8.約束の部屋は、そのままに
翌日、梨奈さんから職場へ一本の電話が入った。
受話器の向こうから聞こえてきた声は、数日前までの沈んだものとは少し違っていた。
「もしもし、梨奈さんですか」
「はい」
私は思わず笑みを浮かべた。
「十六日に、お父様が退院されるそうですね。おめでとうございます」
受話器の向こうで、ほっと息をつく気配が伝わってきた。
「ありがとうございます。本当に今回は、いろいろとご心配をおかけしてしまって…すみませんでした」
その声には、安堵と申し訳なさが入り混じっていた。
私は静かに首を横に振る。
「謝る必要なんてありませんよ」
少し間を置いてから、私は以前から考えていたことを口にした。
「十六日ですが……もしよろしければ、ご家族皆さまで当ホテルにお泊まりになりませんか。確か、ご両親の結婚二十周年のお祝いでしたよね」
受話器の向こうが静かになった。
やがて、小さく遠慮がちな声が返ってくる。
「でも……私たちの都合でキャンセルしてしまいましたし……」
その言葉に、私は思わず微笑んだ。
「実は、まだキャンセルにはしていないんです」
「えっ……?」
驚いた声が受話器越しに響く。
「私は、お父様がきっと元気になって退院されると信じていました。ですから、お部屋はそのままお取りしてあります」
少し言葉を続ける。
「それに病院からホテルまでは、お車で十五分ほどです。退院されたばかりのお父様も、ご自宅まで帰られるより負担が少ないと思います」
そして、優しく付け加えた。
「もちろん、ご両親とご相談いただいてからで構いません。お返事は、そのあとで結構ですよ」
その瞬間だった。
「……ありがとうございます」
梨奈さんの声が震えた。
「すぐに両親へ伝えます」
涙をこらえているのが、受話器越しにもはっきりと伝わってくる。
私は静かに「お待ちしております」とだけ答え、電話を切った。
受話器を置いたあとも、しばらくその余韻が胸に残っていた。
病気は家族から笑顔を奪うことがある。
けれど、人を思いやる気持ちは、その笑顔をもう一度取り戻す力になる。
私は、十六日にあのご家族を笑顔で迎えられることを、心から楽しみにしていた。




