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藍の手紙、夏の終わりに――阿波おどりの季節、染めかけの青が動き出す  作者: 明石竜


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最終章 夏の終わりに、残る色

 阿波おどりが終わった翌朝、町は嘘みたいに、静かだった。

 昨夜まであれだけの熱と音があったのに、朝の路地には誰もいなかった。提灯がまだ吊るされていたが、電球は消えていた。アーケードに陽が差し込んで、阿波おどりの残骸と静けさが混在していた。

 工房の朝は、いつもと変わらなかった。

 祖母が甕の前にいた。実桜が顔を洗って作業着に着替えて、仕事を始めた。

 それだけだった。

 でも工房の空気が、少し違った。棚の和紙の包みがなくなった場所に、朝の光が当たっていた。四年間そこにあったものがなくなった場所は、空白というより、次を待っている場所に見えた。

「よく眠れたか」と祖母が尋ねた。

「よく眠れました」と実桜は答えた。

「そうか」

 それだけで、また二人とも手を動かした。


 午前中、遥人が来た。

 昨夜踊ったあとだから疲れているかと思ったが、いつもと変わらない顔をしていた。

「踊ったあとは疲れないんですか?」

「疲れとる。でも、ええ疲れ方やから」

 実桜は頷いた。自分も同じだった。

 遥人は甕の確認をして、それから棚を見た。

「なくなっとる」

「綾乃さんが持っていきました」

「そうか」

遥人は棚の空いた場所を見た。

「ええな」

「ええな、というのは」

「その場所に次のものが来る、という感じがするから」

 実桜も同じことを昨夜思っていた、と言うと、遥人は「そうやろ」と笑った。


 昼前に、佳乃が工房を訪ねてきた。

 阿波おどりの後の挨拶、ということだったが、綾乃のことを聞いていたらしかった。柚葉から連絡が行ったのかもしれない。

「綾乃ちゃんが踊ったって、本当?」

「にわか連ですが」

 実桜は伝える。

「にわか連でも踊りは踊りや」

佳乃はそう言って、眼鏡の奥で目を細めた。

「何年ぶりやろ。よかったわ」

「佳乃さんも、ずっと気にしていたんですね」

「そらそうよ。あんなに踊れる子が、ぴたっとやめたんやから」

 佳乃はお茶を一口飲みながら、実桜を見た。

「あなたが来てよかった」

「私は、気になって動いただけです」

「気になって動ける人間が、一番大事や。町にはそういう人が必要なんよ」

 実桜はその言葉を、胸の中で少し転がした。

 気になって動ける人。東京では、何かに気になって動くたびに、期待に応えようとしすぎて疲れた。でもここでは、ただ気になったから動いた。それだけだった。

 それだけでよかったのかもしれない。


 午後、真鍋からメッセージが来た。

「最近どう? そっちの仕事、落ち着いた?」

 実桜は少しの間、どう返すか考えた。

「落ち着いてきた。阿波おどりが終わったところ」と返すと、すぐに「阿波おどり、見られたの? いいな」という返事が来た。

「見た、というより踊りました」と返したら、「え、嘘」という返事が来て、それから「なんかすごく意外。でも、なんかよかった気がする」という一文が続いた。

 意外、という言葉に実桜は少し笑った。

 自分でも意外だった。でも真鍋が「よかった気がする」と言ってくれたことが、東京にいた頃の自分を少し肯定してくれる感じがした。

「東京、戻ってくる予定は?」

真鍋の問いかけに、実桜はまた少しの間、考えて、

「まだ決めていない」と返した。

「そっか。ゆっくりしてね」

 それだけだった。それ以上はいらなかった。


 夕方、綾乃から連絡が来た。

「今日、その人の連絡先を調べ始めました。共通の知り合いに改めて聞いてみたら、今は別の県にいると分かりました。手紙を届けられるかもしれません」

 実桜は画面を見て、少しの間そのままでいた。

「よかったです」と返した。

「まだ届いていないけど、届けられる可能性が出てきました」という返事が来た。

「それで十分です。届けようとすることが大事だと思います」

「そうですね。実桜さんが言っていた通り、途中のものには続きがあった」

 実桜はその言葉を見て、工房の棚を見た。

 包みのなくなった場所が、夕方の光に照らされていた。

 途中のものには続きがある。

 それは綾乃の浴衣のことだけではなかった。実桜自身のことでもあった。東京での挫折も、ここへ来たことも、工房で手を動かしてきたことも、全部が途中だった。でも途中であることは、終わりではなかった。


