第二節 ― 風読みルオ=スノル
霧の中から現れた青年は、こちらへ歩み寄ってくるでもなく、その場に立ったままエリスたちを眺めていた。
年齢はエリスより少し上だろう。雪と霧に馴染む灰白の外套を着込み、腰には雪原用らしい短い刃物が下がっている。首元から覗く骨笛だけが白く、風に揺れるたび外套の留め具へ小さく触れていた。
旅人にしては荷が少ない。記録官にしては、何も持っていない。
その時点で、エリスの中には確認したいことがいくつも生まれていた。
「あなた、いつからそこにいたんですか?」
「さっきから」
「さっきって、いつです?」
「お前が岩に話しかけてた頃」
「話しかけてません。確認してただけです」
「動いた、って聞いてた」
「あれは独り言です」
「岩相手なら同じだろ」
初対面から会話が噛み合わない。
エリスは眉を寄せた。青年の方も、こちらの質問に付き合う気があまりないらしく、視線を霧の奥へ向けている。
「では確認します。ここは、私たちがさっき通ってきた街道ではないんですか?」
「違う」
「どこで外れました?」
「たぶん、後ろの湿地の手前」
「たぶん?」
「その辺」
「その辺では記録できません」
青年がようやくエリスを見る。
「だから迷ったんじゃないのか」
「どうして記録したことが迷う原因になるんです?」
「紙を見てたから」
「地図は道を確認するために見るものです」
「道を見ればいいだろ」
「道が変わるから地図を見るんです!」
「地図も合ってなかっただろ」
エリスは口を開いたまま止まった。
事実だった。
青年はそれ以上言うことがないと判断したらしい。肩をすくめ、踵を返しかける。
「待ってください!」
エリスが呼び止めると、露骨に面倒そうな顔で振り返った。
「まだ何かあるのか」
「あります。名前を聞いてません」
「必要か?」
「必要です」
「何に」
「誰と話したのか記録するのに」
青年の目が、エリスの胸元に下がった白紙台帳へ落ちた。
ほんの一瞬だったが、さっきまでとは違う警戒が混じった気がした。
「……ルオ」
「ルオ?」
「ルオ=スノル」
エリスはすぐに台帳を開こうとした。
「書くな」
手が止まる。
「どうしてです?」
「今、言っただろ」
「名前を聞いたんですから、記録していいのでは?」
「聞くのと書くのは違う」
「何が違うんですか」
「違うから違う」
「説明になってません!」
「全部説明しないと歩けないのか、南の人間は」
さすがに腹が立った。
「こちらは調査で来てるんです。分からないことを確認するのは当然でしょう」
「確認してる間に、また道が変わるぞ」
ルオは霧の向こうへ顎を向けた。
確かに、少し前より白さが濃くなっている。岩の輪郭もぼやけ、五十歩先さえ曖昧だった。
マティスが二人の間へ静かに入った。
「議論は移動しながらでもできます。ルオ=スノル殿、この付近の案内人とお見受けしますが」
「案内はする」
「助かります。私たちは北方調査団所属です。フェル=シェリカ方面へ抜ける予定ですが、まず白霧陸峡を横断する必要があります」
「二人だけで?」
「後続とは合流予定です。先行確認を兼ねています」
ルオがエリスとマティスを交互に見た。
「案内人なしで入ったのか」
「基準路までは記録がありました」
エリスが答える。
「で、今ここだ」
「……そうですね」
言い返しにくい。
マティスは外套の内側から細く折り畳まれた書面を取り出した。
「でしたら、正式に案内を依頼します。白霧陸峡南縁から北側中継地まで。報酬と責任範囲についてはこちらに――」
「書かない」
ルオは書面を見る前に言った。
マティスの手が止まる。
「契約ですよ」
「だからだ」
今度はマティスまで黙った。
エリスは二人の顔を見比べる。
「契約だから書かないって、逆じゃないですか?」
「逆じゃない」
「契約は書いて残すものです」
「南ではな」
「後から条件を確認するためにも必要でしょう」
ルオは答えず、街道脇の雪が厚く積もった場所へ歩いた。
