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藍の手紙、夏の終わりに――阿波おどりの季節、染めかけの青が動き出す  作者: 明石竜


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第十六章 渦のように戻る

阿波おどり二日目は、町の熱に押されるみたいに過ぎていった。

実桜は昼のあいだ工房を手伝い、夜はまた演舞を見に出た。

初日より少し落ち着いた人の流れの中で、囃子の音だけはむしろ近く聞こえた。

見るたびに、足の裏のどこかがそわそわした。

それでも、まだ輪の外にいた。


 阿波おどり三日目の午後、綾乃から連絡が来た。

「少し話せますか。今夜、演舞が終わったあと」

 実桜はすぐに「はい」と返した。


 待ち合わせ場所は、初めて会った喫茶店の前だった。夜の営業は終わっているが、場所として覚えやすいからという理由だった。

 演舞が終わった頃の商店街は、熱が引きかけた夜の空気になっていた。観光客の多くはホテルへ戻り、地元の人たちが残った通りをゆったりと歩いていた。提灯の光が、人の少なくなった道を照らしていた。

 綾乃は先に来ていた。

 今日は少し違う顔をしていた。何かを決めたあとの顔、というより、決める前の夜の顔だった。覚悟と迷いが混在している。

「話したいことがある、と思っていました」

「分かりましたか」

「顔に出ていたので」

 綾乃は少し笑った。

「今日の演舞を見ながら、ずっと考えていたことがあって」

「聞きます」


 綾乃が話し始めたのは、四年前のことだった。その年の夏、綾乃は連の中心で踊っていた。阿波おどりの季節が近づいていて、浴衣の仕上がりを待っていた。工房に注文した浴衣を着て、その人と並んで踊ることを、毎年の楽しみにしていた。

「その人、というのは」

実桜は言いかけて、止めた。

「言います。今日は、言おうと思っています。同じ連に、二年いっしょにいた人です。踊りがうまくて、阿波おどりの季節になると別人みたいに生き生きした。連の中でも目立っていた」

「綾乃さんと親しかったんですね」

「大切な人でした」

 綾乃の言い方は穏やかだった。それ以上の言葉を足さなかったが、足す必要がなかった。

「浴衣の柄をいっしょに選んでくれた人ですか」

「そうです。流水の柄を選んだのは、その人です。水の流れるような踊り方が好きだと言って、自分で選んだ」

 実桜は工房の棚を思い出した。和紙の包みの中の浴衣。二人で選んだ柄が、四年間そこに眠っていた。

「その人が、阿波おどりの直前に徳島を離れたんですか」

「はい。体の具合が悪くなって、地元に戻ることになりました。急なことで、阿波おどりの一週間前でした」

「急に」

「本人も、ギリギリまで迷っていたと思います。踊りたかったはずだから。でも、戻らなければいけない事情があった」

 綾乃は少し間を置いた。

「最後に会ったとき、もう一度来ると言っていました。来年の阿波おどりには必ず戻ると。私もそれを信じていた」

「でも」

「その年の冬に、連絡が途絶えました」

 実桜は何も言わなかった。

「病状が、思ったより進んでいたみたいです。戻りたかったけど、戻れなかった。それ以上の詳しいことは、今でも分かりません。共通の知り合いから、もう踊れない体になったと聞いただけで」

 亡くなったわけではない、と綾乃は最初に言っていた。でもいなくなった、とも言っていた。どちらも正確だった。生きているが、もう踊ることはできない。もう阿波おどりの季節に並んで踊ることはできない。

