序節 ― 南の記録官
アウレオン北境記録院の第二資料室は、壁の半分が地図で埋まっていた。
正確には、地図だったもの、と呼ぶべきかもしれない。同じ街道を記したはずの三枚で川の位置が少しずつ違い、同じ測量点から伸びる道が、一枚では北西へ、別の一枚ではほぼ真北へ走っている。赤い訂正線と青い照合線が幾重にも重なり、紙面だけ見れば、誰かが巨大な蜘蛛の巣でも描いたようだった。
その周囲には、白霧陸峡から届いた報告書が留められている。
《地名照合不能》。
《第十三道標、既定測量点より東へ移動》。
《商隊二隊、予定経路上で消息途絶。後日、別街道上にて発見》。
《現地案内人名簿、過去記録との一致確認できず》。
エリス=ヴェルナは最後の一枚を読み終え、紙の端を揃えて壁へ戻した。留め具の角度まできちんと合わせてから一歩下がる。
「……やっぱり、記録が足りてない」
誰に言うでもなく呟き、腕の中の資料束を抱え直した。
地名が一致しないなら、表記を照合する。道標の位置が変わるなら、定期測量を増やす。案内人の名簿に欠落があるなら、登録制度を整備する。遭難が起きるなら、誰が、いつ、どの道を通り、どこで行方を失ったのかを記録する。
原因が分からないことと、原因がないことは違う。
記録が揃えば比較できる。比較できれば異常を見つけられる。異常を見つけられれば、次に同じ場所を通る誰かを守れる。
少なくともエリスは、それが記録官の仕事だと教わってきた。
「ヴェルナ候補生」
机の向こうから呼ばれ、エリスは顔を上げた。
マティス=レクトールが、旅装用の記録帯へ小型の記名盤を収めている。黒に近い濃紺の長衣は出発前だというのに乱れ一つなく、机上には白頁と黒頁を備えた二重帳、銀の筆記具、封蝋印が寸分違わず並んでいた。
「防寒インクは確認しましたか」
「二瓶。予備芯が六本。封記札は十二枚、通常紙が三十六枚、耐湿紙が二十四枚です」
「聞いた以上の情報まで返ってきましたね」
「足りないよりいいでしょう?」
「あなたの場合、荷物の重量が足りすぎる可能性を心配しています」
言われて、エリスは自分の机へ目を向けた。
資料帳。地図筒。筆記具箱。予備のインク。携帯測量具。北境用の地名対照表。さらに個人的に持っていく外地記録論が二冊。
一瞬だけ考え、地名対照表を手に取る。
「これを置いていけば――」
「一冊減らすなら、そちらではなく私物の本では?」
「必要資料です」
「表紙が擦り切れるまで読んだ本を、現地で再読する必要がありますか」
「あります」
即答すると、マティスはそれ以上追及しなかった。口元がほんのわずかに動いた気がしたが、エリスは見なかったことにした。
机へ戻り、最後の確認用名簿を開く。
調査団員の氏名、所属、役割、緊急時の連絡先。規定に従って並んだ欄を指で追っていったエリスの手が、途中で止まった。
一行だけ、名前がない。
役割と人数だけが記され、氏名欄が白く残されている。
見落としかと思い、一頁前へ戻る。添付された人員申請書も確認する。やはり同じ箇所だけ空欄だった。
エリスは眉を寄せ、筆記具へ手を伸ばした。
「気になるか」
低い声が降ってきた。
いつの間にか、セヴラン=オルステッドが隣に立っていた。
北方調査団長の墨紺の外套はすでに旅支度へ変わっている。灰褐色の髪にはこめかみから白いものが混じり、左眉の上には古い裂傷痕がある。四十を過ぎた男の落ち着いた顔つきだったが、視線だけは資料の一文字まで見落とさない記録官のものだった。
エリスは名簿を少し持ち上げる。
「空欄なので」
「空欄は間違いか?」
質問の意図が分からず、エリスは一度だけ瞬いた。
「情報不足です」
「そうか」
それだけ言って、セヴランは名簿を取り上げなかった。訂正を命じることもしない。
エリスの方が落ち着かなくなる。
「団長。ここ、確認しておかなくていいんですか?」
「確認はする」
「でしたら、要確認と記載を――」
「その印をつければ、情報は増えるか?」
「増えませんけど、未確認だと分かります」
「今のお前は、空いている場所を見ると何かを書きたくなるらしいな」
「記録帳ですから」
当然のことを答えたつもりだった。
ところがセヴランは、ほんの少しだけ目を細めた。
「そうだな」
否定も肯定もしない声音だった。
何なのだろう、とエリスが考えたところで、資料室の外が急に騒がしくなった。
廊下を行き交っていた記録院員たちの足音が変わる。誰かが受付へ走り、別の誰かが机の上の書類を慌てて整え始めた。北境記録院は平時から人の出入りが多いが、今の空気は明らかに違う。
マティスも顔を上げる。
「中央からの査察団でしょう」
「今日でしたっけ」
「予定より半日早いですね」
その言葉が終わるより先に、資料室の扉が開いた。
数人の記録官が入ってくる。