「ちょっと、どこへ――」
「契約するんだろ」
振り返りもせずに言う。
エリスが追うと、ルオは雪の前で片膝をついた。
手袋を外しもしない。道具も出さない。
ただ、雪面へ顔を近づけ、静かに息を吐いた。
白い吐息が雪へ触れる。
最初は、それだけに見えた。
次の瞬間、吐息の落ちた場所から細い霜の線が広がった。
「……え」
エリスは思わずしゃがみ込む。
雪の結晶同士がつながり、幾何学的な紋様を描いていく。文字ではない。少なくともエリスが知る契約構文の文字体系とは違う。それでも、ただの自然現象ではないことだけは分かった。
ルオが短く言う。
「北まで案内する。危険を感じたら、俺の指示を優先する」
霜紋の一部が淡く光る。
「料金は北側へ着いてからでいい」
さらに別の線が伸びた。
「無理だと思ったら戻る。お前らが嫌だと言っても戻す」
「最後だけずいぶん一方的ですね」
「死なれるよりいい」
返す言葉を探している間に、霜紋は一つの輪へまとまった。
ルオがエリスを見る。
「それでいいなら、息しろ」
「息?」
「ここへ」
指さされたのは霜紋の中央だった。
「署名じゃなくて?」
「息」
「指印も?」
「いらない」
「本人確認は?」
「今、目の前にいるだろ」
「そういう問題じゃなくて……」
「面倒だな」
「契約なんですよ!」
「だから、本人がいれば足りる」
価値観が違いすぎる。
エリスは不安を覚えながらも、ルオと同じように雪へ息を吐いた。
自分の白い吐息が霜紋に触れる。
一瞬、冷たい光が走った。
マティスも少し迷った末、同じように息を落とす。
三人分の吐息が重なったところで、霜紋全体が淡く白くなった。
「これで終わり」
ルオが立ち上がる。
「待ってください。控えは?」
「ない」
「契約文は?」
「今見ただろ」
「でも――」
エリスが雪を見る。
霜紋の端がもう薄くなり始めていた。
「消えますよ」
「終わった契約が残ってどうする」
あまりにも当然のように言われ、エリスは目を瞬いた。
「後で確認できません」
「後で揉めるために契約するのか?」
「そういう意味ではありません!」
思わず声が大きくなる。
ルオが少しだけ眉を上げる。
「じゃあ何のためだ」
「契約内容を双方が確認できるようにです。認識が違っていたら困るでしょう」
「今、三人とも見てた」
「忘れるかもしれません」
「忘れたなら、守れない約束だったんだろ」
「そんな雑な――」
「お前、全部紙が覚えてくれるから、自分で覚えなくなってないか?」
その言い方には、少しだけ棘があった。
エリスは反射的に言い返そうとしたが、隣からマティスが先に口を開く。
「少なくとも、契約としては確認しました」
エリスが振り向く。
「マティスさん?」
「形式は我々の知るものと異なりますが、条件は聞きました。双方の意思表示もありました」
「でも記録が残りません」
「だからといって、今ここで議論を続ける方が危険でしょう」
珍しく現実的なことを言われてしまった。
雪面へ視線を戻す。
霜紋はもう半分ほど消えている。
文字に写したい。
強く思う。
しかし、さっき地名を書こうとした筆が凍ったことを思い出し、エリスは手を止めた。
数呼吸もしないうちに、霜紋はすべて雪へ溶けた。
跡すら残っていない。
「……本当に消えた」
「だから行くぞ」
ルオはもう歩き出していた。
「ちょっと待ってください」
「今度は何だ」
「どっちへ行くんです?」
「北」
「それは分かります!」
エリスが地図を開く。
「ここからなら、今いる地点を確定して――」
「閉じろ」
「まだ何もしてません」
「する顔してる」
「顔で決めないでください」
ルオはため息を吐いた。
首元の骨笛を取り、指先で軽く回す。
「一回しかやらないから、ちゃんと見ろ」
「何を?」
答えはなかった。
ルオが骨笛を口に当てる。
吹く。
音は、エリスが想像していたより低かった。
風笛のような高い音ではない。遠くで氷が軋んだような、ごく短い響き。
