第五節 ― 白風脈
フェル=シェリカの中心へ近づくほど、街の音は増えていった。
路地ごとに違う高さで鳴る風鈴。軒先で乾いた音を返す骨笛。霧の中を青白く流れる霧灯。そのどれもが勝手に鳴っているようで、サリカは歩きながら何度も足を緩め、耳を澄ませていた。
西風路から離れても、彼女の表情は戻らなかった。
「下から、というのは」
エリスはサリカの横へ並んだ。
「地下に何かある、という意味ですか?」
「少し違います」
サリカは風鈴杖を持ち直す。
「道の下に、もう一つ道があるようなものです」
「地下道?」
「違います」
「では何です?」
「だから、道の下にある道です」
「それで分かるのは北の人だけでは?」
前を歩いていたルオが振り返る。
「俺にも分からない」
「安心しました」
「何でだ」
「私だけじゃなかったので」
「そこは不安になるところだろ」
サリカがわずかに笑った。
けれど、その笑みもすぐ消える。
「白風脈です」
今度は明確な名前が出た。
「この街の古い風路を、私たちはそう呼んでいます」
エリスは反射的に台帳へ手を伸ばしかけたが、サリカは止めなかった。
「書いても?」
「その名前は構いません。ただ、それだけで分かったと思わないでくださいね」
「……気をつけます」
少しだけ釘を刺された気がする。
白風脈。
文字にすれば、たった四文字だった。
だが、フィエラの家で学んだばかりだ。同じ名前を書いたからといって、同じものを見ているとは限らない。
街路が開けた。
それまで建物に遮られていた視界の先へ、白い柱が現れる。
エリスは思わず足を止めた。
都市門から遠くに見えていたものと同じだった。
近くで見ると、塔ではない。
霧氷を何層にも重ねたような巨大な柱が、広場の中央から空へ伸びている。表面には文字も彫刻もない。ただ、薄い霜の筋が無数に走り、それが光の加減でゆっくり位置を変えているように見えた。
柱の周囲には、大小さまざまな風鈴と骨笛が吊られていた。
直接柱へ括りつけられているものもあれば、広場を横切る細い紐に下がっているものもある。
不思議なのは、風の強さが一定ではないことだった。
エリスの頬にはほとんど風を感じない。
それなのに、柱の東側では小さな鈴が激しく鳴り、西側の骨笛は低く長い音を返している。高い位置では羽飾りが回り、足元近くの鈴は微動だにしない。
「……これを全部聞くんですか?」
「全部ではありません」
サリカは広場へ入った。
「聞けるものだけです」
それも十分すごいと思う。
サリカは白い風柱の前で立ち止まり、杖の石突きを石畳へ置いた。
一度、目を閉じる。
それだけだった。
祈りの言葉もない。
大げさな儀式もない。
だが彼女が静かになった瞬間、エリスには広場の音そのものが少し変わったように感じられた。
サリカが右へ顔を向ける。
遠くで高い鈴。
今度は左。
骨笛が二度。
わずかに眉を寄せる。
足元に近い鈴が、風もないのに短く鳴った。
エリスは息をするのも邪魔な気がして、黙った。
マティスも筆を止めている。
ユリウスだけが柱そのものではなく、サリカの反応を見ていた。
ルオは少し離れた位置で風を読もうとしているらしい。
だが、いつもの白霧陸峡にいる時とは様子が違った。
右を向く。
すぐ左へ。
眉をしかめる。
数歩進み、また止まる。
「分からないんですか?」
小声で訊くと、ルオは露骨に嫌そうな顔をした。
「うるさい」
「図星ですね」
「外なら分かる」
「ここも外です」
「そういう意味じゃない」
サリカが目を閉じたまま言った。
「ルオは広い風を読む方ですから」
「広い風?」
「雪原なら、風は地形や温度を覚えます。森なら木々を。谷なら斜面を」
白い風柱の周囲で、別々の鈴が鳴る。
「街の風は、人の暮らしを覚えます」
ルオが即座に答えた。
「だから苦手なんだ」
エリスは彼を見る。
