第七節 ― 《記定》
ユリウスは、すぐには答えなかった。
白い風柱の前に集められた報告を、一枚ずつ確かめている。東側四十二名、西側十二名。人数だけではない。子供の年齢、高齢者の歩行状態、負傷者の程度、診療所に残る患者が自力で動けるかどうか。それぞれの現在位置まで、地図へ落としていく。
「東側の歩行不能者は」
「完全に歩けない方が二名。介助があれば移動できる方が五名です」
「担架は?」
「三台あります。二台は市場側から持ち込めます」
「負傷者五名のうち、出血が続いている者は」
「一名。処置済みですが、早く診療所へ移した方がいいです」
ユリウスは頷き、別の報告へ移る。
「東鈴路から南広場までの距離」
「現在の接続なら約六百歩。ただし二度、途中の到達先が揺れています」
「道幅は」
「最狭部でも担架一台は通せます」
「建物損傷」
「東側に倒壊危険一棟。避難者はすでに外へ出ています」
「風圧」
サリカが白い風柱へ耳を寄せた。
「上昇しています。東鈴路はまだ形がありますが、長くは保ちません」
「冬灯路は」
「先ほどより薄いです」
「成立時間を推定できますか」
「正確には」
「幅で構いません」
サリカは目を閉じた。
遠くで風鈴が鳴る。
一つ。
間を置いて、もう一つ。
「このままなら、第三鐘までは難しいと思います」
「東鈴路は?」
「冬灯路よりは長いです。ただし両方へ流し続ければ、どちらもその前に切れる可能性があります」
ユリウスは地図へ視線を落とす。
「西側の十二名。位置確認を」
マティスが読み上げた。
「診療所内に九名。隣接建物に二名。ルオ=スノルは診療所周辺で風路を確認中」
「本人との最後の連絡は?」
「一刻も経っていません」
「負傷は」
「報告なし」
エリスは黙ったまま、そのやり取りを聞いていた。
数字が積み重なる。
四十二。
十二。
子供。
老人。
患者。
負傷者。
ルオ。
どれも同じ紙の上に並んでいるのに、同じ重さには見えなかった。
ユリウスは何度も確認する。
急いでいる。
それでも、焦っては見えない。
ひとつ選べば、もうひとつが失われるかもしれない状況で、彼は選ぶために必要なものを一つも省こうとしなかった。
「中央隊の動ける者は?」
「十五名です」
「風祈り庁から避難誘導へ出せる人数」
「八名」
「担架を含めれば、東側四十二名を一度で動かせる?」
サリカが考える。
「道が保てば」
「保てる時間が確定すれば?」
「……可能です」
ユリウスの指が止まった。
東鈴路。
その文字の上だった。
エリスは嫌な予感より先に、彼が答えを出したことを悟った。
「東鈴路を固定します」
「待ってください」
自分でも驚くほど早く声が出た。
ユリウスが顔を上げる。
「ルオが西側にいます」
「把握しています」
「なら――」
「だから急ぎます」
言葉が重なった。
エリスは息を詰める。
ユリウスの声は冷たくなかった。
むしろいつも通りだった。
だから、余計に言葉を続けにくい。
「冬灯路は、東鈴路より先に失われる可能性が高い。二本を維持したまま時間を使えば、四十二名も十二名も失う可能性があります」
「でも、東を固定したら」
「冬灯路が保たない可能性があります」
ユリウス自身が言った。
隠さない。
「それでも?」
「それでもです」
エリスは言葉を失った。
ユリウスは人数表へ一度視線を落とした。
「私が選ばなければ、白風脈が先に選びます」
静かな声だった。
「その場合、救える人数すら分かりません」
反論できなかった。
サリカも、マティスも何も言わない。
風鈴だけが、遠くで不揃いに鳴っている。
ユリウスは左腕へ手を添えた。
エリスの視線がそこへ吸い寄せられる。
いつも彼が身につけている、薄い金属装丁の書物。
《正典盤》。
何度も見てきた。
けれど、それが開かれるところをエリスは初めて見た。
留め具が外れる。
金属の表紙が開く。
中に紙はなかった。
「……銀?」
半透明の薄い頁が幾重にも重なっている。
銀色に見えるのに、向こう側が淡く透けていた。光を受けるたび、表面ではなく頁の奥で何かが揺れている。
ユリウスは細い筆記具を取り出した。
エリスは無意識に一歩近づく。
「レグナート卿、それは」
「《記定》です」
それだけ言って、ユリウスは正典盤を左腕に支えた。
「通常の記録とは違います」
筆先が銀頁へ触れる。
「成立し得るものの中から、一つを選ぶ」
文字が刻まれる。
いや、インクではなかった。
筆先が通ったところだけ、銀頁の奥へ細い黒線が現れていく。
「それを、観測上の基準として固定します」
エリスは息を止めた。
無から道を作るのではない。
東鈴路は、すでにある。
南広場へ繋がる可能性も、今この瞬間には成立している。
ユリウスが書こうとしているのは、その可能性だった。
サリカが低く確認する。
「どこまで固定しますか」
「必要最低限です」
ユリウスは顔を上げない。
「第三鐘まで。それ以上は固定しません」
東鈴路を永続させれば、街そのもののあり方をさらに歪めるかもしれない。
だから期限を切る。
救助に必要な時間だけ。
エリスは初めて、《記定》という力の形を理解し始めていた。
万能ではない。
好きな現実を作る魔法でもない。
すでにある複数の可能性から、一つを選ぶ力。
だからこそ――選ばなかったものがある。
ユリウスの筆が止まった。
銀頁に一文が完成していた。
> 《東鈴路は、第三鐘まで南広場へ接続する》
曖昧さのない文章。