「手紙を書いたのは、いなくなる前ですか?」

「いなくなったあとです」

「いなくなったあとに」

「連絡が途絶えて、しばらくして書きました。届けるつもりで書いた。でも、連絡先が分からなくなっていて」

「届けられなかった」

「届けようとしたんですが、共通の知り合いも詳しいことを知らなくて。手紙を持ったまま、阿波おどりの季節が来て、浴衣を受け取るはずだった日が来て」

 綾乃の声がわずかに揺れた。

「受け取れなかった」

「浴衣を受け取ったら、踊りに行くことになる。一人で」

「一人で着て、一人で踊ることが、できなかった」

 実桜はようやく分かった気がした。

 浴衣だけが置き去りだったのではない。

 綾乃にとっては、あの夏そのものが、まだ受け取りきれていなかったのだ。

 それは正確な言葉だと実桜は思った。できなかった、は本当のことだった。意志の問題ではなく、あの年の綾乃にはできなかった。

「工房に浴衣と手紙を置いていったのは」

「捨てることも、持ち続けることも、できなかったから。京子さんなら、何も聞かずに置いておいてくれると思って」

「祖母は、何も聞かなかった」

「何も」

綾乃は目を伏せた。

「それが、一番助かりました。理由を聞かれたら、話せなかったと思うから」


 通りの向こうで、誰かが笑い声を上げた。

 夜の町に、阿波おどりの余熱が残っていた。

 実桜は綾乃の話を聞きながら、自分の胸の中で何かが動くのを感じていた。悲しみというより、届かなかったものの重さだった。

 手紙は書かれた。でも届かなかった。浴衣は染められかけた。でも着られなかった。その人は来ると言った。でも来られなかった。

 全部が、途中で止まった。

「その人は、今も」

実桜は聞きかけた。

「生きていると思います。でも連絡の取り方が分からない。探そうとしたこともありましたが、踏み込むべきかどうかが分からなくて」

「手紙は、今でも届けたいと思いますか?」

 綾乃は少しの間、黙っていた。

「届けたい、というより。書いたことを、ちゃんとしたいという気持ちがあります。渡せなかったことを、そのままにしておきたくない」

「そのままにしておきたくない」

「四年間、そのままにしてきた。でも、途中のままにしておくことが、その人への誠実さかどうか、最近分からなくなってきました」

 実桜は綾乃を見た。

「変わってきましたね」

「そうかもしれません。工房に来て、あなたと話して、柚葉と泣いて、昨日と今日の演舞を見て」

綾乃は少し笑った。

「変わってきた、というより、止まっていたものが動いてきた感じがします」

「渦のように、ですね」

「どういう意味ですか」

「止まった水も、何かが動き出すと渦になる。一つが動くと、周りも引っ張られて動く。そういう感じがします」

 綾乃は「そうかもしれない」と言って、通りの向こうを見た。


 綾乃が話し終えて、しばらく二人で黙っていた。

 その沈黙は重くなかった。話すべきことを話したあとの、穏やかな空気だった。

「実桜さんは、今夜の演舞を見てどう思いましたか?」

「足が動きそうになりました」

「踊りたいと思いましたか?」

「思いました。見るだけでは分からないものがあると、昨日から感じています」

「そうです」

綾乃の声に力があった。

「踊らないと分からないものがある。私はそれを知っています。だから余計に、やめてから何かが欠けていた」

「綾乃さんは、また踊りたいと思いますか?」

 綾乃は答えるまでに時間をかけた。

「怖い、という気持ちは本当にある。でも」

綾乃は自分の手を見た。

「怖いことと、したいことは、別のことかもしれない」

「柚葉が言っていた言葉ですね」

「お姉ちゃんは自分が怖いだけ、と言われた。あの言葉は正確でした。怖いから止まっていた。でも止まっていることと、怖さは、解決しない」

「向き合わないと解決しない」

「そう思い始めています」


 綾乃が帰り際、立ち上がってから言った。

「明日、最終日ですね」

「はい」

「浴衣のことを、決めようと思っています。受け取るかどうかではなくて、どうするかを」

「急がなくていいです」

「急いでいません。でも、明日が来る前に、決めたいと思っています」

 実桜は頷いた。

「工房にいます」

「来ます」

綾乃はそれから少し間を置いて、伝えた。

「あの浴衣を染めてくれたのは京子さんです。でも、あの浴衣に関わってくれたのは、あなたでもあります」

「私は、ただ気になっていただけです」

「それが一番大事なことだったと思います。気にしてくれる人がいなければ、私はずっと来なかったかもしれないから」

 綾乃は軽く頭を下げて、通りを歩いていった。

 その後ろ姿に、また踊りの名残があった。でも今夜は、それが欠けているものの名残ではなく、戻ろうとしているものの予兆に見えた。


 工房に戻ると、祖母はまだ起きていた。

 実桜が綾乃と話したことを伝えると、祖母は最後まで聞いて「そうか」と言った。

「明日、来るそうです」

「分かった」

「浴衣のことを決めると言っていました」

「そうか」

 祖母はそれ以上聞かなかった。明日に備えることも、特別なことも何もしなかった。ただ、いつもと同じように台所の片づけをして、寝る準備をした。

 実桜は自分の部屋に入りながら、綾乃の話を繰り返し思った。

 届かなかった手紙。着られなかった浴衣。来られなかった人。

 全部が途中で止まった年があった。でも止まったまま四年が経って、少しずつ動き始めている。

 実桜は自分のことを考えた。

 東京でのことも、途中だった。向いていたのか、向いていなかったのか、まだ分からない。でもここで手を動かしてきた。布を洗い、藍に触れ、染まりかけのものを竿に干してきた。

 それも途中だった。でも途中が、少しずつ続きになってきていた。

 明日が最終日だった。

 実桜は照明を落として、目を閉じた。

 遠くで、まだ音がしていた。

 阿波おどりの余熱が、夜の中に続いていた。体の中にも、その音が残っていた。足が動きたがっていた。

 明日、その足をどこへ向けるか。

 まだ決まっていなかった。でも決まっていないことが、今夜は怖くなかった。

 途中のまま、明日が来る。

 それでいいと思った。

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