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第六節 ――二つの避難路

 地面から噴き上がった霧は、しばらくすると広場から引いた。


 けれど、街は元には戻らなかった。


 白い風柱の周囲へ風祈り庁の者たちが駆け込み、次々に報告を持ち込んでくる。霧灯が消えた。骨笛の音が別の路地から聞こえる。いつもの角を曲がったはずなのに、まったく違う広場へ出た。


 最初、エリスは街路そのものが動いているのだと思った。


 違うと気づいたのは、南西区から戻ってきた使いが地図へ指を置いた時だった。


「建物は変わっていません」


 息を切らした若者が、声を整えながら言う。


「この家も、この倉庫も、ここにあります。外壁も窓も、何も動いていない。ただ――」


 彼は一本の路地を指した。


「ここを抜けると、さっきまでは南市場へ出ました。今は西の診療所前へ出ます」


「道が変わった?」


 エリスが訊く。


「道そのものは同じです」


 サリカが白い風柱へ耳を向けたまま答えた。


「変わっているのは、その道がどこへ着くかです」


 エリスは地図を見下ろした。


 線は動いていない。


 路地も、階段も、広場もある。


 なのに、その線の先だけが高速で繋ぎ替えられている。


 フィエラの家へ行けなかった時とは比べものにならなかった。あの時は、一つの呼び名からの到達が薄くなっていただけだ。


 今は街区全体で、どの道がどこへ届くかが揺れている。


「南西第三路、また切り替わりました!」


 別の使いが叫ぶ。


「東鈴路入口から入った二人が、冬倉広場へ出ています!」


「冬倉は反対側でしょう」


 マティスが地図から顔を上げる。


「はい!」


「建物の確認は?」


「動いていません!」


 また同じ答えだった。


 エリスの喉が乾いた。


 場所はそこにある。


 道もそこにある。


 でも、行けない。


 あるいは、行った先が別の場所になってしまう。


「人は?」


 ユリウスの声が飛ぶ。


 騒ぎの中でも、よく通った。


「南西区に残っている人数を確認してください。推測ではなく、現在確認できる人数を」


 中央記録院員と風祈り庁の者たちが一斉に動く。


 名前。


 人数。


 怪我の有無。


 歩けるか。


 子供か、高齢者か。


 情報が白い風柱の前へ集められていく。


 少し前まで、地名をどう記録するか話していた場所だった。


 今は人を帰せるかどうかの記録になっている。


「ルオは?」


 エリスは周囲を見回した。


 いない。


 さっきまで白い風柱の近くにいたはずだった。


 サリカが目を開ける。


「異常が南西へ広がる直前、風路の確認に向かってもらいました」


「一人で?」


「風祈り庁の者と二人です。街の外側から読むより、実際の風へ入った方が分かると言って」


「また勝手に……」


 言いながら、胸の奥が冷えた。


 ルオならやる。


 誰かに命じられるより先に、自分で危険な側へ入る。


 エリスは風柱の南西を見た。


 霧しか見えなかった。


「連絡は?」


「まだ取れています」


 サリカはすぐに答えた。


 それだけで、少しだけ息が戻る。


 だが彼女の次の言葉は重かった。


「帰路がありません」


 白い風柱の前へ、最初の人数表が置かれた。


 マティスが読み上げる。


「東側、四十二名。うち子供十二名。高齢者九名。歩行に補助が必要な者七名。負傷者五名。残りは市場利用者および周辺住民」


 別の紙を取る。


「西側、十二名。診療所職員三名、患者四名、周辺住民三名、風祈り庁員一名――」


 一度止まった。


「ルオ=スノル、一名」


 エリスはその数字を見た。


 十二。


 四十二。


 紙の上では、ひどく簡単だった。


 けれど西側の十二人の中に、ルオがいる。


 東側の四十二人には、十二人の子供がいる。


 比べるようなものではない。


 比べてはいけない。


 そう思うのに、数字は並んでしまう。


          *


 診療所の待合室で、子供が泣いていた。


 建物そのものに被害はない。


 窓も割れていないし、壁も立っている。


 それでも外へ出るたび、さっきとは違う場所へ繋がる。


 玄関を開けた最初の時は細い階段だった。


 二度目は市場裏。


 三度目は、見覚えのない霧灯の並ぶ路地だった。


 四度目で、ルオは扉を閉じた。


「もう開けない方がいい」


 診療所の職員が青ざめた顔で訊く。


「でも、ここにいたら――」


「分かってる」


 ルオは窓から外を見た。


 風の向きが定まらない。


 こんなものは白霧陸峡でも見たことがなかった。


 野外の風なら、迷っても戻れる。


 山も谷も、雪も匂いも、風が何を通ってきたかを教えてくれる。


 この街の風は違う。


 人が多すぎる。


 名前が多すぎる。


 しかも今は、その全部が互いを引っ張っていた。


「ルオ」


 小さな声。


 さっきから泣いていた子供が、母親らしい女性の袖を掴んでいる。


「帰れる?」


 ルオは答える前に一度だけ息を吐いた。


 分からない。


 出口を見失っているのは、自分も同じだった。


 だから、そこだけは顔に出さなかった。


