第一節 ― 白霧陸峡
北へ進むほど、道から文字が減っていった。
最初に消えたのは宿駅の案内板だった。アウレオン北境を出たばかりの街道では、半刻も歩けば次の宿駅までの距離と方角が記された木札が立っていたのに、それが一つ置きになり、やがて番号だけを刻んだ小さな標識へ変わる。さらに北へ進むと、それすら雪と枯れ草の間に埋もれ、代わりに腰ほどの高さの測量杭がぽつぽつ残るだけになった。
エリスは歩きながら、何度目か分からないほど地図と街道を見比べた。
道そのものは、まだ道と呼べる。二台の馬車がすれ違えるほどの幅があり、雪の下には踏み固められた土が続いている。けれど、それを「ここである」と保証するものが、少しずつ薄くなっていた。
「第八十二測量杭、確認」
エリスが口にすると、隣を歩くマティスが自分の地図へ目を落とした。
「位置も記録と一致しています」
「次が八十三。その先に距離石が一つ。それを越えれば白霧陸峡南端ですね」
「予定上は」
最後の一言が気になって、エリスは横を見る。
マティスは相変わらず端正だった。北風を受けても銀灰の髪はほとんど乱れず、白灰色の外套もエリスのものほど雪まみれになっていない。
「予定上は、って何ですか」
「この先の記録精度を考えれば、断定を避けただけです」
「地図に境界線が引いてあります」
「地図に線が引いてあることと、現地に線があることは別問題でしょう」
「それはそうですけど」
理屈として正しいから腹が立つ。
エリスは足元の雪を少し強く踏みながら、背負った荷を肩で持ち上げた。出発前にマティスから減らすよう勧められた資料の重さが、今になって妙に自己主張している。
それでも置いてこなくて正解だった、と自分に言い聞かせる。
白霧陸峡について分かっていることは少ない。地名の不一致、道標の位置変化、商隊の遭難、案内人名簿の欠落。だからこそ、現地で比較できる資料は多い方がいい。
そう考えたところで、前方の霧の中に石が見えた。
「あれですね」
エリスは歩調を早めた。
雪の縁から突き出した灰色の石柱。膝より少し高く、側面にはアウレオン中央記録院の測量印が刻まれている。風雪に削られているものの、数字はまだ読めた。
《北方基準路・最終標》
その下には小さく、南側の測量座標と設置年。
エリスは手袋越しに表面の雪を払い、何となく息を吐いた。
「ここまでなんですね」
「何がです?」
「ちゃんと記録されている場所が」
言ってから、少し言葉が強かったかもしれないと思う。
マティスは特に気にした様子もなく、標石の向こうへ視線をやった。
「少なくとも、中央側が継続的に管理している基準路はここまでです」
標石の先に、目立った違いはなかった。
空は灰白色。低い雲の下に雪原と湿地が広がり、その間を細い街道が北へ伸びている。遠くの草地には黒い岩がいくつか見え、そのさらに先は白い霧に呑まれていた。
ただ、妙に静かだった。
風はある。外套の裾も揺れている。なのに、少し前まで聞こえていた街道脇の枝鳴りや、遠くを渡る鳥の声がない。
エリスは標石のこちら側と向こう側を見比べる。
「……普通ですね」
「何を期待していたんです?」
「いえ。記録不安定圏っていうくらいですから、もっとこう……境界を越えた瞬間に霧が押し寄せるとか」
「報告書を読みすぎると、現象まで劇的であるべきだと思い始めるようですね」
「思ってません」
「今、口にしましたが」
エリスは聞かなかったことにして、標石を越えた。
一歩。
二歩。
何も起こらない。
五歩ほど進んでから振り返る。標石は同じ場所にある。
「ほら。何も――」
言いながら地図を開き、エリスは止まった。
目の前に見えている街道と、紙面の線がほんの少しだけ違う。
地図では、最終標を越えた道は北北東へ緩やかに曲がっている。しかし現地の街道は、もっと東寄りへ伸びているように見えた。
