第三節 ― ひとつの場所、いくつもの名
「全部、と言っても」
サリカは、テオが指折り数えた六つの呼び名を一度頭の中で確かめるように目を伏せた。
「一度に叫べばいい、という意味ではありませんよ」
「やろうとしてません」
先回りして答えると、サリカが微笑んだ。
「そうですか?」
「どうして少し疑うんです?」
「さっきの顔が、書き取った順番に全部読み上げそうだったからじゃないか」
ルオまで口を挟む。
「しません!」
エリスは白紙台帳を閉じた。実際、半分くらいは考えていたので、それ以上追及される前に配達員の薬箱へ視線を移す。
急がなければならない。
フィエラの薬は、都市文化を理解するための教材ではない。届かなければ困る人がいる。
「最初は《二鈴の家》ですね」
「うん。あっち」
テオが先頭に立った。
少年が向かったのは、先ほど《第七街区・西風路十三番》を目指した路地とは違う道だった。
霧灯柱の脇を抜け、焼き穀物の露店を回り込む。細い道を二つ越えると、軒先に大小二つの風鈴を吊るした建物が見えた。
風が吹く。
高い音のあとから、少し低い音が追いかける。
りん。
――りぃん。
「あれを辿る」
テオが言った。
「家そのものではないんですね?」
「違うよ」
エリスはもう一度、二つの鈴を見る。
フィエラの家を《二鈴の家》と呼ぶのに、目の前の二鈴は別の建物に下がっている。
ますます分からない。
サリカは説明せず、テオについて進んだ。
一つ目の二鈴を越える。
次の角にも二つ。
今度は銀色と骨製の小さな風鈴だった。
さらに先にも二つ。
形も音も違う。それでも、必ず二つ並んでいる。
「目印の列……?」
エリスは歩きながら呟いた。
マティスが地図と周囲を見比べる。
「行政地図上では、この道は西風路十三番へ直接接続していません」
「でも近づいてはいますよね」
「距離だけなら」
地図の上では、確かにフィエラ宅の裏手へ回り込んでいる。
順調に見えた。
四つ目の二鈴が鳴るまでは。
「次は?」
エリスが訊いた。
テオが足を止める。
「……あれ?」
正面には石壁があった。
古びた壁ではない。二階建ての家と家の間を埋めるように、灰白色の石が隙間なく積まれている。
道はそこで完全に終わっていた。
「行き止まりですね」
マティスが淡々と確認する。
「昨日は通れたのに」
テオが壁を見上げた。
「ここ、道だよ」
「壁ですが」
「今日は壁みたい」
「そんな天気の話みたいに……」
エリスは壁に近づいた。
触れてみる。
冷たい。
硬い。
幻でも霧でもない。
左右を見ても抜け道はなかった。
ルオが二つ目の風鈴の方向へ振り返り、それから壁の上へ目を向ける。
「音は続いてる」
耳を澄ます。
確かに、壁の向こうで小さな二連音がした。
近い。
けれど行けない。
「《二鈴の家》では、ここまでということですか」
エリスが言うと、サリカは壁を見たまま頷いた。
「今は、そうみたいですね」
「今は……」
白霧陸峡でも、似た言葉を何度も聞いた。
今の道。
今の名前。
今だけ成立している行き方。
だが、ここは人の住む大都市だ。
毎日の薬配達までそんな調子で大丈夫なのだろうか。
「じゃあ次」
テオがもう気持ちを切り替えていた。
「《白い煙突》」
少年は後ろへ戻りながら、霧の上を見回す。
「煙突を探すんですか?」
「白いやつ」
「名前のままですね」
「名前なんだからそうでしょ」
また当然のように言われた。
エリスは反論を諦めた。
建物の屋根は霧に半分沈んでいた。
いくつもの煙突から白や灰色の煙が上がり、風に押されて流れている。冬の街で白い煙突など珍しくないように思えたが、テオは迷わず一方向を指した。
「あれ」
少し離れた屋根の上。
煙が白いのではない。
煙突そのものが、雪よりわずかに青みを帯びた白だった。
「あれを見失わないで」
サリカが言う。
「見ながら歩くんですか?」
「ええ」
今度はテオだけでなく、サリカ自身が先を歩いた。
白い煙突は、路地へ入るたび屋根の陰に隠れた。完全に見えなくなる直前、サリカは少し戻ったり、反対側の道を選んだりする。
地図の最短距離とはまるで違う。
建物の正面ではなく裏へ回り、階段を避け、一度南へ下がってから北へ戻る。
それでも白い煙突は、少しずつ大きくなっていった。
「近づいてます」
エリスが言う。
「地図上では遠回りしていますが」
マティスの声には納得しきれないものが混じっていた。
「でも、さっきより家に近い」
配達員が薬箱を抱えたまま言った。
