んでいる。鳴り物の人たちが端に集まって、笛と太鼓と鉦の音を合わせていた。指揮をする人間はいないが、音が自然に揃っていく。

 実桜は広場の端に立って、それを見ていた。

 練習が始まった。

 最初の一音が鳴った瞬間、空気が変わった。

 音の厚みが、広場全体に広がる。太鼓の低い音が体に当たる感じがして、笛の高い音が頭の上を通り抜けていく。鉦の金属音が、その間を縫う。

 踊り手たちが動き始めた。

 揃う、というのがどういうことか、実桜は初めて体で分かった。一人ひとりの動きが違うのに、全体として一つの形になる。波のように動いて、また収束する。

 圧倒された。

 言葉にできない、という感覚だった。綺麗とか、すごいとかではなく、もっと直接的に何かが来た。見ているだけなのに、体の中に入ってくるものがあった。

 実桜は動けなかった。

 動けないまま、ただそれを見ていた。


 練習は一時間ほど続いた。

 途中でいくつかの場面を繰り返し、最後に通しで一度やって終わった。終わったあとの広場に、熱が残っていた。踊り手たちが輪になって話していて、笑い声が聞こえた。

 遥人が隣に来た。

「どうやった」

「すごかったです。すごかった、以上の言葉が出てこない」

「見るのと入るのは、全然違うけどな」

「分かります。見ているだけでもこれだけ来るなら、入ったらどうなるか想像できない」

「入ったら分かる」

「入ったことのある人の言葉ですね」

「そりゃそうや」と遥人は笑った。

 実桜は踊り手たちの輪を見ていた。

 あの中に、綾乃はいた。かつて、あの輪の中心で踊っていた。今は外にいる。

 外から見ているのが、綾乃だけじゃないと実桜は思った。自分も外にいる。でも綾乃の外にいる理由と、実桜の外にいる理由は違う。綾乃はあの輪を知っていて、外にいる。実桜はあの輪を知らないまま、外にいる。

 分からないまま外にいるのと、知っていて外にいるのは、別のことだ。


 帰り道、少し遠回りして川沿いを歩いた。

 夜の川面に、町の光が映っていた。提灯の橙色が川の上に揺れている。どこかで囃子の音がしていた。本番前の、最後の練習だろうか。

「踊る阿呆に見る阿呆、って知っとる?」

「聞いたことあります。阿波おどりの、有名な言葉ですよね」

「同じ阿呆なら踊らにゃ損々、って続く。どうせ阿呆なら、見とるよりやった方がいい、という意味や」

「遥人さんは、踊る阿呆ですね」

「そうやな。最初から踊る側やった」

遥人は川を見ながら言った。

「実桜ちゃんは?」

「今は、見る阿呆です」

「今は、か」

「今は、と思っています」

 遥人はそれ以上聞かなかった。

 今は見る阿呆でも、それがずっと続くとは限らない。踊るかどうかを決めるのは実桜自身で、遥人はそれを分かっていた。

「綾乃さんは、ずっと外から見てきた」

「そうやな」

「見ることと、外にいることは、同じじゃないかもしれない。見たいと思って見ているのと、入れなくて外にいるのは、別のことだから」

「綾乃さんは、どっちやと思う?」

「入れなくて、外にいる。でも見たい気持ちは、まだある」

「眉山で足が止まった話か」

「それだけじゃなくて……」

実桜は言葉を選んだ。

「会って話したとき、踊りの話になると声が変わる。遠ざけているのに、遠ざけきれていない感じがあります」

 遥人は少しの間、川を見ていた。

「そやな。俺もそう思う」


 工房に戻ると、祖母は夕食の後片付けをしていた。

 今日は練習を見に行くと言って出たから、帰りが遅くなることは伝えてあった。

「どうやった」

「圧倒されました」

「そうやろな」

 祖母は洗い物を続けながら言った。

「踊ったことはありますか、おばあちゃんは」

「若い頃に一度だけ」

「どうでしたか」

「もう一回やりたいとは思わんかった」

 あっさりした答えだったが、実桜には意外だった。

「なぜですか」

「私は見る方が好きや。人の動きを見ることが好きで、それが染めの仕事に繋がった。動く人間がどう見えるかを考えながら、布を染める」

「踊る人のために、染める人がいる」

「そういうことや」

 実桜は祖母の言葉を胸の中に置いた。

 見ることと、外にいることは、同じじゃない。祖母は踊らないが、見ている。踊る人のために布を染めながら、見ている。

 外にいることも、形がある。

 

      ☆


 次の日の夜、実桜は棚の前に立った。

 和紙の包みと、その横の封筒を見た。

 明日はいよいよ阿波おどり本番だ。綾乃は来るだろうか、と思った。来るかもしれないし、来ないかもしれない。それは綾乃が決めることで、実桜には分からない。

 でも、何かを実桜にできることがあるとしたら、と考えた。

 押し付けることはできない。代わりに踏み出すこともできない。ただ、ここにある、ということを伝えることはできる。

 実桜はスマートフォンを取り出して、綾乃にメッセージを送った。

「明日、工房に来られそうであれば来てください。待っています」

 それだけ送って、画面を閉じた。

 来なくてもいい。でも来られるなら、ここにいる。

 棚の包みは、変わらずそこにあった。

 染まりかけのままで、でも染まりかけていることを続けている。時間が染み込んで、最初の色とは少し変わっているかもしれない。でもそれも色だと、祖母は言っていた。

 実桜は照明を落として、工房を出た。

 外の夜気が、昨日より少し違う熱を持っていた。

 阿波おどりを明日に控えた夜だった。

 町のどこかで、まだ練習の音がしていた。

 笛の音が一本、夜の空気の中に細く伸びていて、それから消えた。

 実桜は空を見上げた。

 星がある。眉山の稜線が、夜の中に黒くやわらかく浮いていた。

 踊る阿呆に見る阿呆。

 同じ阿呆なら、という言葉の続きが、昨日から胸の中に残っていた。

 今は見る側だと答えた。

 けれど、その「今は」が、思っていたより早く終わろうとしているのかもしれなかった。


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