 夕食のあと、実桜は祖母に話があると言った。

 縁側に二人で出て、夜の空気の中に並んで座った。

 阿波おどりの終わった夜の徳島は、静かだった。虫の声だけが聞こえて、囃子の音はもうなかった。

「おばあちゃんに、相談があります」

「なんや」

「もう少し、ここにいてもいいですか?」

 祖母は実桜を見なかった。夜の庭を見たまま、少しの間黙っていた。

 ここに残りたいのは、逃げたいからではなかった。

 東京へ戻ることを考えないわけではない。あちらに置いてきたものが消えたわけでも、うまくいかなかった時間がなかったことになるわけでもない。

 それでも今は、別の場所へ急いで答えを出すより、ここで手を動かしていたかった。

 藍に触れ、布に触れ、少しずつでも昨日よりましにできることを増やしていく。その時間の中でなら、自分はもう一度、自分の手を信じ直せる気がした。

 まだ上手く言葉にはできない。

 でも、自分の手で続けてみたいものが、ここにできたのだと思った。

「一か月の話やったな」

「はい。でも、もう少しいたいと思っています」

「工房の仕事は、続けるか」

「続けたいです。もっと覚えたいことがあります」

「東京は」

「東京のことは、まだ決めていません。でも、東京へ戻ることを急ぐより、ここで続けることの方が、今は大事だと思っています」

 祖母はまた少し黙った。

 それから「まあ、好きにしなさい」と言った。

 怒っていない。喜んでいる様子もない。ただ、受け入れた、という言い方だった。

「ありがとうございます」

「礼を言うな。居場所があるから、いればいい。それだけのことや」

 居場所があるから、いればいい。

 その言葉が、胸の奥まで入ってきた。

 実桜は一か月前、ここへ来たとき「帰ってきてしまった」と思っていた。安心より先に、その言葉が胸に沈んだ。

 あのとき胸に沈んだ言葉を、今は自分の手で少しだけ言い換えられる気がした。

 今夜は違った。 

 帰ってきてよかった、という言葉が、自然に来た。


 翌朝、工房に新しい注文が入った。

 電話で入った注文で、祖母が対応していた。実桜は帳場の横で聞いていた。

 浴衣を一着、染めてほしいという依頼だった。

 祖母が受注帳を開いて、名前と内容を書き込んだ。

 実桜はその手元を見ていた。

 新しい名前が、帳に加わった。

 新しい浴衣が、ここから始まる。白い布に、藍が入っていく。誰かのための色が、ここで染まっていく。

「実桜」

祖母が呼んだ。

「はい」

「今日から、この注文をいっしょにやる。まず布の準備から」

「分かりました」

 実桜は作業台へ向かった。

 白い布が畳まれて、作業台の上にあった。

 これから藍に入る布だった。まだ何も染まっていない。でも、これから染まっていく。

 実桜は布に手を触れた。

 さらりとした感触。重さよりも薄さが手に伝わる。

 この布が、これからどんな色になるか、今はまだ分からない。でも手を動かせば、色は入っていく。甕の藍は今日も生きていて、待っている。

 工房の窓から、夏の終わりの光が差し込んでいた。

 阿波おどりの終わったあとの、少し落ち着いた光だった。でも消えてはいない。まだ夏の光だった。

 実桜は布を持って、水に浸けた。

 下準備から始まる。染めの前の、染めていない時間から。

 それが仕事の始まりだった。


 数日後、綾乃から短いメッセージが来た。

「手紙を送りました。届くかどうかはまだ分かりません。でも、送ることができました」

 実桜は工房の仕事の手を止めて、それを読んだ。

「よかったです」と返した。

 届くかどうかは分からない。でも送ることができた。渡せなかった言葉が、四年越しに動いた。

 それで十分だと実桜は思った。届くかどうかより、動いたことが大事だった。

 工房の外で、蝉の声がしていた。

 まだ夏だった。

 でも、蝉の声に少し違う響きが混じり始めていた。夏の終わりが来ていることを、虫だけが知っている。


 その日の夕方、柚葉が来た。

 いつものように引き戸を開けて、いつものように「お邪魔しまーす」と入ってきた。

「連に入ることにしました」