「俺がいるうちは、迷ってるだけだ」


 子供が瞬きをする。


「迷ってるだけ?」


「そうだ」


 ルオは診療所の中を見回した。


「動けるやつは、水と外套を集めろ。患者を勝手に歩かせるな。次に道が繋がっても、俺が先に見る」


「あなたは?」


「俺は風を見る」


 見えていないものを、見ると言った。


 それでも今は、それでよかった。


          *


「二本です」


 サリカの声に、エリスは顔を上げた。


 白い風柱の周囲へ、風祈り庁の者たちが細い紐を二方向に張っていた。


 一方には大小の鈴。


 もう一方には青白い霧灯。


 柱の表面では、霜の筋が二つに割れている。


「今、避難路として成立しているのは二本だけです」


 サリカが一方を指す。


「《東鈴路》」


 風鈴が連続して鳴った。


「東側の四十二名に近い。道幅もあります。大きな段差はありません。歩行補助が必要な方も通せます」


 次に、反対側。


 青白い霧灯が霧の中へ点々と続いている。


「《冬灯路》」


 こちらの道は細い。


 地図を見る限り、途中に階段が多い。


「西側の十二名へ近い道です。診療所裏へ接続する可能性が一番高い」


「ルオたちはそこから?」


「戻せるなら」


 サリカは言い切らなかった。


 ユリウスが二つの経路を見比べる。


「現在の安定時間は?」


「分かりません」


「推定でも」


「東鈴路の方が長いです。冬灯路はもう二度、入口が薄れています」


 言われた直後、青い霧灯の一つが消えた。


 すぐ戻る。


 けれど、さっきより暗い。


「白風脈の圧力は?」


 サリカは風鈴杖へ耳を寄せる。


 低い音。


 彼女の眉が寄った。


「上がっています」


「どの程度で限界に?」


「二本とも維持し続ければ、先に白風脈そのものが耐えなくなるかもしれません」


 エリスは聞き返した。


「二本とも、って」


「今は、街が二つの到達関係を同時に支えています」


 サリカは二本の紐を見た。


「どちらも弱っている。どちらも捨てずに支えようとしているから、両方へ風が流れているんです」


「それの何が――」


 最後まで言う前に分かった。


「足りない?」


「ええ」


 サリカが頷く。


「このままなら、両方が崩れる可能性が高いです」


 東側四十二名。


 西側十二名。


 どちらも帰れなくなる。


 エリスは地図へ手をついた。


「交互に使えば?」


 考えるより先に言葉が出た。


「先に東鈴路から何人か出して、その間だけ冬灯路を弱める。それから切り替えて西を――」


「間に合いません」


 マティスが風祈り庁から渡された数値を見ていた。


「東側には歩行不能に近い者がいます。四十二名を数回に分けて移動させるだけでも時間が必要です」


「じゃあ、全員じゃなくて」


「切り替えのたびに到達関係が薄くなります」


 サリカが続ける。


「今は二本とも、かろうじて“避難路”として残っている状態です。何度も行き来させれば、そのたびに揺れます」


 エリスは唇を噛んだ。


 次。


 次の方法を探す。


「一度片方を固定して、それからもう一方は?」


 サリカがエリスを見る。


「固定した瞬間、もう片方が保たない可能性があります」


「でも絶対じゃないんですよね?」


「絶対ではありません」


 その言葉に一瞬希望を持つ。


「ですが、試してから戻すこともできません」


 消えた道を、もう一度同じように作れる保証がない。


 エリスは二つの路線を見た。


 東鈴路。


 四十二人。


 十二人の子供。


 高齢者。


 負傷者。


 冬灯路。


 十二人。


 患者。


 職員。


 住民。


 ルオ。


 人数で考えるな、と自分に言い聞かせる。


 でも状況は、数字を無視してくれない。


「他の道は?」


「今はありません」


「古い呼び名を戻せば?」


「呼んでいます」


 サリカの声に焦りが混じった。


「風祈り庁が、残っている呼び名を全部使っています。それでも、避難路として繋がるところまで戻ったのはこの二本だけです」


「白い風柱から直接――」


「できません」


「なら、地下は?」


「地面の上下の問題ではありません」


 答えが一つずつ消えていく。


 エリスは白紙台帳を開いた。


 何か書けば思いつく気がした。


 東鈴路。


 冬灯路。


 二つを並べる。


 どちらにも丸をつけられない。


 白風脈の低い音がまた響いた。


 今度は近い。


 東鈴路の風鈴が激しく揺れ、冬灯路の霧灯が一瞬だけ全部暗くなる。


 サリカが顔を上げる。


「急いでください」


 誰に向けた言葉か分からなかった。


 決める者など、まだいないはずだった。


 エリスは人数表を見る。


 そして二つの道を見る。


「じゃあ、どちらを……」


 声が途中で弱くなった。


 誰も答えなかった。


 サリカも。


 マティスも。


 中央記録院の者たちも。


 白い風柱の音だけが、低く街を震わせている。


 ユリウスだけが、黙って人数表を見ていた。

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