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藍の手紙、夏の終わりに――阿波おどりの季節、染めかけの青が動き出す  作者: 明石竜


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18/19

第十八章 夏の輪の中へ

 演舞場に着いたとき、最終日の熱はすでに頂点に近かった。

 観客が道の両側にびっしり並んでいた。提灯の橙色が頭上に連なって、その下を連が流れていく。太鼓の音が腹に響いて、笛が夜空に向かって伸びていく。鉦の金属音が、全部の音を一つに縫い合わせていた。

 実桜は演舞場の端に立って、流れを見ていた。

 綾乃と柚葉は少し前に出て見ていた。陸久が連の裏方として動いているのが、向こうの端に見えた。法被姿で、穏やかに全体を見ている。

 遥人が踊っている連が来た。

 見つけるのは難しくなかった。人波の中でも遥人の動きは分かった。笑っているわけではないのに、踊っているときの顔には、昼間の遥人とは別の光があった。体のどこかに、ここが自分の場所だという確信があって、それが動きに出ていた。

 実桜は遥人の踊りを見ながら、自分の足を感じていた。

 足が動きたがっていた。

 昨日も一昨日も感じていたものが、今夜は昨日より強かった。見ているだけでは分からないものがある、と思っていた。踊る阿呆に見る阿呆、という言葉を人生の選択として考えていた。

 連が通り過ぎた。

 次の連が来るまでの間、実桜は少し後ろに下がった。


 演舞場の端に、にわか連の場所があった。

 にわか連とは、誰でも参加できる輪のことだった。連に所属していない観光客や、一般の人が、その場で加わって踊ることができる。衣装がなくてもいい。踊り方が正確でなくてもいい。ただ、輪に入って、音に合わせて動く。

 実桜はその場所を知っていた。遥人から聞いていた。

 にわか連の輪に、何人かが加わっていた。観光客らしい人も、地元の人らしい人も、子どももいた。揃ってはいないが、そこにも熱があった。

 実桜は輪の外に立って、それを見ていた。

 入ってもいい、と思った。

 入ってもいい、という言葉が、怖さより先に来たのは初めてだった。これまでは、入りたいという気持ちと、でも自分には、という引き止める力が同時にあって、後者が勝っていた。

 今夜は違った。

 入ってもいい、という言葉が、体の中から来た。誰かに言われたのではなく、自分から。

 実桜は輪の外で、少し足を動かした。

 音に合わせて、ほんの少しだけ。

 動いた。

 体が、音を覚えていた。見ているだけだったのに、どこかで吸収していたらしい。足が動いて、腕が自然に上がった。

 実桜は輪の中へ、一歩入った。


 輪の中の熱は、外とは違った。

 音が全方向から来た。太鼓が足元から上がってくるような感じがして、笛が頭の周りを回った。鉦の音が体を通り抜けた。

 実桜は踊った。

 正確ではなかった。形が整っていなかった。でも音に合わせて動くことは、体が自然にやっていた。

 隣の人の動きを見ながら、真似をした。完全には真似できなかったが、大きな動きは分かった。手を上げて、足を踏んで、体を傾けて。

 夏の夜の空気が、体に当たった。

 提灯の橙色が、頭の上で揺れていた。

 実桜は踊りながら、目に入るものの鮮明さに驚いた。外から見ていたときより、全部が近かった。音も、光も、隣の人の体温も。見ていたときに感じていたものが、入ったことで全部が倍になった。

 分からないものがある、と思っていたことの意味が、体で分かった。

 これだった。


 どれくらい踊ったか、時間の感覚がなかった。

 一曲分かもしれないし、もっと長かったかもしれない。輪の中に入ったら、時間が溶けた。

 隣に誰かが来た気配があった。

 見ると、綾乃だった。

 綾乃は浴衣を着ていなかった。普段着のままで、輪の外ぎりぎりのところに立っていた。輪の中にはまだ入っていない。でも、足が動いていた。わずかに、小さく、でも確かに、音に合わせていた。

 実桜は踊りながら、綾乃を見た。

 目が合った。

 綾乃は実桜が輪の中にいることに、少し驚いた顔をしていた。でも、実桜の踊りを見た瞬間、その顔が変わった。

 変わった、というより、何かが緩んだ。

 実桜は綾乃に向かって手を伸ばした。

 おいで、という意味ではなかった。ここにいる、という意味だった。輪の中にいる実桜が、外にいる綾乃に向かって、ただ手を伸ばした。

 綾乃は少しの間、その手を見ていた。

 それから、一歩入った。


 綾乃が輪の中に入った瞬間、体が変わった。

 外では慎重だった動きが、輪の中では違った。音を聞いた瞬間に、体が先に動いていた。四年間眠っていたものが、目を覚ましたような動きだった。

 完璧ではなかった。ぎこちない部分もあった。でも体が覚えていることは、正直に出てきた。

 流水のように、という言葉を実桜は思い出した。あの浴衣の柄を選んだ人が言ったと、綾乃が話していた。綾乃の踊り方は、確かにそういう動きだった。滑らかで、途切れなくて、一つの動きが次の動きへ自然に繋がっていく。

