第九節 ― 帰路なしとは確定せず
「西側から帰ったことがある人を探してください!」
エリスの声に、白い風柱の前へ集まっていた人々が振り向いた。
言ってから、自分でもずいぶん曖昧な頼み方だと思った。西側、とひとことで呼んでも、あの区域には診療所も住宅も路地もある。今のように風路が崩れる以前なら、そこから帰った人間などいくらでもいるはずだ。
それでいい。
「今日じゃなくて構いません。昨日でも、一年前でも、子供の頃でも。今ルオたちがいる辺りから、こちら側へ抜けたことがある人を!」
サリカがすぐ意図を汲んだ。
「風祈り庁にも伝えます。古い道を知る方を優先して」
「お願いします」
ユリウスは止めなかった。
むしろ中央記録院の者へ向き直る。
「証言を集めてください。ただし、現行地図との一致を条件にしないように」
その言葉に、エリスは一瞬だけ彼を見る。
ユリウスもこちらを見た。
「帰路を探すのでしょう?」
「はい」
「なら、使えるものは全部使うべきです」
それだけ言って、自身も古い街路資料を開いた。
さっきまで怒っていた相手と、もう同じ地図を覗き込んでいる。
気持ちが追いつかない。
けれど、今はそれでいい。
ルオたちはまだ向こうにいる。
最初の証言者が来たのは、間もなくだった。
「古井戸の裏だよ」
杖をついた老女が、古い地図の一点を指で叩く。
「昔は診療所の辺りから、古井戸の後ろを回れば南へ抜けられた」
マティスが確認する。
「この井戸ですか?」
「そんな場所じゃない」
「ですが、記録上の古井戸はここに――」
「記録は知らないよ。青い石が三つ積んであった井戸だ」
マティスの筆が一瞬止まった。
エリスが横から言う。
「青い石三つ。書いてください」
「位置が確定できません」
「確定しなくていいです」
次に来たのは、白い髭の男だった。
「冬灯の階段なら通ったことがある。大雪の晩だった」
「冬灯路とは別ですか?」
サリカが訊く。
「知らん。俺たちはそう呼んでた。青い灯が一つだけ残る階段だ」
別の女性は言った。
「煙突の下よ。パン工房の古い煙突。今は工房自体がないけれど、その下を潜ると裏へ出られたの」
「潜る?」
「子供の時だったから。今の身体じゃ無理ね」
その横から、少年が割り込んだ。
「抜け道あるよ」
「どこに?」
「診療所の裏から、壁と物置の間」
「地図にはありません」
マティスが言う。
「だって大人は通れないもん」
「あなたは通ったことが?」
「去年まで」
さらに別の男が、首を傾げながら言った。
「名前はなかったな」
「何がです?」
「裏通りだよ。昔、荷車を避ける時だけ使った。どこから入ったかは覚えてない。ただ、出る時には白い柱が見えた」
証言が増えるほど、地図は整わなくなった。
古井戸の裏。
冬灯の階段。
煙突下。
子供だけの抜け道。
名のない裏通路。
同じ西側から帰った話なのに、入口も途中の景色も方向も違う。
マティスが紙を三枚並べた。
「経路が一致しません」
「一致させないでください」
エリスは即座に言った。
マティスが顔を上げる。
「ですが、帰還経路を構成するなら――」
「一つの道にしようとしないでください」
自分の台帳を開く。
そこには、フィエラの家へ辿り着いた時に並べた複数の呼び名が残っていた。
《二鈴の家》。
《白い煙突》。
《冬鳥の窓》。
《西風ばあさんの家》。
どれか一つが本当で、ほかが間違いだったわけではない。
「フィエラさんの家も、経路は一致してませんでした」
エリスは証言を一つずつ別の行へ写す。
「二鈴を辿る道。煙突を見る道。西風から入る階段。全部違った。でも、全部あの家へ近づいた」
マティスの視線が、散らばった証言へ戻る。
「今回は逆だと?」
「分かりません」
エリスは正直に答えた。
「でも、一つの場所へ複数の関係から辿り着けるなら、一つの場所から戻る時も、一つの道だけを探す必要はないかもしれない」
一本の完全な帰路がない。
それなら。
「古井戸の裏を最初から最後まで通れなくてもいい。冬灯の階段が途中までしか残ってなくてもいい。煙突下も、子供の抜け道も、名前のない裏通りも」
頁の上で、それぞれの証言を離したまま囲う。
「途中だけでも残っていれば」
「断片を重ねる」
ユリウスが言った。
エリスは頷いた。
「はい」
マティスはしばらく何も言わなかった。
やがて、それまで一本の線にまとめようとしていた別紙を退ける。
新しい頁を開いた。
