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藍の手紙、夏の終わりに――阿波おどりの季節、染めかけの青が動き出す  作者: 明石竜


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17/19

第十七章 受け取る人

 最終日の朝は、穏やかに始まった。

 阿波おどりの最後の日だというのに、工房の朝はいつもと変わらなかった。祖母が早くから甕の前にいて、実桜が顔を洗って作業着に着替えて、朝の仕事を始める。

 でも外の空気は違った。

 最終日の熱が、朝からもう町に漂っていた。阿波おどりの終わりを惜しむような、それでいて最後の夜に全部出し切ろうとするような、独特の空気だった。

 遥人が来たのは午前中だった。

 作業着ではなく、浴衣を着ていた。連の浴衣で、紺地に白の柄が入っている。今日の夕方から踊りに出るのだと言った。

「似合いますね」

 実桜は言う。

「ありがとう。今日は午前中だけ手伝って、昼から準備する」

「十分です。来てくれて助かります」

 遥人は甕の確認をしてから、仕上げの残りを手伝った。三人で動くと、午前中のうちに片づいた。

 片づいた工房の中が、少し広く感じられた。


 綾乃が来たのは昼過ぎだった。

 今日は柚葉といっしょではなかった。一人で来た。

 引き戸を開けて入ってきた綾乃の顔は、実桜が初めて会ったときとは違っていた。穏やかさは変わらないが、その奥にあるものが変わっていた。何かを決めてきた人の顔だった。

「来ました」

「来てくれてよかったです」

 祖母が奥から出てきた。綾乃と目が合って、二人は少しの間、向かい合った。

「京子さん、長い間ありがとうございました」

「来たらよかった」

 謝罪と、受け入れの言葉が、それだけの短さで交わされた。四年分のものを、二人はその短さで済ませた。それが二人の間のちょうどいい距離だった。


 綾乃は棚の前に立った。

 今日は最初から、迷いなくそこへ歩いていった。

 和紙の包みの前に立って、両手でそれを持ち上げた。重さを確かめるように、少しの間そのまま持っていた。

「受け取ります」

 穏やかな声だった。

 実桜は動かなかった。遥人も、祖母も、それぞれの場所で静かにしていた。

「四年、置いておいてもらいました。受け取る準備が、今日できたと思います」

「そうか」

「まだ、着られるかどうかは分からないです。でも、ここに置いておくより、私が持っている方がいいと思いました」

「それでええ」

 綾乃は包みを胸に抱いた。

 それから封筒のことを祖母に確かめた。

「封筒も、いっしょに受け取ってもいいですか」

「持っていきなさい」

 実桜が封筒を棚から取り出して、綾乃に渡した。綾乃は受け取って、浴衣の包みといっしょに抱いた。

 渡せなかった言葉が、書いた人の手に戻った。


 お茶を出してから、四人でしばらく話した。

 今日の夜の演舞のこと、阿波おどりが終わったあとの町のこと、工房の今後のこと。綾乃は柔らかい表情で話していた。何かが解けたあとの、体が軽くなった人の表情だった。

 遥人が「手紙のことは、どうするつもりですか?」と尋ねた。

 遠慮のない聞き方だったが、綾乃は嫌がらなかった。

「届けようと思っています。時間がかかるかもしれないけど、探してみます」

「届くといいな」

「届かなくても、探すことはできると思っています。四年前に諦めたことを、もう一度やってみます」

 綾乃の言葉は、揺れていなかった。

 柚葉が「お姉ちゃんは自分が怖いだけ」と言った言葉が、綾乃の中で何かを動かしたのだと実桜は思った。正確に言われたことが、逃げられない場所に届いた。


 昼過ぎになって、遥人が「そろそろ」と立ち上がった。

 今日の夕方から踊りに出る準備がある。浴衣を着替えて、連の集合場所に行かなければならない。

「頑張ってください」

実桜は応援の言葉を贈った。

「見に来い。今日の最終日は、一番熱いから」

「行きます」

 遥人が帰ってから、綾乃も立ち上がりかけた。

 そのとき、祖母が呼んだ。

「綾乃さん」

「はい」

「浴衣、最後に仕上げをさせてもらえんか」

 綾乃は少し驚いた顔をした。

「仕上げ、というのは」

「染めかけやったから。本当は、もう少し色を入れるはずやった。今日、実桜に手を入れさせたい」

 実桜は祖母を見た。

 私に、と聞き返しそうになって、止まった。

「実桜に」と綾乃が繰り返した。

「この子も、ここで色を重ねてきた。最後の仕上げは、この子がやればええ」

 綾乃は実桜を見た。

「いいですか」

「できるかどうか分かりませんが、やらせてください」


 工房の奥で、仕上げの作業が始まった。

 祖母が指示を出して、実桜が手を動かした。

 浴衣を和紙から出すと、染まりかけの藍が現れた。写真で見た、棚の端から見えていた、あの色だった。深いが、まだ余白がある。染まりきっていない部分が、布の中に残っていた。