中央記録院の上級官服。北方用の外套を重ねていても、仕立ての違いは一目で分かった。先頭を歩く男は細身で背が高く、黒に近い灰褐色の髪の右こめかみにだけ白い一房がある。
左腕には、薄い金属装丁の書物が固定されていた。
エリスはその人物を知らない。
少なくとも、直接会ったことはない。
それでも次の瞬間、入口で応対した院員の声を聞いて、背筋が固まった。
「ユリウス=レグナート卿。長旅、お疲れさまでございました」
危うく抱えていた資料を落としかけた。
横からマティスの手が伸び、ずれた紙束の下を支える。
「ヴェルナ候補生」
「落としてません」
「まだ、ですね」
「知ってました?」
「査察団の責任者であることは」
「どうして教えてくれなかったんですか」
「聞かれませんでしたので」
「こういうことは聞かれなくても教えてください!」
声を抑えて抗議しながら、エリスはもう一度入口を見る。
ユリウス=レグナート。
《外地記録における存在保証と記名責任》。
外地調査を志す記録官なら、一度は読む基本書。その著者本人が、十歩も離れていないところにいる。
エリスの荷物の中にも一冊入っている。何度も読み返し、気になった箇所へ紙片を挟み、余白には自分なりの注釈まで書き込んだ。マティスに「重量を減らせ」と言われても置いていかなかった、まさにその本である。
「背筋」
マティスが小声で言った。
「伸びてます」
「伸びすぎです」
言われて肩の力を抜こうとしたが、今度はどこまで抜けば自然なのか分からなくなった。
ユリウスは、エリスが想像していたよりずっと穏やかな人物に見えた。
中央から来た高官だからといって、北境院の職員を急かすこともない。案内役の若い院員が資料室の場所を一度間違えたらしいが、「こちらも予定より早く着きましたから」と先に詫び、相手を恐縮させないようにしている。
そのままセヴランの前まで来ると、足を止めた。
「オルステッド団長。ご無沙汰しています」
「ああ」
セヴランの返事は短かった。
上官と高官の挨拶としては、少し短すぎる気がする。
ユリウスは気にした様子を見せず、壁一面の報告書へ視線を向けた。
「白霧陸峡へ入るのは予定通りですか」
「予定通りだ。お前たちは?」
「私はフェル=シェリカ方面へ。北方地域の記録制度をいくつか確認します。白霧そのものの調査は、今回は皆さんに任せます」
「そうか」
また短い。
エリスが二人を見比べていると、セヴランがこちらを振り返った。
「ちょうどいい。紹介しておく」
逃げる暇はなかった。
「今回、白霧へ入る記録官候補生だ。エリス=ヴェルナ」
ユリウスの淡い灰金の瞳が、まっすぐエリスへ向く。
「ヴェルナ候補生」
「はい!」
資料室に、思ったよりよく声が響いた。
近くで書類を運んでいた院員が一人こちらを見た。マティスは顔を伏せたが、肩がわずかに揺れている。
エリスは耳まで熱くなるのを感じた。
「……すみません」
「謝ることではありません。いい返事です」
ユリウスは笑った。
からかわれたわけではない。そのせいで余計に恥ずかしい。
「北方調査は初めてですか」
「はい。白霧陸峡へ入るのも初めてです」
「では、見るものの多い旅になりますね」
「できる限り、正確に記録するつもりです」
言ってから、少し優等生じみた答えだったかもしれないと思った。
けれどユリウスは笑わなかった。
「大切なことです」
その一言で、胸の奥に入っていた余計な力が少し抜ける。
彼の視線が、エリスの机へ移った。旅荷物の隙間から、見慣れた本の背が覗いている。
「……ずいぶん古い版ですね」
エリスは反射的に本を隠しかけ、途中で止めた。
「読んでいます」
「そのようですね」
角は丸くなり、背表紙には細かな擦れがある。愛読書だということを否定できる状態ではない。
「外地の記録は、誰かがそこにいたことを残すためのものだと、あの本で学びました」
ユリウスは本ではなく、エリスを見た。
「記録は、人を守るためにあります」
その言葉は、驚くほど自然に胸へ入った。
自分がずっと信じてきたことを、その考えを教えてくれた本人から肯定された気がした。
地名を残す。人名を残す。誰がどこで暮らし、何を約束し、何が起きたかを残す。
そうすれば、存在は失われない。
少なくとも、簡単には。
「はい」
今度は大声にならないよう気をつけて答える。
ユリウスは小さく頷いた。
「ただし」
声の調子は変わらなかった。
「記録に人を合わせ始めたら、それは順序が逆です」
エリスは一瞬、返事を忘れた。
意味が分からないわけではない。ただ、今の話のどこへその注意が繋がるのかが分からなかった。
「……はい」
結局、さっきより少し遅れて返す。
ユリウスはそれ以上説明しなかった。
「良い調査を。戻られたら、記録を読ませてもらえれば嬉しいですね」
「もちろんです」
今度こそ声量は間違えなかった。
査察団が別室へ向かい、扉が閉じる。