「証言ごとに独立記録します」
「お願いします」
「相互矛盾は?」
「消さないでください」
「了解しました」
今度は迷わなかった。
老女の古井戸。
男の冬灯。
女性の煙突。
少年の抜け道。
名のない裏通路。
マティスは全部を同じ大きさの文字で記していく。
正式。
非正式。
信用度。
そんな上下はつけない。
今必要なのは、どれが一番正しいかを決めることではない。
どれがまだ残っているかを探すことだった。
*
サリカは白い風柱へ両手を添えていた。
周囲の風鈴はもう、都市全体の異常が始まった時ほど激しくは鳴っていない。
むしろ静かすぎた。
だからこそ、彼女は一音ずつ拾えるらしい。
「古井戸」
エリスが読み上げる。
「青い石が三つ積んであった。診療所側から南へ抜けた記憶」
サリカが目を閉じる。
長い沈黙。
やがて、柱の低い位置に吊られた古い骨笛が、かすかに鳴った。
ひゅう、と息の抜けるような音。
「あります」
エリスの胸が跳ねる。
「道が?」
「いいえ」
サリカは首を振った。
「音だけです。しかも、とても短い」
「それでいいです」
次へ進む。
「冬灯の階段。青い灯が一つだけ残る階段」
今度は風柱の西側。
小さな鈴が二度鳴った。
りん。
少し遅れて。
りん。
「これも」
「次。古いパン工房の煙突下」
何も鳴らない。
エリスの喉が詰まる。
サリカは諦めず、杖の風鈴を一つずつ指で押さえていく。
一番下の小さな骨鈴だけを残した。
しばらくして。
からん。
乾いた、ごく小さな音。
「残っています」
「子供の抜け道」
高い鈴。
「名のない裏通り」
これは長かった。
何も鳴らない。
エリスがもう一度証言を読む。
「昔、荷車を避ける時だけ使った。入口は覚えていない。出る時には白い柱が見えた」
サリカの眉が寄る。
「名前がないから、探す音もありません」
「でも使われてた」
「ええ」
サリカは白い風柱から手を離した。
今度は杖の石突きを地面につける。
目を閉じたまま、ゆっくり向きを変える。
北。
西。
南西。
そこで止まる。
「……音ではないですが」
「何かあります?」
「風が一瞬だけ戻ります」
エリスには何も感じない。
ルオなら分かるのだろうか。
そう考えた瞬間、胸の奥が強く締まった。
「全部、完全な道じゃない」
マティスが並べた記録を見る。
「古井戸は音だけ。冬灯は階段の気配。煙突下は一点。抜け道は短い接続。名のない裏通路は方向だけ」
「はい」
サリカが答える。
「一本だけなら、誰も帰せません」
エリスは白紙台帳へ目を落とした。
一本だけなら。
その言葉が残った。
*
西側では、風がほとんど死んでいた。
ルオは診療所を出て、すぐ戻った。
さっきまで玄関の先にあった石段が消えている。
代わりに、霧の壁。
手を伸ばせば触れられそうなのに、その向こうから何も返ってこない。
「また駄目か」
診療所職員が訊く。
「ああ」
ルオは短く答えた。
隠しても意味がないことまで隠すつもりはなかった。
「次は裏を試す」
背後から咳が聞こえる。
患者の一人が壁に手をついていた。
「座れ」
「歩けるよ」
「歩けるやつは、そんな顔しない」
返事を待たず、ルオはしゃがんだ。
「乗れ」
「でも」
「時間がもったいない」
患者を背負う。
思ったより軽かった。
それが少し嫌だった。
診療所にいた十一人は、今のところ全員無事だった。
風祈り庁員が一人。
職員。
患者。
周辺の住民。
その中の小さな子供が、母親らしい女性の手を握っている。
さっきより泣いてはいない。
けれど、ずっとルオを見ていた。
「ねえ」
「何だ」
「帰れない?」
ルオの足が一瞬止まった。
風はない。
音もない。
自分でも、どちらへ行けばいいか分からない。
「帰れないんじゃない」
子供が見上げる。
ルオは霧の先へ目を向けた。
「道がまだ見つかってないだけだ」
それが強がりなのか、自分でも分からなかった。
ただ。
どこかで、同じことを言いそうな人間が一人いる。
帰れないと確定していないなら、勝手に終わらせるな、と。
ルオは患者を背負い直した。
「行くぞ」
その時。
遠くで、鈴が鳴った。
あまりに小さくて、誰も反応しなかった。
ルオだけが顔を上げる。
「……今の」
耳を澄ます。
もう一度。
りん。
今度は少し高い。
別の方向から、骨笛らしい乾いた音。
繋がっていない。
同じ道から聞こえる音でもない。
それでも、さっきまで完全に死んでいた風の中へ、いくつかの音が戻っている。
