序節 ― 霧都へ
ハーヴェン=ロウを発ったのは、朝霧がまだ屋根の高さに残っている頃だった。
白霧陸峡で何度も隊列を崩しかけた経験が効いたのか、北へ向かう一行の足取りは驚くほど整っている。先頭を進むのはユリウス=レグナートと中央記録院の隊で、その少し後ろをエリスとマティスが歩き、ルオは道から外れそうで外れない位置を気ままについてくる。雪は浅かったが、踏み固められた街道の両脇には薄い霜が降り、朝日を受けるたび白い粒が瞬いた。
エリスは外套の襟を直しながら、前を歩く黒い長衣へ視線を向けた。
ユリウスは中央記録院の者と短く言葉を交わし、ときおり周囲の地形を確かめている。左腕には、薄い金属装丁の《正典盤》。歩きながら記録を取っているわけではないのに、あれを身につけているだけで、いかにも彼らしく見えた。
――それでも書かなかった。
昨日、彼にそう言われた声が、まだ耳の奥に残っている。
道標守の名を記さなかったこと。失われるかもしれないものを前にして、記録官を目指してきた自分が、白い頁をそのまま残したこと。
あれが本当に正しかったのか、エリスにはまだ分からない。
けれどユリウスは、迷いなく言った。
その判断を尊重する、と。
長年読んできた《外地記録における存在保証と記名責任》の著者本人に、自分の記録を認められた。その事実を思い返すたび、胸の内側が妙に落ち着かなくなる。
「さっきからまた見てるぞ」
すぐ横から声が飛んできて、エリスは反射的に前を向いた。
「何をです?」
「本の人」
ルオは前を見たままだった。肩に掛けた荷物を持ち直し、まるで雪の具合でも話しているような口調で言う。
「見てません」
「見てた」
「見てません」
「今回は四回です」
反対側から加わった声に、エリスは勢いよく振り向いた。マティスは黒革の二重帳から目を上げ、いつもの整った顔でこちらを見ている。
「数えないでください!」
「数えようとしていたわけではありません。視界に入っただけです」
「それを数えていたと言うんです!」
「事実確認です」
「いらない事実確認もあります!」
ルオの口元がわずかに上がった。
「記録官がそれ言うのか」
「今だけです!」
言い返したところで、前方を歩いていたユリウスが肩越しにこちらを振り返った。
目が合う。
エリスの身体が硬直した。
どう考えても聞こえている距離だった。
ユリウスは何も言わなかった。ただ、淡い灰金の目を少し細め、口元にほんのわずかな笑みを残して前へ向き直る。
「……聞こえてたじゃないですか」
「だろうな」
「どうして止めてくれなかったんです?」
「何を」
「この会話をです!」
「俺が始めたから」
「分かってるならなおさらですよ!」
昨日までなら、もう少し腹が立っていたかもしれない。
けれど今は、不思議と調子が狂うだけだった。
白霧の中で初めて会った頃のルオなら、必要なこと以外は答えず、エリスが何かを書こうとするたび露骨に嫌そうな顔をしていた。いまも説明不足なのは変わらないし、何かにつけて南の記録官をからかう癖も直っていない。
それでも、隣を歩いていることにはもう違和感がなかった。
街道はゆるやかに高度を上げていた。
ハーヴェン=ロウを離れてしばらくすると、交易用の橇や荷車とすれ違う数が増えた。毛皮を積んだ巨獣車、香木を束ねた荷車、雪鳥の羽飾りを揺らす巡礼者。南へ向かう者もいれば、エリスたちと同じように北へ進む者もいる。
辺境へ向かっている、という感覚がだんだん薄れていく。
むしろ人の流れは増えていた。
「もう近い」
ルオが言った。
「見えるんですか?」
「聞こえる」
そう答えられて、エリスは眉を寄せた。
また始まった、と思った直後だった。
風の向こうから、細い音が届いた。
りん、と一つ。
少し遅れて、別の高さの音が重なる。
さらに奥から三つ、四つ。硬質なもの、柔らかなもの、氷を指先で弾いたような澄んだ音。進むにつれて数は増え、やがてどこから鳴っているのか区別できないほどの響きになった。
「……風鈴?」
「だいたい」
「だいたいって何ですか」
「骨笛も混じってる」
言われて耳を澄ませる。確かに、鈴とは違う低い音が、ときおり霧の向こうで鳴っていた。
街道が最後の坂を越えた。
視界が開く。
エリスは足を止めた。
「……え」
巨大な盆地が、眼下いっぱいに広がっていた。
白い霧が底を覆っている。けれど、何も見えないわけではない。霧の下から何層もの屋根が浮かび、塔の先端が突き出し、斜面に沿って家々がどこまでも連なっていた。遠くには白い柱のようなものまで見える。そのさらに奥はまた霧へ沈み、都市がどこまで続いているのか、目では追いきれない。
そして霧の中には、無数の光が浮かんでいた。
青白い灯。
ひとつが消えると、別の場所で二つ点く。通りに沿って並んでいるようでもあり、人の移動に合わせて漂っているようにも見える。
そこへ風鈴と骨笛の音が重なり、見えない街路の形を耳へ伝えてくる。
「これが……フェル=シェリカ?」
エリスは自分の声が少し上ずったのを自覚した。
「外ではな」
ルオの返事は簡単だった。
「外では、って。また別の名前があるんですか?」
「ある」
「いくつ?」
「知らない」
「どうして地元の人が知らないんです?」
「数えないから」
エリスは言い返そうとして、やめた。
盆地を見下ろす。
北方の大都市、と資料には書かれていた。