 綾乃は踊っていた。

 四年ぶりに、阿波おどりの夜に、輪の中で踊っていた。


 輪の外で、柚葉が見ていた。

 柚葉は泣いていた。泣きながら、笑っていた。手で口を覆って、でも目が笑っていた。

 実桜はそれを見て、自分の目にも熱いものが来た。

 泣くつもりはなかったが、来た。

 踊りながら、目から何かが落ちた。夏の夜の汗と混ざって、どこへ行ったか分からなかった。

 でも、それでよかった。


 向こうの端で、陸久が見ていた。

 法被姿のまま、腕を組んで、輪を見ていた。表情はいつもと変わらなかった。でも実桜には、その穏やかな顔の中に何かがあるのが分かった。

 綾乃が輪に入ったことを、陸久は見ていた。

 陸久は視線を前に戻して、また全体を見始めた。それだけだった。でも一瞬だけ、腕の組み方が変わった。少し力が抜けた、という感じだった。

 阿波おどりを守るために浮かれ役を引き受けない人が、今夜だけ少し緩んだ。

 それを見たのは、実桜だけだったかもしれない。


 遥人の連が、もう一度通りかかった。

 にわか連の輪の横を流れていくとき、遥人が実桜を見つけた。

 踊りながら、笑った。

 何も言わなかったが、笑い方が全部を言っていた。来たやんか、という顔だった。

 実桜は踊りながら、遥人の連が過ぎるのを見ていた。

 揃った浴衣が、提灯の橙色を受けて流れていく。音が大きくなって、また遠くなる。

 踊る阿呆に見る阿呆。

 同じ阿呆なら、という言葉の続きを、実桜は今夜初めて体で知った。

 踊る方が、よかった。

 見ているより、ずっとよかった。怖いとか、できるかとか、そういうことより先に、よかった、という感覚だけがあった。


 どれくらい踊っていたのか、実桜には分からなかった。

 やがて、綾乃が輪の外に出た。

 実桜も続いて出た。二人で、少し離れた場所に立った。息が上がっていた。夏の夜に踊ったあとの、いい疲れ方だった。

「踊りました」

「踊りましたね」 

「怖かったですか」

「最初だけ。入ったら、怖さより体が先でした」

「そうです。そういうものです、踊りは」

 綾乃の顔に、実桜が初めて見る表情があった。

 踊り終えたあとの顔だった。ほかの何でもない、踊ったあとの人の顔だった。疲れていて、でも何かが満ちていて、目の奥に熱が残っていた。

「どうでしたか?」

「まだ、うまく言えないです。でも、来年も踊れる気がします」

 その言葉が、静かに夏の夜に落ちた。

 来年も踊れる気がします。

 四年前に止まった人が、来年のことを言った。


 柚葉が駆け寄ってきた。

「見てた。見てたよ、お姉ちゃん」

「見ていたの」

「ずっと。泣いた」

「泣いてどうするの」

「泣くやろ、こんなん」

 綾乃は柚葉の頭に手を置いた。上から押さえるような、姉の手の乗せ方だった。柚葉は頭を押さえられながら、でも嬉しそうだった。

「柚葉も、踊ったら」

「え、いいの?」

「にわか連なら、今からでも入れる」

 柚葉は実桜を見た。

「入ってよかったです。入ったら分かることがありました」

 柚葉は二秒だけ考えて、輪へ向かった。

 あっという間だった。

 輪の中に入った柚葉の動きは、ためらいがなかった。踊ったことがないはずなのに、体が音を受け入れるのが早かった。踊りたかった時間が長かった分、その願いが体に入っていたのかもしれない。

 綾乃はそれを見ていた。

 笑っていた。

 泣きそうになって、でも笑っていた。止まっていた時間と、先へ進む時間が、綾乃の顔の中で同時にあった。


 夜が深くなった。

 最終日の演舞が終わりに向かっていた。連が一つ、また一つと通り過ぎていく。観客の中に、惜しむ空気が広がっていた。

 終わりが来ることを、全員が知っていた。

 でも終わりが来るから、今夜の熱があった。

 実桜は演舞場の端に立って、最後の連が流れていくのを見ていた。

 綾乃が隣に来た。

「浴衣を受け取って、踊りました」

「はい」

「手紙は、まだ届いていない。でも届けようとします」

「届くといいですね」

「届かなくても、探します。それは決めました」

 実桜は綾乃を見た。

 四年前に止まった人が、今夜動き出した。完全に解決したわけではない。手紙はまだ届いていない。あの人の今も分からない。でも綾乃は、止まったままでいることをやめた。

「途中のものには、続きがある」

「そう言ってくれてよかったです」

「私も、続きがあると思えてきました。自分のことも」

「東京のこと?」

「それも含めて、ここに来てからのことも」

「ここで何かが変わりましたか」

「変わりました。何者かになれなかった、と思っていたけど、それは違ったかもしれない。誰かの形に自分を当てはめようとしていただけで、自分の手が何をできるかは、まだ分かっていなかった」