ルオはしゃがみ込んだ。
石畳の端。
霧に濡れた場所へ、白い線が浮かんでいる。
霜。
指先ほどの小さな紋様。
完全な形ではない。
息を吹きかけると消えそうなほど薄い。
けれどルオには読めた。
一つの契約でも。
一つの名前でもない。
こちらへ来ようとしている、何かの痕跡。
ルオの口元が、わずかに動いた。
「……エリス」
*
「鳴った!」
サリカが声を上げた。
白い風柱の西側。
これまで別々にしか鳴らなかった音が、ごく短い間だけ重なった。
古井戸の骨笛。
冬灯の鈴。
煙突下の骨鈴。
子供の抜け道を示す高い音。
そのどれとも違う、名前のない風。
同時ではない。
正確には、一つが消える前に次の一つが鳴った。
短い。
ほんの数呼吸。
だが、途切れてはいなかった。
「もう一度!」
エリスが証言を読み上げる。
サリカが音を探す。
マティスがそれぞれの断片を並列に記録する。
古井戸。
階段。
煙突。
抜け道。
名のない裏通り。
エリスは白紙台帳の頁を見つめた。
どう繋ぐ。
一本道にしてはいけない。
一本に確定した瞬間、残りを弱めるかもしれない。
なら。
繋がなくていい。
「サリカさん。次の音が聞こえるまで、前の音を消さないようにできますか?」
「ほんの少しなら」
「完全に重ねなくていいです」
「では?」
「途中だけ」
エリスは台帳へ線を引かない。
代わりに、証言の間へ小さな空白を残した。
古井戸。
空白。
冬灯。
空白。
煙突。
空白。
抜け道。
それぞれを孤立させたまま置く。
「この間を、決めません」
マティスが目を細める。
「経路を記録しない?」
「分からないからです」
「しかし、それでは連続した道にならない」
「ならなくていい」
エリスは西の霧を見る。
「古井戸の裏から、次にどこへ出るかは決めない。冬灯の階段へ出るかもしれない。煙突下かもしれない。名前のないところかもしれない」
サリカが息を呑む。
「到達先を一つにしないまま、次に残っている関係へ渡す」
「できますか?」
「……試したことはありません」
「私もです」
エリスは笑えなかった。
「でも、帰れないとはまだ決まってません」
サリカが頷く。
白い風柱へ杖を当てた。
今度は一つの音を強く鳴らすのではない。
古い音を拾う。
消える前に、次を呼ぶ。
骨笛。
鈴。
乾いた骨鈴。
高い風鈴。
音のない風。
断片が、短く重なる。
霧が動いた。
広場の西端。
そこには壁しかなかったはずだった。
白い霧の中へ、細い隙間が生まれる。
「……道?」
マティスが呟く。
道、と呼ぶには頼りない。
二人並んでは通れないほど狭い。
数歩先で一度消え、別の角度からまた現れる。
石段。
細い路地。
壁の隙間。
白い煙の下。
その先は何も見えない。
一本の街路ではなかった。
別々の場所に残っていた短い到達関係が、互いの端をほんの一瞬ずつ触れ合わせている。
「名前は?」
中央記録院員の一人が訊いた。
サリカは首を振る。
「ありません」
エリスも台帳へ名前を書かなかった。
必要ない。
今だけ。
帰るためだけに重なった細い道。
「維持時間は?」
ユリウスが訊く。
サリカの額に汗が浮かんでいる。
「長くありません。音が一つでも切れれば、途中から崩れます」
「向こうまで届いている確認は」
「できません」
ユリウスが正典盤へ手をかける。
「私が先に入ります」
「待ってください」
エリスが止めた。
ユリウスが振り返る。
「危険確認が必要です」
「それなら私が行きます」
「ヴェルナ候補生」
「ルオなら、私の息を知っています」
言葉にしてから、胸が強く鳴った。
白霧の中を歩いた。
風に息を預けた。
名前を書かずに同じ道を探した。
フェル=シェリカへ入る時も、文字のない風鈴札へ自分の息を吹き込んだ。
ルオなら分かる。
道そのものが見えなくても。
エリスが来ていると。
「サリカさん。私の入市札を」
手首から薄い骨片を外す。
そこには何も書かれていない。
けれど、自分の息が預けられている。
サリカが札を受け取り、細道へ流れる風の前へ掲げた。
小さな鈴が鳴った。
りん。
エリスはその音を聞いてから、ユリウスを見る。
止められると思った。
危険だと。
経験が足りないと。
自分が行くべきだと。
ユリウスはしばらくエリスを見ていた。
やがて正典盤から手を離す。
「行ってください」
エリスは頷いた。
白紙台帳を胸元へ収める。
細い霧の隙間へ、一歩踏み込んだ。