エリスは数秒そのまま立っていた。
それから、隣を見る。
マティスと目が合った。
「笑いましたよね」
「少しです」
「少しでも笑ったなら同じです」
「レグナート卿を前にして、あれだけ明瞭な返答ができるのは長所でしょう」
「褒めてませんよね?」
「半分ほどは」
「残り半分は何ですか」
「声量です」
反論しかけて、エリスはやめた。そこは否定できない。
代わりに、まだ扉の方を見ていたセヴランへ向き直る。
「団長」
「何だ」
「レグナート卿とお知り合いなんですか?」
セヴランは机上の名簿を閉じた。
「昔、同じ現場にいた」
「いつ?」
「十一年前だ」
答えはそれだけだった。
エリスは続けて質問しようとしたが、セヴランはもう別の資料へ手を伸ばしている。その横顔に、これ以上は話さないという線が引かれていた。
十一年前。
数字だけを頭に置く。
調査記録を探せば分かるかもしれない、と反射的に考えた自分に気づいて、エリスは少しだけ口を閉じた。
「ヴェルナ」
「はい」
セヴランが机の下から一冊の帳面を取り出した。
投げて寄越すような人ではない。エリスの前まで歩いてきて、両手で渡す。
受け取った瞬間、想像より軽いことに驚いた。
表紙は白に近い灰色。雪のように真っ白ではなく、長く光へ晒した羊皮紙のような色をしている。中央記録院の紋章も、記録区分を示す色帯もない。
開く。
一頁目から何も書かれていなかった。
二頁目も、三頁目も同じだ。
罫線すらない。
「……台帳ですよね?」
「そうだ」
「様式は?」
「ない」
「項目は?」
「自分で決めろ」
記録官候補へ渡す道具として、あまりに不親切だった。
エリスは頁をめくる。どこまで行っても白い。
「これを、白霧の調査記録に?」
「ああ」
セヴランが表紙へ指先を置いた。
「必要なものを書け」
そこまでは分かる。
「書いてはならないものは、余白へ置け」
分からなくなった。
エリスは顔を上げた。
「書いてはならないなら、記録から除外するべきでは?」
「そう思ううちは、その頁は白いままでいい」
「……団長」
「何だ」
「たまに、わざと分かりにくく言ってませんか?」
マティスが筆記具をしまう音が、少しだけ止まった。
セヴランは怒らなかった。ほんのわずかに口元を緩める。
「分かりやすく説明して覚えられることなら、もう教えている」
「つまり、自分で考えろと」
「理解が早くて助かる」
「今のは分かりやすかったです」
白紙台帳を閉じる。
何も書かれていない表紙を見ていると、妙に落ち着かない。記録帳とは、書く場所が決められているものだ。日付、場所、対象、観測結果、署名。必要な欄があるから、何を残すべきか判断できる。
これは、それすら自分で決めろと言っている。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
少なくとも、白霧陸峡から持ち帰る最初の正式な調査記録を、自分自身の判断で作れる。
そう思えば、胸の奥が少し高鳴った。
エリスは白紙台帳を胸元へ抱える。
「必ず正確な記録を持ち帰ります」
セヴランの視線が、台帳からエリスへ移った。
「正確であることと、正しいことを同じにするな」
また、すぐには意味の取れない言葉だった。
「……今日、そういう言い方をする人が二人目なんですけど」
「誰と一緒にした」
「レグナート卿です」
「それは忘れろ」
「記録官に忘れろって言います?」
セヴランは答えず、荷物を持ち上げた。
どうやら会話は終わりらしい。
北境記録院を出ると、冷たい空気が頬へ刺さった。
中央大陸の冬とは違う。北から吹いてくる風には、まだ見えない雪の匂いが混じっている。遠くの山地は白く霞み、そのさらに向こう、空と地面の境目には薄い霧の帯が横たわっていた。
白霧陸峡。
地図では、アウレオンと北方大陸を繋ぐ境界地帯として一つの名前で塗られている。
壁いっぱいの報告書を見たあとでも、エリスにはまだ、解けない謎というより整理されていない記録の集積に思えた。
ならば、調べればいい。
見たものを書き、起きたことを照合し、足りないところを埋める。
エリスは荷の中へ白紙台帳を収めた。真新しいそれだけが、ほかのどの記録具よりも妙に存在を主張している気がした。
「行きますよ、ヴェルナ候補生」
少し先でマティスが振り返る。
「今行きます」
エリスは北へ続く街道へ踏み出した。
記録院から伸びる道は、しばらく先で二つに分かれている。一方は白霧陸峡の南縁へ。もう一方は中央の幹線へ合流し、その先でフェル=シェリカ方面へ繋がっていた。
遠く、別の門から出た黒い外套の一団が見える。
先頭の男の右こめかみに、白い一房が風に揺れていた。
エリスは一度だけそちらを見てから、自分の道へ顔を戻した。
行き先は違う。
それでも二つの隊列は、同じ北へ向かって歩き始めていた。