彼にはこの辺りの土地勘があるのだろう。地図ではなく、周囲の建物を見て確信しているらしい。
やがて白い煙突の根元が見えた。
屋根。
その下に、淡い青の窓枠。
「あれじゃないですか?」
エリスが指差す。
「まだ」
テオが即座に否定した。
「まだ?」
「こっちからは行けない」
彼らの正面には浅い水路があった。
幅は数歩ほど。
橋は少し先に見える。
エリスがそちらへ向こうとすると、ルオに肩を掴まれた。
「そっちは違う」
「またですか?」
「風が戻ってくる」
見れば、橋の向こうに青白い霧灯が一つある。
その灯りは、先ほど出発した広場で見たものとよく似ていた。
嫌な予感がした。
「渡ったら、また戻ります?」
「多分」
「……家は見えてるのに」
手を伸ばして届くほどではない。
それでも、もう建物はすぐそこにある。
白い煙突も見える。
青い窓も見える。
なのに道だけが繋がらない。
「次は?」
エリスはテオへ訊いた。
「《西風ばあさん》」
テオはそう言うと、なぜかその場でくるりと身体の向きを変えた。
水路でも家でもない。
西を向いた。
「……何をしてるんです?」
「西風ばあさんの家に行く」
「それは分かっています」
「じゃあ西向かないと」
「そういうものなんですか?」
「そういう名前だし」
エリスはしばらく少年を見てから、サリカを見る。
「本当に?」
「やってみましょう」
止めないらしい。
全員で西を向く。
風が正面から来た。
冷たい空気が頬を撫で、エリスの髪を後ろへ流す。
風鈴の音が変わった。
さっきまでは左右から無数に聞こえていた音のうち、いくつかが遠ざかる。
代わりに、正面から低い骨笛が一度鳴った。
ルオが顔を上げた。
「来た」
「何がです?」
「西風」
「それは今、私にも分かります」
「じゃあ歩け」
「説明を――」
「エリスさん」
サリカが優しく割り込む。
「今は歩いた方がいいですよ」
「……はい」
エリスは口を閉じた。
西から来る風を正面に受けたまま進む。
狭い道へ入った。
一度だけ風が左頬へ流れたので、サリカも左へ曲がる。
そこは、つい先ほど通ったはずの建物の裏手だった。
エリスは足を止める。
「あれ?」
壁と壁の間に、細い石段があった。
上へ向かって七、八段。
人ひとりが通れる程度の幅しかない。
「ここ……」
見た。
さっき、白い煙突を探しながら確かに通った場所だ。
その時には階段などなかった。
建物の壁が続いていただけだった。
「なかったですよね?」
「ありませんでした」
マティスが即答した。
記録官二人の記憶が一致する。
「俺も見てる」
配達員も言った。
「壁でした」
テオだけは何でもないように階段へ足をかける。
「でも今あるよ」
また、その言葉だった。
今。
エリスは階段の一段目へ足を載せた。
石は固い。
靴底にきちんと感触が返ってくる。
上る。
風が背中を押した。
階段を上りきると、小さな路地へ出た。
その先に、白い煙突があった。
今度は水路を挟んでいない。
青い窓も近い。
そして窓枠の端に、木彫りの小さな冬鳥が一羽とまっていた。
「《冬鳥の窓》」
エリスが呟く。
「そう」
テオが答える。
さらに玄関脇には、二つの古い風鈴。
最初に追っていたものと同じように、片方が高く、もう片方が低い音を返している。
《二鈴の家》。
白い煙突。
冬鳥の窓。
風を背にした先にある、西風ばあさんの家。
同じ家だった。
エリスはその場に立ち止まった。
頭の中で、六つの名前を並べる。
《第七街区・西風路十三番》。
それは地図の上で、この建物を示す。
間違ってはいない。
けれど、《二鈴の家》は音を頼りにここへ近づくための名前だった。
《白い煙突》は霧の向こうから家を見つけるための名前。
《冬鳥の窓》は、この家を知る誰かが窓辺の目印から見つける名前。
《西風ばあさんの家》は――。
エリスは振り返った。
階段の下から風が上がってくる。
「名前が、場所を指してるだけじゃない……」
声に出した途端、考えが少しずつ形になった。
「《二鈴の家》って呼ぶ人は、鈴の音からここへ来る。《白い煙突》を知っている人は、霧の中で煙突を探す。《西風ばあさん》を知ってる人は……西風を使う」
サリカが黙って聞いている。
「同じ場所なのに、名前ごとに――」
適切な言葉を探す。
「その場所との関係が違う?」
サリカが、ようやく頷いた。
「ええ」
答えはそれだけだった。
だからこそ、エリスにはすんなり入った。
場所に最初から一つの正しい名があり、それを皆が別の呼び方に言い換えているのではない。