柚葉は開口一番に言った。

「そうですか」

「来年の阿波おどりに向けて、秋から練習します。遥人さんの連じゃなくて、別の連やけど」

「お姉さんは?」

「賛成してくれました。応援するって言ってくれた」

柚葉は少し照れたように笑った。

「よかったです」

「お姉ちゃんも、また踊るかもしれない。連にではないけど、にわか連からまた始めるって言ってました。来年も」

 来年も、という言葉が、実桜の胸に静かに落ちた。

 止まっていた綾乃が、来年のことを言っている。

 来年の阿波おどりに向けて、柚葉が練習を始める。遥人はまた踊る。陸久はまた裏方として支える。佳乃は写真を撮る。

 阿波おどりは来年もある。町は続く。藍は染まり続ける。

「実桜さんは、来年もここにいますか?」

 柚葉が尋ねた。

 実桜は少しの間、考えた。

「まだ分かりません。でも、いたいとは思っています」

「来てください。来年もいっしょに踊りたいです」

「踊れるか分かりませんが」

「絶対踊れる。今年踊ったんやから」

 柚葉は、そう言って笑った。

 屈託のない、まっすぐな笑い方だった。来年の方を、もう見ている顔だった。


 まだ、ここに残ると決めたわけではない。

 東京へ戻らないと決めたわけでもない。

 ただ、明日の朝も甕の様子を見たいと思った。

 その気持ちだけは、一か月前の自分にはなかったものだった。


            ☆


 夜、実桜は縁側に出た。

 星が見えた。

 徳島の夜の星は、いつも多かった。東京では忘れていた星の数が、ここには当たり前にある。

 一か月前、ここへ来た夜にも星を見た。帰ってきてしまった、と思いながら見ていた。

 今夜は違った。

 何者かになれなかった、と思っていた。東京で期待に応えられなかった、自分には向いていなかった、誰かの形にしか自分を置けなかった。そう思って、ここへ来た。

 でも一か月の間に、手が動いた。

 布を洗い、藍に触れ、色を重ねた。綾乃の浴衣に手を入れた。染まりかけのものの続きに、少しだけ関わった。

 それは誰かの期待のためではなかった。ただ気になったから、ただ手を動かしたかったから、やった。

 その手が、少しずつ何かを覚えてきた。

 何者かになれなかったのではなく、自分の手が何をできるかを、まだ知らなかっただけだったのかもしれない。

 星を見ながら、実桜はそう思った。

 答えではなかった。でも、答えの手前にある感触だった。


 翌朝、工房に出ると、祖母がいつもの場所にいた。

 甕の前に立って、藍の状態を確かめていた。細い背筋がまっすぐで、割烹着に藍の匂いが染みていて、白髪がきちんと結われていた。何十年も変わらない姿だった。

 実桜は作業台に向かいながら、祖母の背中を見た。

 この人は、言葉で励まさない。仕事で人を立たせる。ずっとそうしてきた人だった。

「おばあちゃん」

「なんや」

「藍は、いつまで染まりますか?」

 祖母は振り返らずに答えた。

「甕が生きているかぎり」

「甕が死んだら?」

「また建てる」

「また最初から?」

「また最初から。でも、前の甕の経験が手に残っとるから、同じ最初ではない」

 実桜はその言葉を、手の中で転がした。

 また最初から。でも、同じ最初ではない。

 それは、やり直しではなく、続きだった。

 自分の手に、一か月の経験が残っていた。布の感触、水の重さ、藍の色の変わり方、染まっていくときの時間の感覚。全部が手に入っていた。

 東京に戻っても、それは消えない。どこへ行っても、この手は同じ手だった。

「藍は、残るんですね」

「残る。色は逃げんから」 

 色は逃げない。

 染み込んだものは、消えない。

 工房の窓から、朝の光が差し込んだ。

 甕の表面に、小さな泡が浮いていた。生きている証拠だった。今日も発酵が続いている。

 実桜は白い布を手に取った。

 これから染める布だった。まだ何も入っていない。でも、これから入っていく。

 手を動かせば、色が来る。

 藍はまだ、これから染まっていく。

(了)

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