第一節 ― サリカ=ヴェリダ
サリカは、音の消えた街の奥を数秒だけ見つめていた。
青白い霧灯が腰元で揺れ、風鈴杖の小さな鈴が澄んだ音を返す。周囲では変わらず無数の鈴と骨笛が鳴っていたからこそ、先ほど途切れた一音が妙に耳へ残った。
けれどサリカは何も説明しなかった。視線を一行へ戻すと、先ほどまでと変わらない穏やかな微笑を浮かべる。
「お待たせしました。まず、皆様には入市の風鈴札をお渡しします」
杖を左手へ持ち替え、肩から下げていた細い袋を開く。
中から取り出されたものを見て、エリスは思わず目を凝らした。
札、と呼ばれたからには、少なくとも何か書けるものを想像していた。
違った。
サリカの掌に載っているのは、指二本ほどの長さしかない薄い骨片だった。白く磨かれた表面には文字も紋章もなく、小さな穴へ淡い紐が通されている。その先に、爪ほどの風鈴が一つ結ばれていた。
「これが、入市証ですか?」
「外から来られた方のための札です」
エリスは一枚受け取った。
軽い。
何より、白い。
表にも裏にも何もない。
隣ではマティスも同じものを受け取り、さっそく骨片を光へ透かしていた。文字を探しているらしい。
中央記録院の一人も、ほとんど同時に口を開いた。
「氏名欄は?」
「ありません」
サリカは即答した。
その場に、小さな間ができた。
中央記録院の記録官が、手の中の札とサリカを見比べる。
「……ありません?」
「はい」
「所属欄は」
「それもありません」
「発行番号は?」
「ありません」
問いを重ねるほど、サリカの返答が簡潔になっていく。
エリスは自分の札を裏返した。やはり何もない。
これでは落としたら誰の札か分からない。それ以前に、誰へ発行したのか後から確認する方法すらなさそうだった。
マティスが眉間をわずかに寄せる。
「では、何をもって本人用の札と確認するのですか」
「息を預けていただきます」
「息?」
「はい。難しいことではありません」
サリカは自分の風鈴杖から、小さな鈴を一つ指先で支えた。
「札を顔の前へ持って、普段通りに息を吹きかけてください。強く吹く必要はありません。名を唱える必要もありません」
中央記録院の者たちは、互いの顔を見た。
誰も最初に動かない。
エリスにも、その気持ちはよく分かった。
氏名を書かない。
署名もしない。
証印も押さない。
代わりに息を吹きかける。
南の記録官が聞けば、冗談だと思うだろう。
「なるほど」
声とともに、一人だけすぐ動いた。
ユリウスだった。
質問もしない。
受け取った骨片を目の高さへ持ち上げると、白い表面へ静かに息を吹きかけた。
冬の空気に、彼の吐息が一瞬だけ白くなる。
それが骨片を包んだ直後、小さな風鈴が鳴った。
りん、と澄んだ一音。
風に鳴らされた音とは少し違って聞こえた。短いのに、妙に耳へ残る。
サリカが目を細めた。
「慣れていらっしゃいますね」
「以前、北方の作法に触れる機会がありましたので」
ユリウスは札を確かめ、そのまま胸元へ結びつける。
「知らない土地へ来たのはこちらです」
一度、中央記録院の一行を見回した。
「こちらが先に作法を覚えるべきでしょう」
「……承知しました」
先ほど質問していた記録官が、少しばかり気まずそうに自分の札を持ち上げた。
次々に白い息が吐かれる。
りん。
りりん。
同じ形の札なのに、鳴る音は微妙に違っていた。
高いもの。
低いもの。
一度だけ鳴るもの。
短く二度響くもの。
それを聞きながら、エリスはユリウスの横顔を見た。
自分の制度を持ち込む前に、相手の作法へ従う。
言葉にすれば当たり前のことかもしれない。
けれど、中央記録院でも指折りの記録官が、何の抵抗もなくそれを実践してみせると重みが違った。
やっぱり、すごい人だ。
そう思った直後、少し離れた場所にいたルオが妙な顔をしていることに気づいた。
「ルオ?」
返事はない。
彼はユリウスではなく、その周囲を見ていた。
霧が流れている。
門に張られた紐が揺れ、小さな羽根や風鈴があちこちで向きを変える。フェル=シェリカへ近づいてからずっと、風は一つの方向に落ち着いたことがない。
なのに。
ユリウスの外套の裾だけが、同じ方向へ静かに流れていた。
近くの霧もそうだった。
左右から風が交差しているはずなのに、彼の身体のまわりへ来ると、細い流れになって真っ直ぐ抜けていく。
ルオの目がわずかに細くなる。
「……真っ直ぐすぎる」
「何がです?」
エリスが聞くと、ルオは一度だけこちらを見た。
「風」
「風?」
「いや」
「いや、って何ですか。今、自分で――」
「お前の番だぞ」
「誤魔化しましたね?」
サリカが手にした札を差し出したまま、楽しそうに二人を見ていた。
「仲がよろしいのですね」
「違います」
「そうでもない」
「どっちですか!」
ルオは答えず、自分の札へ息を吹きかけた。
