第二節 ― 行けない家
使いに案内されて辿り着いたのは、都市門からそれほど離れていない小さな広場だった。
中央には霧灯を吊るした細い柱が立ち、その周囲を石造りの建物が囲んでいる。露店からは焼いた穀物と香木の匂いが流れ、荷を背負った人々が行き交っていた。先ほどまでの慌ただしさだけを見れば、ごく普通の街角にしか見えない。
ただ、広場の隅で薬箱を抱えている若い男だけが、明らかに普通ではなかった。
「戻ってきた……」
男は呆然と呟いた。
肩で息をしている。外套の裾には泥と薄雪がつき、額には寒さの中だというのに汗が浮いていた。
サリカが歩み寄る。
「何度目ですか?」
「五回です。いや、六回……たぶん」
「途中で道を変えました?」
「変えました。最初は西の路地から。次は市場側。そのあと北へ迂回して、灯塔のところから入り直しました」
男は薬箱を抱き直した。指先が白くなるほど力が入っている。
「でも、全部ここへ戻ります」
エリスは広場を見回した。
「迷った、ということですか?」
「だったら、まだいいんですが」
配達員は困ったように首を振った。
「道は分かってるんです。角も間違えてない。途中まではちゃんと行ける。それなのに気づくと、この広場へ出るんです」
「届け先は?」
「フィエラさんです。熱が下がらないって、朝に往診の先生から急ぎで薬を頼まれて」
薬箱へ目を落とす。
「昼までには飲ませないといけない薬です」
声から焦りがにじんだ。
サリカが笑みを消す。
「住所を見せてください」
「はい」
配達員は懐から折り畳んだ紙を取り出した。
その瞬間、エリスには少しだけ安心感が戻った。
紙。
文字。
住所。
少なくとも、そこからなら調べられる。
マティスも同じことを考えたらしく、すぐに配達票を受け取った。
「《第七街区・西風路十三番》」
彼が読み上げる。
数字も文字も明瞭だった。訂正痕もなく、公的な区画印が押されている。
「記載に問題はありませんね」
マティスは中央記録院側が持ち込んだ地図を取り出した。
広場脇の低い石台へ地図を広げ、現在地を確認する。
「ここが西風中央広場。西風路はここから北西へ伸びています」
細い指が地図上を滑った。
「十三番地は――ここです」
「そこへ行ったんです」
配達員が即座に答えた。
「道順もそれと同じです」
マティスは少し眉を寄せる。
「建物番号の変更は?」
「ありません」
サリカが答えた。
「フィエラさんが住んでいる建物そのものも?」
「あります」
「改築や移転は」
「していません」
マティスが地図を見下ろした。
エリスも横から覗き込む。
地図はきれいだった。
街区は線で区切られ、主要道路には名称が振られている。建物には番号が割り当てられ、《第七街区・西風路十三番》も確かに存在していた。
正しい住所。
正しい地図。
存在する家。
それなのに、薬だけが届かない。
「……なら、普通に行けるはずですよね」
エリスが呟く。
「そのはずです」
マティスも同意した。
「少なくとも、記録上は」
その言葉に、ルオがちらりと二人を見る。
何か言いたそうだったが、今回は黙っていた。
エリスはそれが少し腹立たしい。
「何です?」
「何も」
「顔に出ています」
「記録できるか?」
「できませんけど分かります!」
「なら便利だな」
「今そういう話してません!」
横で配達員が戸惑っている。
エリスは咳払いして姿勢を正した。
「……すみません。続けてください」
「いえ」
男は明らかにどう反応すればいいのか分からない顔をしていた。
サリカだけが慣れたように霧灯を持ち上げる。
「実際に歩きましょう」
配達員を先頭に、一行は広場を出た。
西風路は、地図通りに存在していた。
石畳の道が緩く曲がりながら奥へ延びている。軒先には風鈴が揺れ、赤や白の羽布が霧に濡れていた。青い霧灯の向こうを荷車が横切り、そのさらに先には白い煙が一本上がっている。
エリスは地図と景色を見比べながら歩いた。
「最初の角、合っています」
「はい」
マティスが答える。
「次の分岐も記録通りです」
右手に香木屋。
左手に二連の風鈴。
その先を北へ。
配達員は迷っていない。
むしろ、何度も通ったせいだろう。足取りにためらいがなかった。
「次を左です」
角を曲がる。
細い路地に入った。
青白い灯が三つ並び、その奥に低い石垣がある。地図では、その先に西風路十三番があるはずだった。
「ほら」
配達員が声を強張らせた。
石垣沿いに進む。
一つ角を曲がる。
霧が少し濃くなった。
風鈴が鳴った。
次の瞬間。
エリスの目の前に、見覚えのある霧灯柱が立っていた。
「……え?」
立ち止まる。
中央に霧灯。
焼き穀物の露店。
香木。
さっき薬配達員が立っていた石壁。
広場だった。
「戻った」
エリスは反射的に後ろを振り返った。
いま通ってきた路地は、そのまま広場の一角へ続いている。
曲がった覚えはない。
まして、一周した感覚などなかった。
マティスはすぐに地図を開いた。
「あり得ません」
低い声だった。
「歩行距離が合わない」
「でしょう?」
配達員はむしろ安堵したようだった。
「俺も最初、自分が間違えたと思ったんです。でも何度やっても同じで」
マティスは地図から顔を上げ、周囲の建物を確認する。