「人付き合いの問題では?」
「違う」
「ずいぶん早い否定ですね」
「違うからだ」
「街の人が多いから、風も読みにくいんでしょう?」
「人だけじゃない」
ルオは面倒そうに周囲を指した。
「朝だけ開く店。冬だけ使う道。子供しか通らない抜け道。葬式の時しか鳴らさない鈴。誰かが引っ越せば変わるし、家族が増えても変わる」
一度言葉を切る。
「多すぎる」
「説明できるじゃないですか」
「今そこか?」
「大事です」
マティスが小さく息を吐いた。
「その点については後で記録しましょう」
「しなくていい」
「記録価値があります」
「ない」
いつもの調子に戻りかけたところで、サリカが目を開けた。
「西南区の音が薄いですね」
空気が変わる。
「フィエラさんのところですか?」
「そこだけではありません」
サリカは柱の西側へ回った。
指先で一つの骨笛へ触れる。
鳴らさない。
そのまま耳を近づける。
「三本、古い到達音が弱っています。二本はほとんど聞こえません」
マティスがすぐ記録を始める。
「標準地名札の導入区域と一致しますか?」
「一部は」
「一部?」
ユリウスが確認する。
サリカは頷いた。
「標準化されていない北側にも、弱っている風路があります」
エリスは少し驚いた。
「では、地名札だけが原因ではない?」
「そう考える方が自然です」
サリカは柱の表面へ掌を当てる。
霜の筋が、指先の周囲でごくわずかに曇った。
「白風脈そのものが、今年は少し不安定でした」
「以前から?」
「ええ。冬の終わりと春の前は、毎年多少は揺れます」
サリカは淡々と話す。
「古い風路には、使われなくなったものもあります。逆に、新しく人が住み始めた場所へ風が寄ることもあります」
「老朽化も?」
ユリウスが訊いた。
「あります。ここはずっと同じ街ではありませんから」
エリスは白い柱を見上げた。
見た目には頑丈そうだった。
けれど、白風脈が石や管のようなものではないなら、壊れ方も同じではないのだろう。
使われなくなる。
忘れられる。
新しい暮らしが増える。
それも老いることなのかもしれない。
「そこへ標準化が入った」
マティスが低く言った。
サリカが頷く。
「複数あった呼び名のうち、一つだけが強く使われるようになりました」
「地図、配送、行政、契約記録」
マティスが数える。
「すべて同じ正式名称を参照する」
「はい」
サリカは風柱の前に吊られた細い鈴を二つ、指先で離した。
「今までなら、こちらが弱ればこちらへ流れていた」
二つの鈴。
片方を軽く揺らす。
次にもう片方。
「《二鈴の家》から行けない日は、《白い煙突》から行く。《西風ばあさん》が薄ければ、《冬鳥の窓》を使う」
エリスには、フィエラの家へ向かった時のことがすぐ浮かんだ。
一つの道が切れても、別の関係から近づけた。
「でも正式名称だけが繰り返し使われると」
「風も、そこを強く覚えます」
サリカが二つの鈴の片方だけを鳴らした。
もう片方は静かなままだ。
「それまで分散していた到達が、一方向へ寄り始める」
エリスの視線が白い風柱へ戻る。
「偏ってる……?」
「ええ」
今度はユリウスが答えた。
彼はすでに資料を広げていた。
先ほど西風路で確認した標準化区域と、サリカが示す異常区域を照らし合わせている。
「標準化がなければ、今回の偏りが起きなかった可能性はあります」
言葉を切る。
「ですが、白風脈が完全に健全だったとも言えない」
「そうです」
サリカははっきり認めた。
「もともと弱っていたところへ、強い流れを一本通してしまった。私は、そう聞いています」
ユリウスは地図を見つめたまま数秒考えた。
その後の判断は早かった。
「試験運用を停止します」
中央記録院員の一人が顔を上げる。
「全市ですか?」
「いいえ」
即答だった。
「一斉撤去はしません」
