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第八節 ― 選ばれなかった者

「……道から外れました」


 サリカの言葉を、エリスはすぐには理解できなかった。


 西へ伸びていた霧灯が、一つずつ消えていく。


 最初は三つあった。次に二つ。最後の一つが霧の奥で弱々しく瞬き、その光まで途絶えた。


 もう、何もない。


 東鈴路では、ついさっき四十二人が帰ってきたばかりだった。泣いていた母親も、足を引きずっていた老人も、担架で運ばれた負傷者も、全員が南広場にいる。


 それを見て、エリス自身が言った。


 助かった、と。


 なのに。


「……分かっていてやったんですか」


 声が、自分のものではないように聞こえた。


 ユリウスが振り返る。


「はい」


 ためらいのない返事だった。


 胸の奥で、何かが弾けた。


「ルオがいるって分かってたんですよね!」


 中央記録院の者たちがこちらを見る。


 マティスも顔を上げた。


 けれどエリスには、もう周囲を気にする余裕がなかった。


「把握していました」


「なら、どうして!」


 ユリウスは視線を逸らさない。


 その落ち着いた顔が、今は腹立たしかった。


「十二人を捨てたんですか」


 初めてだった。


 尊敬していた人へ。


 自分の記録を認めてくれた人へ。


 本気で怒っている。


 言葉にした瞬間、ユリウスの表情が変わった。


 ほんのわずかだった。


 だが、声は明らかに硬くなった。


「捨てていません」


 左腕の《正典盤》を閉じる。


 半透明の銀頁が重なり、金属の表紙が低い音を立てた。


「迎えに行きます」


 エリスは息を止めた。


「……え?」


「西側へ向かいます」


 ユリウスはすでに歩き始めていた。


 中央記録院員の一人が追う。


「レグナート卿、東側の事後処理は」


「マティス記録官へ引き継いでください。負傷者の再確認、人数照合、東鈴路固定による周辺影響の記録を」


 マティスが一度だけエリスを見たあと、頷く。


「承知しました」


「正典盤の東鈴路記定は第三鐘で終了します。終了後に接続状態を再確認してください」


「はい」


 ユリウスは止まらない。


 エリスは慌てて追った。


「待ってください!」


「急いでください、ヴェルナ候補生」


「そうじゃなくて!」


 追いつき、腕を掴みかける。


 その直前で手が止まった。


「あなたが、あっちを切ったんでしょう」


「ええ」


「それなのに、今から助けに行くんですか」


 ユリウスが足を止めた。


 白い風柱の低音が遠くで響いている。


「選ばなかった側まで、選んだ者の責任です」


 声はもう硬くなかった。


 ただ、重かった。


「東鈴路を選んだのは私です。その結果、冬灯路が失われた」


 一度、西の霧を見る。


「だから私が行きます」


 エリスは言葉を失った。


 冷酷なら、もっと簡単だった。


 四十二人を助けるために十二人を切った。それで終わる人なら、怒ればいい。


 違う。


 ユリウスは選んだ。


 そして、選ばなかった方からも目を逸らしていない。


「……何なんですか、それ」


「何がです?」


「ずるいです」


 思わず出た。


 ユリウスが少しだけ眉を上げる。


「ずるい?」


「そんなの、怒れないじゃないですか」


「先ほど十分怒っていたように思いますが」


「まだ怒ってます!」


「それなら問題ありません」


「あります!」


 返した声が少し震えた。


 ユリウスは一瞬だけエリスを見る。


「怒ってください」


「……え?」


「私は一つを選びました。選ばれなかった側に大切な人がいるなら、怒るのは当然です」


 淡々としている。


「それでも、私は同じ状況ならまた選ぶでしょう」


 胸が冷えた。


 やはり、この人は変わらない。


「四十二人を?」


「救える可能性が最も高い方を」


「ルオが何度向こうにいても?」


 短い沈黙。


「はい」


 エリスの指が握り込まれる。


 だがユリウスは続けた。


「そして、そのたびに残った側へ行きます」


 怒りが消えない。


 納得もできない。


 それなのに、否定しきれなかった。


 この人は本当に、それをやるのだ。


          *


 冬灯路があった場所には、もう霧灯がなかった。


 サリカが風鈴杖を掲げ、何度も向きを変える。


 鈴はほとんど鳴らない。


 ときおり、どこか遠くで骨笛らしい音がする。


 しかし近づこうとすると消えた。


「ここでした」


 サリカが足元を示す。


