13.約束の816号室
翌朝、時計の針が十時を少し回ったころ、梨奈と両親はチェックアウトのためフロントへ姿を見せた。
昨日までの賑やかな時間が嘘のように、ロビーには穏やかな朝の空気が流れている。
私は笑顔で三人を迎えた。
「おはようございます。昨日はごゆっくりお休みになられましたでしょうか」
すると梨奈の母は、やわらかな笑みを浮かべながら深く頭を下げた。
「おかげさまで、家族みんなでゆっくり休ませていただきました。それに、お花までご用意してくださって……本当にありがとうございました。忘れられない旅行になりました」
その言葉に、私も自然と笑みがこぼれる。
「こちらこそ、ご家族でご宿泊いただきありがとうございました。また来年も、ぜひ皆さまでお越しください」
そう言って私は、カウンターの下から一枚のカードキーを取り出した。
「それから、もしよろしければ……こちらを記念にお持ち帰りください」
差し出したのは、816号室のカードキーだった。
「お二人のご結婚記念日が八月十六日とうかがいましたので、この部屋をご用意させていただきました。旅の思い出として、お手元に残していただければ幸いです」
一瞬、三人の表情が止まる。
やがて梨奈の母は驚いたように目を見開き、小さく息をのんだ。
「そんなことまで考えてくださっていたなんて……。私たち、誰一人として気づいていませんでした」
その瞳には、うっすらと涙が浮かんでいた。
隣で父・洋も、しみじみとカードキーを見つめながら笑う。
「来年も、またみんなでこのホテルに来たいな」
その言葉に、梨奈は静かにうなずいた。
「……うん。また家族みんなで来ようね」
そう答えた声はいつもより少しだけ小さく、どこか震えているようにも聞こえた。
彼女はそっと視線を伏せる。
私はその横顔を見て、胸の奥で静かに息をのんだ。
きっと、お父さんには気づかれたくなかったのだろう。
瞳にはこぼれそうな涙が揺れ、それでも笑顔だけは崩さないよう、懸命にこらえている。
私は何も言わず、ただ三人を見送ることにした。
自動ドアが静かに開き、夏のやわらかな陽射しが家族を包み込む。
寄り添いながら歩いていく三人の後ろ姿を見送りながら、私は心の中でそっと願った。
――来年もまた、この笑顔に会えますように。