鈴が軽く鳴る。
彼にとっては珍しくもないらしく、そのまま紐を手首へ巻いてしまった。
エリスも諦め、自分の札を持ち上げる。
何も書かれていない骨片。
少し前までなら、この白さだけで落ち着かなかったはずだ。
いまも気にはなる。
ただ、白いからといって、すぐ埋めなければならないとは思わなくなっていた。
エリスは小さく息を吹きかける。
吐息が骨片へ触れた。
鈴が鳴る。
一度。
少し間を置いて、もう一度。
サリカの表情がわずかに変わった。
「……?」
エリスが札を下ろすと、サリカは彼女ではなく、まだ揺れている小さな鈴を見ていた。
「何か変でしたか?」
「いいえ」
否定しながらも、すぐには目を離さない。
やがてサリカはエリスの顔へ視線を戻した。
「あなたの名は、よく磨かれていますね」
「磨く?」
聞き慣れない言い方だった。
サリカは少し考え、南の人間にも分かる言葉を選ぶように続けた。
「大事に記録されてきた名前です」
その言葉に、胸の内側がわずかに温かくなった。
エリス=ヴェルナ。
台帳にあり、証明され、何度も正確に書き写されてきた名前。
それを褒められたように感じた。
「そう、なんですか」
「はい。何度も丁寧に扱われた名前には、そういう響きがあります」
サリカはそこで言葉を切った。
鈴へ一度、指先を触れる。
「……奥に、まだ乾いていない頁もありますが」
温かくなったばかりの胸が、今度は妙なところで引っかかった。
「何ですか、それ」
「私にも分かりません」
あっさり返された。
「分からないんですか?」
「分からないものを、分かるとは申しません」
穏やかなまま、サリカは笑う。
エリスは続きを待ったが、本当にそれ以上はないらしい。
気になる。
ものすごく気になる。
台帳なら、該当箇所を探しているところだ。
けれど相手が「分からない」と言っているものを、問い詰めたところで記録が増えるわけではない。
「……そうですか」
不本意ながら引き下がると、ルオが横から小声で言った。
「進歩したな」
「何がです?」
「前なら三回は聞いてた」
「二回しか聞いてません」
「数えてるじゃないですか」
マティスに指摘され、エリスは黙った。
サリカが小さく笑った。
入市の手続きが終わる頃には、中央記録院の者たちも風鈴札をそれぞれ外套や鞄へ結び終えていた。文字のない札が並ぶ光景は、エリスにはまだ落ち着かない。
それでも先ほどまでよりは、少しだけ理解できる気がした。
サリカはエリスの手首に下がった札を見たあと、何気ない調子で口を開く。
「白霧陸峡で、道標守の名を記さなかったそうですね」
エリスの指が止まった。
「……聞いているんですか」
「ハーヴェン=ロウから知らせが届きました。全員が帰還したことも」
サリカの声には、褒めるような響きも、試すような響きもなかった。
「はい」
エリスは自分の白紙台帳へ触れた。
「あの人の名前は、書きませんでした」
「そうですか」
サリカは静かに頷く。
「北でも、簡単にできることではありません」
エリスは少し意外に思った。
「北なら普通なんじゃ?」
白霧陸峡では、ルオが何度も言っていた。
書くな。
名を固定するな。
風へ返せ。
だからシェリグラートの人々にとっては、名前を書かないことなど日常の延長なのだと思っていた。
サリカは首を横へ振った。
「書かないことと、責任を取らないことは別です」
柔らかな声だった。
けれど、その一言だけは風に流されなかった。
「書かなければ、後から確かめられないことがあります。誰かが嘘をつくかもしれない。都合よく忘れるかもしれない。亡くなった人の言葉を、生きている人が勝手に変えてしまうこともあります」
サリカはエリスの台帳へ目を落とす。
「それでも書かないと決めるなら、書かなかった者が、その余白に責任を持たなければなりません」
エリスは、白い頁を思い出した。
何も書かなかったから、何もなかったことになったわけではない。
書かなかった。
自分がそう決めた。
それ自体が、もう消せない記録だった。
「……はい」
今度の返事は、さっきより自然に出た。
サリカが微笑む。
「なら、きっと大丈夫です」
「何がです?」
「この街で、何もかも分からなくなっても」
「怖いことをさらっと言わないでください」
「最初から全部分かる方は、たいてい迷いますから」
その言葉に、ルオが頷いた。
「分かる」
「あなたは少し説明してください」
「今のは説明しただろ」
「一言だけでしょう!」
言い返した、その時だった。
門の内側から足音が近づいてきた。
霧を割るように、一人の若い使いが走ってくる。肩で息をしながらサリカの前で止まり、膝へ手をついた。
「サリカ様」
サリカの表情が変わる。
「どうしました?」
使いは一度大きく息を吸った。
「また、西風路へ荷が届きません」