もちろん読んでいた。人口規模も、おおよその交易量も、南シェリグラートの玄関口であることも知識としては知っていた。
それでも彼女が無意識に想像していたのは、ハーヴェン=ロウをそのまま大きくしたような街だった。寒さに耐える厚い石壁があり、巨大な城門があり、遠くからでも読める都市名の標板が掲げられている。そういう、地図へ落とし込める都市だと思っていた。
フェル=シェリカは、まるで違った。
「町が、鳴ってる……」
思わず零れた言葉に、ルオがこちらを見た。
否定はしなかった。
坂を下りるにつれ、霧は少しずつ濃くなっていった。
それでも道を見失うことはない。街道沿いには一定間隔で青い霧灯が置かれ、風が吹くたび灯の中の光が細く傾く。その先に次の灯が見え、さらに向こうで風鈴が鳴る。
門前に近づく頃には、人家も増えていた。
最初にエリスが気づいたのは、文字の少なさだった。
一軒目の店先には、赤い羽布が三枚吊るされていた。文字はない。
向かいの建物には二つの風鈴。こちらにも看板はない。その隣からは甘い香木の匂いが漂い、さらに先の軒には細長い骨笛が五本並んでいる。
人は普通に出入りしている。
迷っている様子もない。
エリスは歩きながら首を巡らせた。
「……店名は?」
「あるんじゃないか」
「どこにです?」
「知らない」
「あなた、ここに来たことありますよね?」
「ある」
「じゃあ、あの店は何のお店です?」
ルオは赤い羽布の店を見る。
「旅具」
「どうして分かるんです?」
「赤羽が出てる」
エリスは赤い羽布を見た。特別な文字も紋章もない。ただ風に揺れているだけだ。
「では、あちらは?」
「鈴直し」
「二つの風鈴で?」
「音で」
「……あの青い灯は?」
「泊まれる」
「香木は?」
「薬か香油。風向きで違う」
エリスは黙った。
理解できないというより、理解のための項目が多すぎた。
色。
音。
匂い。
灯り。
風向き。
ひとつの店を示すのに、なぜそれほど多くの情報を使うのか。
エリスは腰の白紙台帳へ手を伸ばしかけ、指を止めた。
書いてはいけないからではない。
何をどう書けばいいのか分からなかった。
赤い羽布、と記すことはできる。
二連風鈴、と記すこともできる。
青い霧灯、香木、骨笛。それぞれは記録できる。
けれど、それが住所なのか、店名なのか、職種なのか、単なる目印なのかが分からない。
「……どうやって住所を管理してるんですか、この街」
「着けばいいだろ」
「着くために住所が必要なんです!」
「今、着いてる」
「そういう話ではありません!」
ルオは少し考えたあと、霧の向こうを顎で示した。
「なら、中で聞け」
「誰にです?」
「街のことは、街の風を読むやつに聞いた方が早い」
珍しく筋の通った答えだった。
エリスが驚いていると、ルオは眉を寄せる。
「何だ」
「いえ。ちゃんと説明できるんだな、と」
「帰るぞ」
「すみません! 今のは私が悪かったです!」
マティスが小さく息を吐いた。笑ったのかと思ったが、顔を見るといつも通りだった。
やがて霧の中から、都市への入口が現れた。
巨大な城壁に穿たれた門ではなかった。
白い石柱が左右に立ち、その間に細い紐が何本も渡されている。紐には小さな風鈴と羽根が結ばれ、通り抜ける風に合わせて別々の音を返していた。門の向こうでは青白い霧灯が列を作り、人々がその間を途切れることなく行き交っている。
石柱の手前に、一人の女性が立っていた。
白銀の髪が、肩から胸元へ静かに流れている。
手には細身の杖。杖頭からいくつもの小さな風鈴が下がっているのに、不思議と騒がしくない。腰の近くには青白い霧灯が浮かぶように吊られ、その光が霧の中で彼女の輪郭だけを柔らかく浮かび上がらせていた。
女性はユリウスたちの姿を認めると、軽く頭を下げた。
「お待ちしておりました。中央記録院の皆様ですね」
「ユリウス=レグナートです。受け入れに感謝します」
ユリウスが名乗る。
女性は穏やかに微笑んだ。
次にエリスたちへ視線を移す。その目は一人ずつを確かめているようでいて、顔ではなく、もっと別の何かを見ているようにも感じられた。
エリスは反射的に背筋を伸ばした。
「私は――」
名乗ろうとしたところで、女性がわずかに手を上げた。
止めるというより、急がなくていいと伝えるような仕草だった。
風鈴杖が、かすかに鳴る。
「外から来られた方々には、サリカ=ヴェリダと呼ばれています」
エリスは一瞬、返事を忘れた。
名前を名乗ったはずなのに、まるで名前ではないものを差し出された気がした。
隣を見ると、ルオは特に驚いていない。
マティスは何かを尋ねたそうな顔をしていたが、まだ帳面には手を伸ばしていなかった。
サリカはそんな一行を見渡し、都市の内側へ身体を向けた。
「まずは、この街へ入っていただきます。こちらの作法は、そのあとで」
その瞬間だった。
霧の奥では、大小いくつもの風鈴が絶えず鳴っている。
高い音。
低い音。
骨笛の乾いた響き。
街全体が呼吸するように、重なり、離れ、また重なる。
その中のひとつが、不意に止まった。
風は吹いていた。
周囲の鈴は、変わらず鳴っている。
それなのに、都市の奥のどこかで、一つの音だけがきれいに途切れていた。
サリカの微笑みが消えた。
青白い霧灯が、わずかに揺れる。
彼女は何も言わず、音の消えた方角を見つめた。




