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藍の手紙、夏の終わりに――阿波おどりの季節、染めかけの青が動き出す  作者: 明石竜


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第十五章 夜のはじまり

 綾乃から返事が来たのは、翌朝だった。

「行けます。午後に」という短いメッセージだった。

 実桜はそれを見て、祖母に伝えた。祖母は「そうか」とだけ言って、甕の状態を確かめに行った。特別なことは何もしなかった。それがいつも通りの迎え方だった。

 午前中、工房は忙しかった。

 阿波おどり初日ということで、最後の仕上げが重なっていた。遥人も早くから来ていて、三人で手を動かした。布を畳み、紙に包み、客の引き取りに備えて並べる。手を動かしながら、外の音が変わっていくのが分かった。

 人の声が増えていた。

 観光客が町に入ってきている音だった。駅の方から流れてくる人の気配、土産物屋の前で立ち止まる声、どこかで笑い声が上がる。町全体の体温が上がっていく感じがした。

 昼過ぎに、仕上げが一段落した。


 綾乃が来たのは、午後の二時過ぎだった。

 柚葉もいっしょだった。柚葉は今日、浴衣を着ていた。淡い水色の、細い縞柄の浴衣で、よく似合っていた。工房の引き戸を開けながら「暑い」と言っていた。

「浴衣、素敵です」

「ありがとう。お姉ちゃんに着付けてもらった」

 綾乃は普段着だった。浴衣ではない。それは実桜も気にしなかった。

 工房の中に、五人がまた集まった。

 祖母がお茶を出して、しばらくは阿波おどりの話をした。今年の開始時間のこと、混雑の具合、どこで見るのがいいか。柚葉がよく話して、遥人が補足して、綾乃は聞いていた。

 自然な時間だった。

 綾乃がここに来ることへの緊張が、昨日の訪問で少し解けていた。工房の空気が、綾乃の体に少しずつ馴染んできている感じがあった。


 お茶の後、綾乃が棚の前に立った。

 今日は誰も誘導しなかった。綾乃が自分でそこへ歩いていった。

 和紙の包みの前で、綾乃は少しの間立っていた。

 前回は触れる手前で手を引いた。今日はどうするか、実桜は遠くから見ていた。

 綾乃は包みに手を触れた。

 和紙の表面に、指先が当たった。それだけだったが、今日は手を引かなかった。

「重いですね」

「浴衣の重さですか?」

実桜は尋ねた。

「それだけじゃなくて」

 綾乃は包みに触れたまま、少し目を閉じた。

「四年分の重さがある気がします」

「あると思います」

「受け取る、という気持ちには、まだなれていない」

「分かりました」

「でも、ここにあることを確かめることは、できた」

 それで十分だ、と実桜は思った。

 受け取ることと、ここにあることを確かめることは、別のことだ。綾乃は今日、後者をしに来た。それは前回より一歩、前にある。


 夕方になった。

 工房の外の音が、また変わった。囃子の音が遠くから聞こえてきた。本番の音だった。練習とは違う、本番の音の厚みがあった。

「そろそろ始まりますね」

柚葉の目が輝いていた。

「行くか」

遥人が言った。

 四人で工房を出た。

 路地を抜けて通りに出ると、人が増えていた。浴衣姿の人が多く、観光客と地元の人が混ざって流れていく。提灯の橙色が通りを照らして、その下を人波が動いていた。

 実桜は町の熱の中に入った。

 工房の中にいるのと、外に出るのとでは、空気の密度が違った。人の体温と、囃子の音と、どこかで揚がった食べ物の匂いが混ざって、夏の夜の固有の匂いになっていた。

 柚葉が前を歩いて、遥人がその横に並んだ。実桜と綾乃が後ろに続いた。祖母は「人混みは足に堪えるけん」と言って、工房に残った。


 メインの演舞場までは、少し歩いた。

 近づくにつれ、音が大きくなった。太鼓の低音が腹に響いてくる。笛の音が高く伸びる。人の声が加わって、全部が混ざった。

 演舞場に入ると、すでに観客が鈴なりになっていた。

 連が道を流れていく。揃いの衣装が提灯の光を受けて、橙色と藍色と白が混ざった色の帯になって動いていく。

 実桜は立って見ていた。

 圧倒される、という感覚は練習を見たときより強かった。本番は違う。音の量が違う。熱の量が違う。踊り手の体から出るものが違う。

 見ていると、体の中に何かが来た。

 足が動きそうな感じがした。動かなかったが、動きたいという感覚だった。

 踊る阿呆に見る阿呆。

 今、自分は見る阿呆だった。でも見ながら、体は踊ることを想像していた。


 連が一つ通り過ぎて、次の連が来るまでの間に、実桜は綾乃の方を見た。

 綾乃は黙って見ていた。

 見ている、という言葉では足りない何かがあった。体が少し、音に合わせようとしていた。わずかに、気づかれないほどわずかに、足が動いていた。本人は気づいていないかもしれない。

