6.受話器の向こうの沈黙
八月二日の夜だった。
私が夜勤に就いて間もなく、フロントの電話が静かに鳴った。
受話器を取ると、聞き覚えのある声が耳に届く。
「こんばんは、小池です」
梨奈だった。
私は、宿泊の確認か何かだろうと思いながら受話器を耳に当てた。
「先日は、本当にありがとうございました」
一度言葉を切ると、彼女は申し訳なさそうに続けた。
「……申し上げにくいのですが、せっかく予約を入れていただいたのですが、今回はキャンセルしていただけないでしょうか」
その声には、以前の明るさはなかった。
無理に平静を装っていることが、受話器越しにも伝わってきた。
「ご両親に、何か急なご都合でもできたのですか」
私は静かに尋ねた。
「いえ……」
短い返事のあと、電話の向こうに沈黙が流れる。
何かをこらえているような、重たい沈黙だった。
やがて梨奈は、小さな声で話し始めた。
「実は昨日、父が再入院してしまったんです」
その一言に、私は言葉を失った。
「以前から体の具合が悪くて……。いつ退院できるのかも、まだわからないんです」
私は一瞬、励ましの言葉を探した。
しかし、どんな慰めも今の彼女には軽く響いてしまう気がした。
「……わかりました」
私は静かに答えた。
「今回は残念ですが、ご予約はキャンセルということで承ります。どうか、お父様を大切になさってください」
「ありがとうございます」
その声は、どこか力なく、それでも感謝の気持ちだけはしっかりと伝わってきた。
電話が切れたあともしばらく、私は受話器を置くことができなかった。
あれほど楽しみにしていた家族旅行は、一夜にして現実の前に消えてしまった。
フロントにはいつもと変わらない時間が流れていた。
だが、私の胸には、受話器の向こうに流れたあの沈黙だけが、いつまでも残っていた。