エリスは少し意外だった。
さっき自分の設計ミスだと認めたばかりだ。なら、すぐ全部取り外すのかと思っていた。
ユリウスは地図上を指でなぞる。
「現在、標準化との関連が確認できているのは西南区を中心とした範囲です。北側には未導入でも異常がある」
「全市で外せば安全なのでは?」
エリスが訊く。
「分かりません」
ユリウスは彼女を見る。
「導入済みの住所をすでに使っている救急、配送、行政があります。突然全て停止すれば、別の混乱を起こす可能性がある」
それから中央記録院員へ向き直る。
「西南区、旧霊域境界、白風脈偏差が基準値を越えている街区から停止。新規の標準地名札設置も凍結してください」
「既設札は?」
「危険区域から順次外します。撤去前に現地呼称との接続を記録すること。単に抜かないでください」
「了解しました」
「風祈り庁へ人員を回します。外部照合が必要な業務には暫定参照番号を使う」
エリスが出した案だ。
もう、臨時運用に入れている。
「ヴェルナ候補生」
「はい」
「マティス記録官と暫定様式をまとめてください。完璧でなくて構いません。今必要なのは、現場が使えるものです」
「分かりました」
返事をした瞬間、胸が少し高鳴った。
ユリウスの指示は早い。
けれど雑ではない。
全部外せばいい、と単純化しない。
原因が一つだと決めつけもしない。
起きていることを見て、必要なところから変えていく。
エリスが記録官として憧れてきた人物は、実際の現場でも本当に優秀だった。
「でも」
ルオの声だけが、少し低かった。
彼は白い風柱を見ている。
「止めただけじゃ戻らない」
ユリウスも否定しなかった。
「理由を聞いても?」
「もう流れ始めてる」
「一本へ?」
ルオは頷いた。
「さっきの札の風と同じだ。外した後も残ってた」
サリカが再び目を閉じる。
「私もそう思います」
少し間を置く。
「人が何度も同じ道を歩けば、その道は強くなります。呼び名も同じです」
風鈴杖を白い柱へ寄せる。
「新しい正式名称が使われた時間は短い。でも、使った人数が多すぎた」
エリスは地図を見る。
行政。
配達。
中央記録院。
外部商人。
一日に何度、同じ名前が呼ばれたのだろう。
「新しい一本の道を、街全体が覚えかけている?」
「はい」
サリカの声がわずかに沈む。
「本来なら、季節や暮らしに合わせて少しずつ変わるものです。でも今は、変わり方が速すぎます」
白い風柱の高いところで、風鈴が一つ鳴った。
すぐ別の場所で同じ音。
また別の場所。
エリスは顔を上げる。
「今の……」
「静かに」
サリカの声だった。
先ほどまでとは違う。
全員が口を閉じた。
サリカは目を閉じている。
表情から血の気が引いていく。
白い柱の周囲で、今度は骨笛が鳴った。
一本。
離れた場所でもう一本。
高さも長さも違うはずなのに、同じ低い音だった。
「サリカさん?」
返事がない。
ルオも異変に気づいたらしい。
「おい」
白い柱の表面を走る霜の筋が、一斉に同じ方向へ傾いた。
東でも西でもない。
下へ。
まるで柱の内部へ吸い込まれていく。
サリカが目を見開いた。
「伏せて!」
反射的にエリスは身を屈めた。
次の瞬間。
白い風柱の奥から、腹の底まで震わせる低音が響いた。
ごう、とも。
鐘、とも違う。
都市そのものが喉を鳴らしたような音だった。
遅れて、広場じゅうの風鈴が鳴る。
さらに遠く。
街路の向こう。
屋根の上。
霧の中。
フェル=シェリカ中の鈴が、まるで一つの巨大な鈴になったように、同じ高さの音を返した。
エリスは石畳へ手をつく。
地面が震えている。
「何が――」
最後まで言えなかった。
石畳の隙間から白い霧が噴き上がった。
一本。
二本。
広場のあちこちから一斉に。
霧は腰の高さを越え、白い風柱を包み込み、そのまま周囲の街路へ雪崩れ込んでいった。