「手が変わりましたか、ここで」

「変わりました。布を洗って、藍に触れて、色を重ねてきた。今日、浴衣に手を入れた。それは全部、自分の手がやったことです」

 綾乃は頷いた。

「それが続きですね」

「そうだと思います」


 最後の連が通り過ぎた。

 囃子の音が、少しずつ遠くなっていく。

 演舞場に、静けさが戻ってきた。観客が動き始めて、人波がゆっくりと散っていく。

 柚葉が輪から出てきた。息を上げて、でも目が光っていた。

「踊った」

「踊りましたね」

実桜は言った。

「すごかった。体に全部入ってくる感じがした」

「そうです。それが踊りです」

 綾乃が言う。

 姉妹が並んで、同じ目をしていた。踊ったあとの、満ちた目だった。

 遥人が法被を着た陸久といっしょに来た。

 陸久は実桜を見て、「踊ったんか」と言った。

「はい」

「にわか連やけどな」

 遥人が言う。

「それでも踊りました」

 陸久は少しの間、実桜を見た。それから短く、「まあ、ええ」と言った。

 陸久にしては、かなり温かい言い方だった。

 遥人は笑っていた。いつもの笑い方より、少しだけ力が抜けた笑いだった。

「来年は、最初から踊るか」

遥人は尋ねた。

「来年のことはまだ分かりません」

「まあ、そうやな」

「でも、踊ったら分かることがあると、今日分かりました」

「それで十分や」


 五人で、町を歩いた。

 実桜は、自分ももう輪の外の人ではない気がした。

 阿波おどりの終わったあとの夜の町は、静かだった。提灯の光が残って、人が少なくなった道を照らしていた。 

 熱が引いていく途中の空気があった。

 でも熱が引くことは、終わることではなかった。今夜の熱は、それぞれの体の中に入っていった。明日になっても、消えるものではなかった。

 工房の近くの路地で、綾乃が立ち止まった。

「実桜さん、一つだけ聞いてもいいですか」

「はい」

「これからどうするつもりですか。東京に戻りますか?」

 実桜は少しの間、考えた。

 一か月の予定で来た。阿波おどりが終わったら、祖母の体調も落ち着く。東京に戻る理由は、ある。でも、戻る理由と、ここにいる理由が、今夜は同じ重さだった。

「まだ決めていません」

 実桜は少し考えてから、続けた。

「でも、決めていないまま流されている感じは、もうしません。今は、自分でここにいたいと思っています」


 綾乃はその言葉を、すぐには返さなかった。

 川の方から、夜の音がかすかに流れてくる。遠い囃子の断片が、風に薄く混じっていた。

「それなら、十分だと思います」

 綾乃は穏やかに言った。

「決めきることより、自分でそこにいると思えることの方が、ずっと大事なときがあります」

 実桜は少しだけ息をついた。

 その言葉に、背中を押されるというより、足元を確かめてもらったような気がした。

「綾乃さんもそう言いますね。祖母と同じことを」

「京子さんから学んだのかもしれません」

 実桜は笑った。

 綾乃も笑った。

 柚葉が「何の話?」と割り込んできた。遥人が「大人の話」と言って、柚葉が「失礼な」と言った。陸久が何も言わずに歩き続けていた。

 路地の角で、五人が分かれた。

 綾乃と柚葉が一方へ。陸久が別の方へ。遥人が「また明日」と言って、手を上げた。

 実桜は工房への路地を歩いた。

 夜の空気が、阿波おどりの後の静けさを持っていた。提灯がまだいくつか灯っていて、路地を橙色に照らしていた。

 足に、踊ったあとの感覚が残っていた。疲れていたが、いい疲れ方だった。

 工房の引き戸を開けると、藍の匂いがした。

 いつもと同じ匂いだった。でも今夜は、その匂いが少し違う意味を持って鼻に入ってきた。

 ここが、自分の戻る場所になっていた。

 一か月の予定で来た場所が、戻る場所になっていた。

 それがどういう意味を持つか、まだ全部は分からなかった。でも分からないまま、ここにいることが、今夜は怖くなかった。

 実桜は工房の中に入った。

 棚を見た。

 和紙の包みはなかった。封筒もなかった。綾乃が持っていった。

 空になった棚の場所に、夜の光が当たっていた。

 そこには今、何もなかった。

 でも何もないことは、空白ではなかった。

 次に何かが来る場所だと、実桜は思った。

 染まりかけのものが、次の色を待っているように。


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