「現在位置がここなら、先ほどの路地からこの広場へ戻るには最低でも三つの街路を横切る必要があります」
「横切ってないですよね」
エリスも覚えている。
一度曲がった。
それだけだ。
「ルオ?」
彼は路地の入口を見たまま返事をしない。
風を感じているらしい。
少しして、短く言った。
「道はある」
「なら、どうして戻るんです?」
「行き先が合ってない」
「住所は合っています」
マティスが言った。
「それも多分、合ってる」
ルオの答えに、マティスが眉を寄せる。
「両方が正しいのに到達できない、という説明ですか?」
「俺に聞くな」
「あなたが言ったのでしょう」
「だから、そこまでしか分からない」
いつものことだ。
エリスは小さく息を吐いた。
その時だった。
「フィエラばあさんの家なら、そっちじゃないよ」
突然、低い石壁の上から声が降ってきた。
一行がそちらを見る。
少年が座っていた。
十歳を少し過ぎたくらいだろうか。毛糸の帽子を斜めに被り、片手には木の実らしいものを握っている。
「いつからそこにいたんです?」
エリスが訊く。
「さっきから」
「さっきって」
「南の人たちが同じとこぐるぐるしてたあたり」
ルオが小さく笑った。
エリスは聞かなかったことにした。
マティスが少年へ向き直る。
「あなたはフィエラさんの家を知っているのですか?」
「知ってるよ」
「どちらです?」
少年は路地とはまったく別の方向を指した。
「そっち」
南側。
行政地図上では明らかに反対方向だった。
マティスは地図を見せる。
「住所上はこちらです」
少年は地図とマティスの顔を交互に見た。
「でも行けないじゃん」
あまりに当然のように言われて、マティスが黙った。
エリスは危うく笑いそうになったが、薬配達員の表情を見て堪える。
急いでいる。
これは面白い都市風習を調べるための散歩ではない。
「あなたの名前は?」
「テオ」
少年は石壁から飛び降りた。
「フィエラばあさん、また熱?」
「そうなんです。薬を届けたいのですが」
「じゃあ急がないと」
言うなり歩き出しかけたので、エリスが慌てて呼び止める。
「待ってください。どうしてそちらから行けるんです?」
「いつもそっちだから」
「でも住所は西風路十三番ですよね?」
「そうだよ」
テオは振り返った。
「じゃあ、どうして反対へ行くんです?」
「二鈴の家に行くなら、こっち」
「二鈴?」
テオは路地の奥を指差す。
「あっちから行くと《西風路十三番》でしょ。今はそっちじゃ行けないみたいだから、《二鈴の家》から行けばいいじゃん」
エリスの頭の中で、何かが引っかかった。
「同じ家の話をしています?」
「そうだけど?」
「フィエラさんの家に、二つ名前があるんですか?」
「二つじゃないよ」
テオは指を折り始めた。
「《二鈴の家》」
一つ。
「《冬鳥の窓》」
二つ。
「《白い煙突》」
三つ。
「《西風ばあさんの家》」
四つ。
そこで少し考える。
「あと、大人は《第三西風節点》って言う」
五つ。
マティスが静かに加えた。
「《第七街区・西風路十三番》」
「あ、それも」
六つ。
エリスは少年の手を見つめた。
「……ちょっと待ってください」
「何?」
「それは全部、同じ建物ですよね」
「うん」
「家の通称と、公的な住所と、目印が混ざっていませんか?」
「知らない」
「《二鈴の家》は?」
「鈴が二つある」
「《冬鳥の窓》」
「冬になると鳥が来る窓」
「《白い煙突》は」
「煙突が白い」
「《西風ばあさんの家》」
「フィエラばあさんがいる」
「《第三西風節点》は?」
テオはそこで少し困った顔をした。
「大人がそう呼ぶやつ」
「説明になってません」
「だって大人じゃないし」
もっともだった。
ルオが横を向いた。肩が少し動いている。
「笑ってます?」
「別に」
「絶対笑ってますよね」
エリスは気を取り直し、テオを見る。
「では――」
一度言葉を選ぶ。
「本当の名前は?」
テオが首を傾げた。
「全部だけど?」
エリスは言葉を失った。
少年の顔には、冗談を言った様子がまるでない。
その背後で、二連の風鈴が鳴る。
どれか一つが正式で、残りが俗称なのではない。
少なくともテオにとっては、本当に全部だった。
エリスは手元の地図へ目を落とす。
そこには一つしかない。
《第七街区・西風路十三番》。
紙の上では、それで十分に見える。
けれど、その正しい住所を使った薬配達員は、何度歩いても患者の家へ着けない。
「……名前が違うと、道まで違う?」
口にしたものの、自分でも意味が分からない。
ルオだけが少し面白そうな顔をしていた。
「やっと変な顔になったな」
「何ですか、それ」
「白霧で俺がした顔」
「そんな顔してました?」
「してた」
「してません」
「してたぞ」
今度はマティスまで肯定した。
「そこは記録しなくていいです」
「便利ですね、その基準」
サリカが彼らのやり取りを聞きながら、静かにテオが示した道を見た。
青白い霧灯が、風に揺れている。
彼女は杖を持ち直す。
「《第七街区・西風路十三番》だけでは届かなかった」
次に、二つの風鈴へ目を向ける。
「でも、フィエラさんのお宅には、まだほかの呼ばれ方が残っています」
エリスは地図と路地と、少年を順番に見た。
「試すんですか?」
「ええ」
サリカは穏やかに頷いた。
「では、全部使って行ってみましょう」