 甕の藍に、浴衣の端を入れた。

 色が入っていく。

 白い余白に、青が重なる。均一ではない、自然な重なり方で、藍が布に染み込んでいく。

 実桜は息を詰めて、布を見ていた。

 これが仕事だと思った。手を動かして、色を重ねて、途中のものを少し先へ進める。それだけのことが、今日は全部の意味を持っていた。

 時間をかけて、布を引き上げた。

 染まった部分と、まだ染まりきっていない部分が、境界のない形で続いていた。完全に染まりきっているわけではなかった。でも、最初よりずっと深い色になっていた。

「ええ色や」

祖母は言った。

 綾乃が布を見て、小さく息を吐いた。

「きれい」

「もう少し入れるか」

祖母が実桜に尋ねた。

 実桜は布を見た。染まりきっていない余白を見た。

「このままでいいと思います」

「なぜ」

「全部染まりきる必要はないと思うので。余白があってもいい」

 祖母は少しの間、実桜を見た。

 それから「そうやな」と言った。

 綾乃は布を受け取った。濡れた布を、両手で丁寧に持った。

「ありがとうございます」

綾乃は実桜に向かって言った。

「私は手を動かしただけです」

「それが大事なことでした」


 夕方近くになって、綾乃が浴衣の包みと封筒を持って帰ろうとした。

 そのとき柚葉が来た。

 引き戸を開けて「お姉ちゃんいた」と言った。待ち合わせをしていなかったが、綾乃が工房に来ると思っていたのかもしれない。

 柚葉の視線は、すぐに綾乃の腕の中の包みに落ちた。

「浴衣、受け取ったの?」

「うん」

 綾乃が答えた。

 柚葉の視線が、綾乃の腕の中の包みに落ちる。

 和紙にくるまれたままの浴衣を見て、柚葉は小さく息を吐いた。

「そっか」

 それだけ言って、靴を脱いで上がってくる。

 足音は軽いのに、工房の空気だけが少し重くなった気がした。

「見てもいい?」

「ええよ」

 綾乃は包みを作業台の上に置いた。柚葉はすぐには触れなかった。指先を伸ばしかけて、ほんの少し引っ込める。それから、やっと和紙の端に触れた。

 壊れものを扱うみたいな手つきだった。

「……ほんまに、ここにあったんやな」

 柚葉の声は小さかった。

 実桜はその言い方に、ずっと知っていた場所へ、ようやく辿り着いた人の響きを聞いた。

「京子さんが置いといてくれたから」

 綾乃が穏やかに言う。

「そっか」

 また同じ言葉を言って、柚葉は口を閉じた。

 その沈黙が、かえって長かった。

 祖母は少し離れたところで、何も言わずに糸を片づけていた。

 実桜も黙ったまま、二人を見ていた。

 最初に崩したのは、柚葉の方だった。

「……もっと早く来ればよかったのに」

 綾乃の肩が、ごくわずかに止まった。

「柚葉」

 呼ぶ声は穏やかだった。たしなめるというより、先を知っているみたいな響きだった。

「だって、そうやろ」

 柚葉は顔を上げた。目が少し赤い。

「四年もやで。四年もここに置いたままにして、自分だけ平気みたいな顔して」

「平気な顔なんかしてない」

「してた」

 柚葉はすぐに言った。

「少なくとも、うちにはそう見えた。仕事して、ごはん食べて、普通にして。踊りの話だけせんようにして。見んようにして。そうやって、ずっと置いたままやった」

 綾乃は何も言わなかった。

 その沈黙に押されるみたいに、柚葉の声がもう一段だけ強くなる。

「怖かったんやろ」

「柚葉さん」

 実桜は思わず口を挟んだ。

 けれど柚葉は止まらなかった。

「浴衣を見るのも、踊ること思い出すのも、全部怖かったんやろ。でも、怖いからって置いたままにされた方は、見てる方もしんどいんよ」

 柚葉の喉がひとつ鳴った。

「お姉ちゃんだけが止まっとるみたいで。ずっと、そこにおるみたいで」

工房がしんと静まった。

 外では、遠くで囃子の練習音が流れていた。笛の高い音が、今は妙に遠く感じられる。

 綾乃は包みの上に置いた手を、そのまま動かさなかった。

 その横顔を見ながら、実桜は止める言葉を探したが、うまく見つからなかった。止めたいわけではないのかもしれない、とも思った。これはたぶん、ずっと言えなかった言葉なのだ。