それだけだった。
なのに、霧が動いた。
正面から吹いていたはずの風が一度だけ横へ流れ、白い幕を押しのける。
雪原の奥に道が現れた。
「……あ」
エリスは声を漏らした。
さっきまで何もないように見えた場所に、細い踏み跡が続いている。
街道とは呼べない。
雪の中にわずかな窪みがあり、ところどころ草の先端が露出しているだけだ。それでも、その先だけ霧が薄く、百歩ほど先まで地面の形が見えた。
右側には黒い岩。
その向こうは低い湿地。
左は少し高くなっていて、雪の下に固い地面が続いている。
ルオが指を差す。
「左を歩く」
「右の方が平らじゃないですか?」
「下が水だ」
「凍ってます」
「上だけな」
エリスは口を閉じた。
見ただけでは分からない。
ルオはすでに地形を確かめるように雪を蹴り、進路を取っている。
エリスは急いで地図を膝へ広げた。
「待ってください。この道を記します」
「今見たろ」
「見ただけでは後で再現できません」
「再現しなくていい」
「帰り道に必要でしょう!」
「帰りも風を見る」
「それはあなたがいる前提じゃないですか」
ルオが振り返った。
「だから今、案内を頼んだんだろ」
正論なのが腹立たしい。
エリスは無視して筆を走らせた。
最初の岩を基準点。
左へ四十歩。
その先をやや北寄りへ。
湿地との距離。
目立つ窪地。
今度こそ見たものを正確に残す。
地図の線を引き終え、エリスは顔を上げた。
「できました」
ルオは何も答えなかった。
ただ、前方を見ている。
「何です?」
エリスも同じ方向を見る。
道がなかった。
「……え?」
さっきまで霧の切れ目に見えていた細い踏み跡が消えている。
湿地の位置も違って見えた。
右手にあったはずの黒い岩は、正面寄りへずれている。
エリスは地図を見る。
顔を上げる。
もう一度地図を見る。
「そんな」
ほんの数分だ。
自分が地図へ書き込んでいる間に、見えていた道がなくなった。
ルオはエリスの手元を見た。
「今見たものを覚えろ」
「記憶は変わります」
「紙も変わっただろ」
エリスは反論しようとした。
けれど、自分の地図に描かれた線と、その先にある白い霧を見比べると、言葉が出てこなかった。
紙の上の道は残っている。
正確に。
少なくとも、書いた瞬間の道は。
なのに、その正確さは今、何の役にも立たない。
「道が変わったんですか」
「違う」
ルオは骨笛を指先で握ったまま答えた。
「風が変わった」
「それで道まで?」
「ここじゃ、そういうものだ」
説明としては足りない。
足りないのに、今目の前で起きたことだけは否定できなかった。
ルオが霧へ目を細める。
しばらく何も言わず、風の向きを確かめていた。
やがて少し左へ身体を向ける。
「行くぞ」
エリスはまだ地図を見ていた。
「でも、次の道を確認してから――」
「今の道は長くない」
「どれくらいです?」
「知らない」
「またそれですか!」
「分からないものを適当に言うよりいいだろ」
それも、言われてみればその通りだった。
ルオは待ってくれない。
霧の中へ踏み出す。
マティスも二重帳を閉じた。
「行きましょう」
「マティスさんまで」
「少なくとも、彼は我々よりこの土地を理解しています」
「それは……そうですけど」
エリスは地図へ視線を落とした。
開いたままの頁には、もう存在しない道が綺麗に残っている。
筆を握る指へ力が入った。
書いておきたい。
何かあった時のために。
後で確かめるために。
忘れないために。
けれど、その間にもルオの背中は霧へ薄れていく。
「おい」
前から声が飛んだ。
「置いてくぞ」
「今行きます!」
エリスは渋々、筆をしまった。
地図を畳む。
白紙台帳も鞄へ戻す。
両手から紙がなくなると、妙に心許なかった。
それでも顔を上げる。
ルオの外套が、白い霧の中でかすかに揺れていた。
エリスはその背中を追って、初めて何も書かずに白霧の中を歩き始めた。