人がどうその場所を知ったか。
何を目印にしたか。
誰との関わりで覚えたか。
音。
風。
景色。
暮らし。
それぞれの関係に、それぞれの名前がついている。
だから関係が違えば、辿る道まで違う。
「……地名なのに」
「地名だからだろ」
隣からルオの声がした。
エリスが振り向く。
彼は少しだけ得意そうだった。
「やっと俺の言ってることに近くなったな」
「サリカさんの説明の方が分かりやすいです」
「……」
ルオの顔から得意げな色が消えた。
サリカが困ったように笑う。
「私はほとんど説明していませんけれど」
「それでもです」
「俺も同じくらい説明した」
「ルオは『風を聞け』しか言わないでしょう」
「合ってる」
「合っていても伝わらなければ説明じゃありません」
ルオが何か言い返そうとしたが、やめた。
少し離れたところで、マティスが小さく頷いている。
「今回はヴェルナ候補生に同意します」
「増えた」
ルオが低く呟いた。
「何がです?」
「敵」
「誰も敵になってません」
ようやく配達員が笑った。
すぐに薬箱を抱え直す。
「すみません。薬を」
「そうでした!」
エリスは完全に本来の目的を忘れかけていた自分を恥じた。
テオが玄関へ走り、二つの風鈴の下をくぐる。
「ばあさーん!」
「テオ、病人の家で大声を出さないでください!」
「まだ生きてるよ!」
「そういう意味でもありません!」
家の中から、何かが落ちる音がした。
「誰が勝手に殺してるんだい!」
しっかりした声だった。
エリスたちが顔を見合わせる。
配達員が安堵したように大きく息を吐いた。
玄関を開けると、暖かな空気と薬草の匂いが流れ出した。
奥の寝台に、小柄な老女が半身を起こしている。
顔は熱で赤い。
それでも目つきは妙に元気だった。
配達員を見るなり、眉を上げる。
「ずいぶん遅かったね」
「すみません!」
男はほとんど駆け寄るように薬箱を開いた。
「道が、その……どうしてもこちらへ繋がらなくて」
「またかい?」
フィエラは驚きもしなかった。
「はい。またです」
「面倒だねえ」
それだけだった。
配達員がこの家へ着くために同じ広場へ六度戻り、中央記録院の記録官まで巻き込んで街中を歩き回ったことなど知りもしないらしい。
テオが寝台の横から言う。
「今日は二鈴から途中まで来て、白い煙突から回って、西風で階段出した」
「そうかい」
「もっと驚いてくださいよ……」
エリスが思わず言うと、フィエラは彼女を見た。
「家に帰るのに道が一本しかない方が、私は驚くよ」
返す言葉がなかった。
ルオがまた笑っている。
今度は無視することにした。
薬を確認し、配達員がフィエラへ飲み方を説明する間、エリスは窓辺へ寄った。
外では霧が薄く流れ、木彫りの冬鳥が窓枠に揺れている。
ここから見れば、さきほど行き止まりになった石壁も、水路も見えない。
どこにでもある一軒の家だった。
それでも、この場所へ至る道は一つではない。
エリスは白紙台帳へ手を伸ばした。
少し考えてから、《第七街区・西風路十三番》だけを書くのをやめた。
代わりに、確認できた六つの呼称を同じ大きさで並べる。
どれが正式で、どれが俗称か。
まだ、その分類は置かなかった。
薬を届け終えると、フィエラは「今度は迷わず来な」と配達員へ無茶な注文をし、テオには棚から焼き菓子を一つ持っていけと言った。
エリスたちは家を出た。
帰りは、驚くほど簡単だった。
玄関を出て風鈴を二つ越えたところで、見覚えのある広場へ続く路地が自然に現れた。
「……行きと帰りで違うんですね」
「帰る関係と、訪ねる関係は同じとは限りませんから」
サリカが答える。
エリスはまた台帳へ書きかけたが、今回は一度立ち止まった。
「それ、今の説明だけで規則にしない方がいい」
ルオが言う。
「分かってます」
「本当に?」
「少しは学習しています!」
「少しか」
「そこ拾わないでください」
先を歩いていたルオが、不意に止まった。
エリスは危うく背中へぶつかりそうになる。
「どうしたんです?」
返事はない。
ルオは路地の角に立つ細い支柱を見ていた。
そこには、周囲の骨札や羽布とは明らかに違うものが取りつけられている。
銀灰色の金属板。
真っ直ぐな縁。
整然と刻まれた文字。
《第七街区・西風路十三番》。
フィエラ宅へ割り当てられた正式住所だった。
金属はまだ新しい。
雪にも風にもほとんど晒されていないように、表面が鈍く光っている。
ルオが目を細めた。
「これ、前からあったか?」