「……簡単に言わんといて」

 綾乃のその声に、実桜ははっとした。

 この人がこんなふうに声を強くするのを、初めて聞いた気がした。

「逃げたかったわけやない」

 綾乃は包みを見たまま、言葉を続けた。

「受け取ったら、着ることになると思った。着たら、あの年のことが全部、そこに戻ってくる気がした」

「でも」

「でもじゃない」

 今度は、はっきりと柚葉を見た。

 綾乃の目は潤んでいなかった。ただ、長いあいだ押し込めていたものが、ようやく表に出てきた顔をしていた。

「できんかったんよ」

 短い言葉だった。

「一人で着て、一人で踊ることが、あのときの私にはできんかった。見ることも、持つことも、受け取ることも。何かひとつ触ったら、全部崩れる気がして」

 綾乃はそこで息を継いだ。

「怖かっただけやと、そう言われても仕方ない。でも、できんかったことまで、責められたら、私はどうしたらよかったん」

 柚葉が息を呑む音がした。

 言い返そうとしたのかもしれない。

 でも、できなかった。

 代わりに、唇をきゅっと結ぶ。

 目の端が、みるみるうちに赤くなる。

「……責めたいわけやない」

 柚葉の声は、さっきまでよりずっと小さかった。

「ただ、見てるの嫌やった。お姉ちゃんが、何でもないみたいにしてるの」

 そこで言葉が詰まる。

「ほんまは、ずっとしんどそうやったのに」

 綾乃の表情が、少しだけ緩んだ。

 傷ついた顔ではなく、ようやく届いたものを受け取るときの顔だった。

「うん」

 綾乃は言った。

「しんどかった」

 それだけで、柚葉の目から涙が落ちた。

 ぼろぼろ泣くわけではない。こらえきれずに、ひと粒、ふた粒と落ちるだけだった。

 柚葉は慌てたみたいに手の甲で拭って、でもすぐにまたあふれた。

「ごめん」

 柚葉は俯いたまま言った。

「言いすぎた」

「ううん」

「でも、ずっと思っとった」

「知っとる」

 綾乃が、少しだけ笑った。

 泣きそうな顔のままの、穏やかな笑いだった。

「柚葉がそう思うの、当たり前やと思う」

「……当たり前ちゃうし」

「当たり前やよ」

 綾乃はそう言って、包みから片手を離した。

 迷うみたいに一瞬止まってから、柚葉の頭にそっと触れる。

「待たせて、ごめん」

 柚葉は返事をしなかった。

 代わりに、肩を小さく震わせた。

 実桜はそこで、ようやく息を吐いた。

 誰かが泣く場面なのに、不思議と空気は壊れていなかった。むしろ、ずっと張っていた薄い膜が、ようやく破れたような感じがした。

 祖母が、作業台の方へ近づいてきた。

「お茶、淹れようか」

 いつもの声で、いつものように言う。

 その何でもなさに、実桜は少し救われた。

「うちがやる」

 柚葉が、鼻をすすりながら言った。

「顔、ひどいけど」

「ひどいな」

 綾乃が言うと、柚葉は「うるさい」とだけ返した。

 泣いたあとの声は少し掠れていたが、そのやり取りには、前よりちゃんと姉妹の温度が戻っていた。

 柚葉が台所の方へ行ったあと、綾乃は包みを見下ろしたまま、ぽつりと言った。

「怒られると思っとった」

「怒ってましたよ」

 実桜が言うと、綾乃は少しだけ笑った。

「でも、怒ってくれてよかった」

 その言葉は、誰に向けたものか分からないまま、藍の匂いの中に静かに沈んでいった。


 しばらく、誰も何も言わなかった。

 工房の外では、遠くで囃子の音が続いていた。さっきまでと同じはずの音なのに、少しだけ近く聞こえた。

 柚葉が淹れた湯のみから、細く湯気が立っていた。

 綾乃はそれを受け取って、一口だけ飲んだ。

「……でも、よかった」

 柚葉は涙の跡の残る顔で、それでも今度はちゃんと笑おうとしていた。


「今夜、いっしょに見に行こう」

 実桜は誘う。

「行きましょう」

「浴衣、着る?」

 柚葉の問いに、綾乃は少し間を置いた。

「今日は、まだ着ない」

「いつか着る?」

「いつか」

「いつかって、いつ」

「柚葉」

「ごめん。でも聞きたかった」

 綾乃は柚葉の顔を見て、実桜を見た。

「いつか、というのは遠い話じゃないかもしれない。今日より先に、なれる気がしています」

 柚葉は「うん」と言って、頷いた。


 三人で工房を出た。

 夕方の光が傾いていた。あと少しで、最終日の夜が始まる。

 遥人はもう連の集合場所に向かっているはずだった。今頃、揃いの浴衣で仲間と並んでいる。

 演舞場に向かいながら、実桜は自分の足の感覚を確かめていた。

 昨日も一昨日も初日も、足が動きたがっていた。見ているだけでは分からないものがあると思っていた。踊る阿呆と見る阿呆の言葉を、人生の選択として考えていた。

 綾乃が浴衣を受け取った。

 封筒を手に持って帰っていく。届けようと思っている。

 実桜は工房で色を重ねた。染まりかけのものに、少し先を加えた。自分の意志で、色を入れた。

 それが今日、ここまでに来たことだった。

 演舞場が見えてきた。

 音が大きくなる。太鼓の低音が体に当たる。笛が高く伸びる。最終日の熱が、空気の中に満ちていた。

 実桜は足を止めた。

 綾乃と柚葉が先へ歩いていく。実桜は一人、少しの間そこに立っていた。

 足が動きたがっていた。

 今夜、その足をどこへ向けるか。

 答えが、体の中で穏やかに決まっていくのが分かった。


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