 体が覚えていることを、忘れようとしても忘れられない。

 実桜は綾乃に声をかけなかった。

 ただ、見ていた。


 しばらくして、少し人が少ない場所に移動した。

 柚葉は「もっと前で見る」と言って、遥人といっしょに人波の中へ入っていった。実桜と綾乃は端の場所に残った。

 次の連が来た。

 その連の衣装を見た瞬間、綾乃が息を吸った。

 藍色の衣装だった。それだけではなく、揃いの流水の柄が入っていた。工房の包みの中の浴衣と、同じとは言えないが、似た印象の柄だった。

 綾乃は動かなかった。

 実桜も動かなかった。

 連が通り過ぎるまで、二人は並んで見ていた。

 連の最後の踊り手が過ぎたとき、綾乃が小さく息を吐いた。

「あの連に、昔いたんですか?」

「違います。でも、柄が似ていて」

「浴衣のことを思いましたか?」

「思いました」

綾乃は前を向いたまま言った。

「あの浴衣を着て、ここで踊るはずだった年のことを」

「その年に踊れなかったことを、後悔していますか?」

 綾乃はすぐに答えなかった。

 少しの間、次の連が来るのを二人で待つような格好になった。

「後悔しているかどうかより、まだ終わっていない気がしています」

「踊ることが?」

「踊ることと、手紙のことと、あの人のことと」

綾乃は言葉を選んだ。

「全部が、まだ途中な気がしていて」

「途中だと思っていいと思います」

「思っていいですか」

「途中であることは、終わったことにするより正直だと思います」

 綾乃は実桜を見た。

「あなたも、途中ですか?」

「そうです」

「どんなふうに」

「東京のことも、ここに来たことも、まだ途中です。これからどうするかも決まっていない。でも工房で手を動かしてきて、それは確かにここにある」

 綾乃は少しの間、実桜の顔を見ていた。

「途中のまま、ここにいる」

「はい」

「途中のまま、ここにいていいんですね」

「いていいと思います。おばあちゃんがそう言っています。言葉では言わないけれど」

 綾乃は前を向いた。

 次の連が来た。今度は赤い衣装の連だった。太鼓が大きく鳴って、笛が続いた。踊り手たちが道を流れていく。


 夜が深くなってきた。

 柚葉と遥人が戻ってきた。柚葉は目が輝いていて、頬が赤かった。熱気の中にいた体の色だった。

「近くで見たら、足の動きが全部分かった。すごかった」

柚葉はそう言ってから綾乃を見て「お姉ちゃん、大丈夫?」と聞いた。

「大丈夫」

「泣いてない?」

「泣いていない」

「泣いてもいいのに」

「柚葉」

綾乃は困ったような、でも柔らかい声だった。

 柚葉は綾乃の横に並んで、腕を軽く掴んだ。姉妹の、長い付き合いのある触れ方だった。

 その夜、綾乃がどこかで泣いたかどうかは分からなかった。でも、実桜が横で見ていた限り、綾乃の体は阿波おどりの音に少し近くなっていた。完全に開いたわけではない。でも、閉じたままではなかった。


 帰り道、四人で並んで歩いた。

 町はまだ熱を持っていた。演舞が終わったあとも、人は散らばりながらそれぞれに夜を続けていた。

 遥人が実桜の隣を歩きながら、小さな声で「綾乃さん、来てよかったな」と言った。

「そう思います」

「実桜ちゃんは、明日はどうする」

「明日も見ます」

「見るだけ?」

 実桜は少しの間、考えた。

「まだ分かりません」

「そっか」

 遥人はそれ以上聞かなかった。

 工房に近い路地まで来たところで、綾乃が「今日はありがとうございました」と言った。みんなに向けて言ったが、最後に実桜を見た。

「来てよかったです」

実桜は言った。

「途中のまま、ですね」

「はい」

「途中のまま、明日も来ます」

 綾乃はそう言って、柚葉といっしょに路地を曲がっていった。

 二人の後ろ姿が遠くなるまで、実桜は見ていた。

 綾乃の歩き方に、今夜は少し違うものがあった。踊りの名残がある立ち姿は変わらないが、体が少し、前を向いていた。

 音が遠くなっても、町はまだ熱を持っていた。

 実桜は工房への路地を歩きながら、体の中にまだ囃子の音が残っているのを感じた。

 足が動きたがっていた。

 まだ動かなかった。でも、動きたいという感覚は本物だった。

 阿波おどりは始まったばかりだった。

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