「マティスさん」
「はい」
「この先、地図だと右へ曲がってますよね」
「そうですね」
「でも、道はほぼ真っ直ぐです」
マティスも地図から顔を上げた。
何度か視線を往復させる。
「誤差の範囲では?」
「この縮尺なら、ちょっと大きくないですか」
「測量時期が古い。積雪や湿地の状態で街道が付け替えられた可能性もあります」
それなら説明はつく。
エリスは納得しかけて、念のため地図の余白へ小さく印をつけた。
《基準路線と現地街道に軽微な偏差。再測量要》
文字は問題なく残る。
少し安心した。
「書けるじゃないですか」
「誰も書けないとは言っていません」
「でも、報告では記録が消えたり、位置がずれたりすると」
「それを確認するために来たのでしょう」
その通りだった。
エリスは気を取り直して白紙台帳を取り出した。
セヴランから渡された、罫線も項目もない記録帳。何を書けばいいのかすら自分で決めろと言われたときは不親切だと思ったが、こうして現地へ立つと、既定様式がないことはむしろ都合がよかった。
一頁目を開く。
まだ何もない。
そこへ日付を書く。
文字は残った。
調査者。
《エリス=ヴェルナ、マティス=レクトール》。
これも残る。
気温。風向。視程。積雪の深さ。
全部、書ける。
エリスはわずかに肩の力を抜いた。
「今のところ異常なし」
「地図との偏差は?」
「それは異常というより、未照合です。ちゃんと分けます」
「結構です」
少しだけ褒められた気がして、エリスは次の行へ筆を置く。
場所。
そこだけは迷わなかった。
《白霧陸峡南端》。
最後の一文字を書き終える直前だった。
筆先が動かなくなった。
「……あれ?」
紙へ引っかかったのかと思い、少し力を入れる。
動かない。
筆を持ち上げようとしても、今度は先端が紙から離れない。
「ヴェルナ候補生?」
「ちょっと待ってください」
エリスは慎重に軸をひねった。
ぱき、と小さな音がした。
筆先から白い欠片が落ちる。
氷だった。
「……不良品?」
思わず呟き、筆を顔の近くへ持ち上げる。
耐寒インクは、北境用に調整されたものだ。この程度の気温で凍るはずがない。実際、日付も気温も問題なく書けている。
マティスは何も言わず、自分の二重帳を開いた。
銀の筆記具を取り出し、黒頁へ短く何かを書く。
文字は残る。
続けて、その下へ場所を書いた。
《白霧陸峡南端》。
最後まで書けなかった。
銀の筆先が途中で白く曇り、薄い霜に包まれる。
マティスが眉を寄せた。
「私のもです」
エリスは自分の筆と彼の筆を見比べた。
「二本同時に故障します?」
「同一環境で同一規格なら、あり得なくはありません」
「今、そういう顔してません」
「どういう顔です?」
「あり得ないと思ってる顔です」
マティスは否定しなかった。
エリスは白紙台帳へ視線を戻す。
日付はある。
名前もある。
気温も、風向も、視程も残っている。
場所だけが、途中で止まっていた。
《白霧陸――》
それ以上、筆が進まなかった。
「……地名だけ?」
エリスは別の紙を取り出した。
試す。
《雪》。
書ける。
《北》。
書ける。
《街道》。
問題ない。
少し迷ってから、
《白霧陸峡》。
筆先へ、すぐに霜がついた。
「やっぱり」
「別のインクでも同じですね」
マティスが耐寒液の瓶を確認している。
エリスは紙面の文字をじっと見た。
地名を書こうとすると凍る。
聞いていた話とは少し違う。記録が消えるわけでも、文字が白く抜けるわけでもない。ただ、書けない。
だからこそ、余計に気味が悪かった。
「温度の問題じゃないなら、構文干渉?」
「断定はできません」
「でも二人同時です」
「現象が再現したことと、原因が確定したことは別です」
すぐに釘を刺される。
エリスは唇を尖らせながら、白紙台帳へ《地名記録時のみ筆記媒体凍結》と書き込んだ。
これは残った。