ユリウスはその一文を見つめる。
最後に、何かを確かめるように目を閉じた。
そして。
文字が銀頁へ沈んだ。
世界から、音が消えた。
風鈴も。
骨笛も。
人の声も。
白い風柱の低音も。
すべてが一瞬だけ途絶える。
エリスには自分の呼吸さえ聞こえなかった。
銀頁の奥へ沈んだ文字だけが、淡く光る。
次の瞬間。
風が吹いた。
一本だけ。
白い風柱から東へ、迷いのない風が走る。
霧が割れた。
それまで何度も揺らいでいた東鈴路の入口が、はっきり姿を現す。
石畳。
家々。
鈴。
南広場へ続く道。
見た目には、それまでと大きく変わらない。
なのにエリスには分かった。
今までの道とは違う。
曲がった先が変わる気配がない。
途中で別の広場へ出る不安もない。
風が、一本道として通っている。
サリカが目を見開いた。
「……繋がっています」
「確認を」
ユリウスが言う。
風祈り庁の二人が先行する。
すぐに声が返った。
「南広場まで接続確認!」
「途中変動なし!」
ユリウスは正典盤を閉じた。
「救助開始」
自分も東鈴路へ向かって走った。
「レグナート卿!」
中央記録院員が呼ぶ。
「指揮は移動しながら取ります。歩行できる者から先へ。担架は中間へ。子供は必ず成人と組ませてください」
後方に残らない。
エリスは一瞬遅れて、その背中を追った。
「私も行きます!」
「当然です、ヴェルナ候補生」
「当然なんですか!?」
「提案者が現場を見ずに様式を作るのですか?」
「今それを言います!?」
走りながら返され、エリスは思わず息を呑む。
そんな場合ではないのに、ほんの少しだけ緊張がほどけた。
隣へマティスが追いつく。
「話す余裕があるなら走ってください」
「走ってます!」
「速度が落ちています」
「誰のせいですか!」
東鈴路の先から人影が見えた。
四十二人。
最初に出てきたのは、子供を抱いた母親だった。
「こっちです!」
エリスが手を振る。
「止まらないで! 道は南広場まで繋がっています!」
自分で言ってから、その言葉の重さを感じた。
繋がっている。
今は、絶対に。
母親が泣きそうな顔で頷く。
腕の中の子供は、何が起きているのか分からないまま母親の首にしがみついていた。
その後ろから老人。
風祈り庁員に肩を借りて歩く。
さらに市場の客たち。
腕を負傷した男。
足を引きずる女性。
担架が来る。
「段差、気をつけて!」
エリスは担架の片側を持った。
「私が持ちます」
ユリウスが反対側へ手をかける。
「レグナート卿は指揮を」
「人手が足りない時に役職は担架を持ってくれません」
「でも」
「前を見てください」
言われて、エリスは足元へ集中した。
石畳。
風。
霧。
道は揺れない。
正典盤に書かれた一文が、この一本だけを確かなものにしている。
怖いほど確かだった。
だから、人が帰ってこられる。
二人目の担架。
三人目。
子供たちが列を作る。
「走らないで!」
サリカが先頭で声を上げる。
「鈴の音を聞いて。そのまま南広場へ!」
マティスは人数を数えていた。
「二十三!」
また一人。
「二十四!」
エリスが腕を取った老女が、息を切らしながら笑った。
「こんな日に買い物なんてするもんじゃないね」
「次は晴れた日にしてください」
「霧都で?」
「……なるべく薄い日に!」
老女が笑う。
歩ける。
話せる。
帰れる。
エリスの胸の奥で、何かがほどけていく。
「三十五!」
道はまだある。
「三十九!」
風鈴が鳴る。
「四十一!」
最後の一人は、脚を痛めた市場の男だった。
ユリウスと中央隊員が両側から身体を支える。
男が南広場の石畳へ足をついた。
「四十二!」
マティスの声が響いた。
一瞬。
誰も動かなかった。
数え直す。
「四十二名、全員確認」
サリカが長く息を吐いた。
母親が子供を強く抱きしめる。
負傷者はそのまま治療へ運ばれていく。
老人が近くの柱へ身体を預け、目を閉じた。
市場客の一人が泣きながら隣の人と抱き合っている。
誰も欠けていない。
エリスはその光景を見つめた。
「……助かった」
声が震えた。
本当に。
四十二人が。
もしユリウスが選ばなければ。
もし二本とも残そうとして迷い続けていれば。
この人たちは、帰れなかったかもしれない。
《記定》。
一つを選ぶ力。
恐ろしい、と感じるより先に。
エリスは、それが人を救ったところを見た。
明確に。
目の前で。
四十二人全員を。
鐘が鳴った。
エリスは顔を上げる。
一度。
都市のどこか遠くから、低く響く。
サリカの表情が変わった。
「サリカさん?」
彼女は西を見ている。
南広場からは、霧の向こうしか見えない。
けれどサリカには何かが聞こえている。
冬灯路の方向。
かすかな風鈴が一つ。
鳴る。
次の音が来ない。
別の鈴が鳴った。
それも途切れる。
「……待って」
サリカが走り出した。
「サリカさん!」
エリスも追う。
白い風柱へ戻る途中で、もう一つ音が消えた。
骨笛。
さっきまで西側から続いていた低い響きが、途中で切れる。
エリスの胸が急速に冷たくなった。
「冬灯路は?」
サリカは答えない。
「ルオは?」
白い風柱の前へ着いた。
西側へ伸びていた青白い霧灯。
一つ目が消えている。
二つ目も。
三つ目も。
霧の奥へ続いていたはずの灯りが、途中からない。
「サリカさん」
エリスはもう一度訊いた。
「ルオは?」
サリカがゆっくり振り返った。
顔色が白かった。
「……道から外れました」




