4. 規則より、大切なもの
彼女は安堵したように微笑んだ。
「ありがとうございます。本当なら、とても嬉しいのですが……」
その表情は、どこか晴れない。
「どうかされましたか?」
私が尋ねると、彼女は申し訳なさそうに視線を落とした。
「実は……こちらのホテルが、こんなに料金の高いホテルだとは思っていなかったんです」
少し間を置いて、彼女は静かに続けた。
「恥ずかしい話ですが、手持ちのお金が二万五千円ほどしかありません。今回は、他のホテルも満室のようですし、諦めます。次はちゃんとお金を貯めてから来ます」
そして、小さく頭を下げた。
「今まで、本当にいろいろ調べていただき、ありがとうございました」
そう言って彼女は再び帰ろうとした。
私は反射的に声を掛けた。
「お客様、お待ちください」
彼女が振り返る。
私は一呼吸置き、覚悟を決めた。
「確かに、パンフレットには一泊三万円からとご案内しています」
しかし、私は続けた。
「今回だけは特別です。お二人で二万五千円で結構です。もちろん、税金・サービス料も含めた金額ですので、ご安心ください」
本来なら、私一人で決められることではない。
上司への相談も、社内の承認も必要だった。
それでも私は迷わなかった。
今日は、お客様のご両親の結婚記念日なのだから。
彼女は信じられないという表情で私を見つめた。
やがて瞳を潤ませながら、
「……本当に、ありがとうございます」
そう言って深く頭を下げた。
その姿を見た瞬間、私はあることに気付いた。
――しまった。
私は、まだ彼女の名前すら聞いていなかった。
慌てて呼び止め、予約に必要な情報を確認する。
彼女の名前は、小池梨奈。
高校二年生だった。
その一言に、私は思わず息をのんだ。
高校生だったのか……。
予約名義は父親の小池 洋さん。
私はポケットから使い慣れたメモ帳を取り出し、震える手で名前と自宅の電話番号を書き留めた。
その時の私は、まだ知る由もなかった。
この一冊のメモ帳に記した名前が、私のホテル人生を大きく変える出来事の始まりになることを。