「現象そのものは書ける」
「そのようですね」
「なら、調べられます」
声に出すと、少し気持ちが落ち着いた。
書けないなら、書けないという事実を記録する。何が書けて、何が書けないのかを分ければいい。条件を一つずつ洗えば、規則が見えるはずだ。
エリスは台帳を閉じる前に、ふと思いついて付け加えた。
《地名については仮記録とする》。
問題なく書けた。
少し勝った気がした。
「書き方を変えれば通るみたいです」
「勝負ではありませんよ」
「分かってます」
マティスは何も言わなかったが、たぶん分かっていないと思われている。
二人は再び北へ進んだ。
霧は急に濃くなるわけではなかった。
気づけば少しずつ遠景が削られている。五百歩先まで見えていた雪原が三百歩になり、黒い岩の輪郭が白くぼやけ、振り返れば最後の標石も淡い影に変わっていた。
街道そのものは続いている。
だからエリスは、何度か立ち止まりながら地図へ現在位置を書き込んだ。
最終標から北へおよそ四百歩。
右手に黒い岩が二つ。
左手に凍結した浅い窪地。
その先で道がわずかに北西へ曲がる。
観測したものを順に記せば、少なくとも帰路は再現できるはずだ。
「ここです」
エリスは地図の一点へ小さな印を置いた。
「この岩を基準にすれば、最終標からの距離が取れます」
少し先に、人の背丈より高い黒い岩が立っている。
上部が斜めに欠けた特徴的な形。これなら見間違えようがない。
エリスは岩の向きまで地図へ描き込み、満足して顔を上げた。
「これで――」
何気なく、振り返る。
言葉が止まった。
さっきまで左後方にあったはずの小さな岩が、右側にある。
いや、小さい岩だけではない。
最終標からここまで歩く途中、進行方向の左手に並んでいた三つの黒岩。そのうち二つが、今は道の反対側に見えている。
エリスは地図を見る。
現地を見る。
もう一度地図を見る。
「……マティスさん」
「見えています」
「私、左右を逆に書きました?」
「いえ」
「ですよね」
エリスは来た道を数歩戻った。
霧の中で、岩は動かない。
当然だ。
岩なのだから。
なのに位置が違う。
足元の道幅も、少しだけ狭くなっている気がした。
「積雪で見え方が変わった?」
「数分で?」
「霧のせいとか」
「なら、岩の相対位置まで変わって見える理由が必要です」
「分かってます」
エリスは岩へ近づいた。
表面に触れる。冷たい。硬い。少なくとも幻には思えない。
さっき目印にした斜めに欠けた岩も、間違いなく同じものに見える。
その横を通った時、自分たちは岩を右手に見ていた。
今、振り返ると左にある。
「……動いた?」
口から出た瞬間だった。
「岩じゃない」
声がした。
エリスとマティスが同時に振り向く。
霧の向こう。
人影がある。
いつからそこにいたのか分からない。
白と灰の霧の中へ溶け込むような外套。背は高く、細身だが、雪の上に立つ姿勢には妙な安定感があった。風が吹くたびに輪郭が見えたり消えたりする。
青年らしい。
けれど顔まではまだ見えない。
エリスは無意識に白紙台帳を胸へ寄せた。
「誰ですか?」
問いに、人影はすぐ答えなかった。
代わりに足元を見て、それから二人の後ろ――エリスたちが来たはずの道へ視線を向ける。
「お前たちが道からずれた」
エリスは反射的に地図を見た。
「ずれたって……道はここにあります」
「ある」
霧の中の男が一歩近づく。
雪を踏む音が、初めて聞こえた。
「でも、お前たちが歩いてた道じゃない」
風が吹いた。
一瞬だけ霧が裂ける。
雪の色に馴染む髪。北方の寒気に慣れた顔立ち。首元には小さな骨笛が下がっている。
青年は、ひどく面倒そうな目でエリスの地図を見た。
「だから、紙ばっかり見て歩くな」
白霧の向こうから現れた青年――ルオ=スノルは、まるで最初からそこに道があることを知っていたように立っていた。