 石畳。


 見た目は普通だ。


「冬灯路の入口は、確かにここにありました」


 エリスは周囲を見る。


 細い路地。


 低い塀。


 青白い霧。


 診療所へ繋がる道など、どこにもない。


 ユリウスが《正典盤》を開いた。


「現時点で成立している接続を確認します」


 銀頁を一枚送る。


 書かない。


 まず見る。


 サリカが風鈴杖を地面へ触れさせる。


「西側の人たちは?」


「存在しています」


「分かるんですか?」


「わずかですが」


 サリカは目を閉じる。


「暮らしの音が残っています。診療所の骨鈴。人の息。ルオの風も……弱いですが」


 エリスは少しだけ胸を撫で下ろした。


「なら、《記定》で」


 ユリウスが首を横へ振った。


「固定できません」


「どうして?」


「冬灯路が成立していないからです」


「さっきのように書けば」


「書けません」


 きっぱりしていた。


「《冬灯路は南広場へ接続する》って書けばいいじゃないですか」


「その文章が成立し得ない」


「さっきは成立したでしょう!」


「さっきは東鈴路が現実に存在していました」


 ユリウスは正典盤の銀頁をエリスにも見えるよう傾けた。


 何も書いていない。


「私が選べるのは、存在し得るものだけです」


 エリスは口を閉じた。


「東鈴路には、南広場へ接続する可能性が残っていた。だから、その可能性を固定できた」


「でも、ルオはそこにいます」


「ええ」


「だったら、帰れるでしょう」


 ユリウスの目がわずかに細くなった。


「彼がいることと、帰路が存在することは別です」


 その一言が、深く刺さった。


 エリスは西の霧を見る。


 ルオはいる。


 十一人もいる。


 存在している。


 けれど、存在していることが、帰れる保証にはならない。


「じゃあ」


 声が小さくなる。


「何もできないんですか」


「いいえ」


 ユリウスは即答した。


「探します」


「何を」


「固定できる可能性を」


 サリカが霧の中へ一歩入る。


「今の冬灯路は、ほとんど聞こえません。ただ、この街では同じ場所へ一つの道しかないわけではありません」


 フィエラの家が頭をよぎった。


 二鈴。


 白い煙突。


 西風。


 冬鳥。


 同じ場所へ、いくつもの関係から辿り着いた。


「ほかの道……」


「あるかもしれません」


 サリカは慎重に言った。


「ただし、今は聞こえていません」


 ユリウスが地図を広げる。


 古い街路。


 通称。


 風祈り庁の記録。


 いくつもの線。


 そのほとんどが現在の西側区域へ繋がっていない。


「証拠が足りない」


 ユリウスが言う。


「過去に西側から帰還した経路。現在も残っている風。住民が覚えている到達関係。何でもいい」


 エリスは彼を見る。


「それがあれば?」


「成立可能性を確認できます」


「なかったら」


 答えは少し遅れた。


「《記定》では救えません」


 エリスは唇を噛んだ。


 証拠。


 可能性。


 成立する道。


 全部、正しい。


 でも。


「帰れない証拠もないでしょう」


 ユリウスの視線が止まった。


「……え?」


「帰れる証拠が足りないんですよね」


「そうです」


「でも、帰れないって確定したわけじゃない」


 エリスは白紙台帳を取り出した。


 手が震えている。


 怒りなのか、怖さなのか、自分でも分からない。


 頁を開く。


 まだ何も書かれていない場所。


 白い。


 白霧陸峡で、道標守の名前を書かなかった時と同じ白さだった。


 あの時は、書かないことで守った。


 今は違う。


 何かを書かなければならない。


 でも、分からないものを分かったことにはしたくない。


 エリスは筆を取った。


「ヴェルナ候補生」


 ユリウスが呼ぶ。


「何を書くつもりです?」


「分かっていることだけです」


 筆先を紙へ置く。


 帰路は、確認されていない。


 だが、存在しないとも確認されていない。


 だから。


> 《当該区域からの帰還可能性――未確定》


 書き終える。


 文字は消えなかった。


 道も現れない。


 風も鳴らない。


 ただ、一行だけが白紙台帳に残った。


 ユリウスがそれを見る。


「それだけでは、道にはなりません」


「知ってます」


 エリスは台帳を閉じなかった。


 そのまま西の霧へ顔を向ける。


「だから探します」

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