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第九章 細川

 六月二日、夕。


 本能寺の火はまだ燻っていた。

 二条御所も落ちた。信忠も死んだ。

 織田の中心は、半日で消えた。

 京は戸を閉ざしている。何が起きたのか、町の者にはまだ分からない。分かっている者は、走っている。


 光秀は本能寺の焼け跡から離れ、宿所へ入った。

 やることは山ほどあった。

 京の押さえ。安土の接収。近江の諸城。朝廷への挨拶。諸将への通知。

 どれも急ぐ。

 だが、光秀が最初に命じたのは、それではなかった。


「細川へ使者を」

「丹後へ」

「藤孝へ、そして忠興殿へ」

「はっ」

「文を書く。待て」


---


 筆を執った。

 手は震えていなかった。

 書くべきことは決まっている。

 上様は本能寺で果てられた。信忠殿も二条にて。京はすでに押さえた。近江も明日には手に入る。

 そして。


『天下静謐のため』


 その言葉を書いて、少し手が止まった。

 昨夜、自分が自分に言い聞かせた言葉である。

 嘘ではない。

 少なくとも、光秀にとっては。


 書き上げ、封をし、使者に渡した。

 使者が出ていく足音を聞きながら、光秀は少しだけ息を吐いた。


 藤孝なら分かる。

 あの男は上様を知らぬ男ではない。天下の先が読めぬと、自分で言うていた。

 忠興もいる。玉がいる。

 家は繋がっている。

 昨夜まで、そう信じていた。

 いまは、信じるしかなかった。


 続けて、筒井順慶へ。高山右近へ。朝廷へ。

 夜のうちに、使者は次々と京を出た。


---


 その夜、報告が上がった。


「本能寺の跡、四度掘り返しましてございます」

「出たか」

「……いえ」


 光秀は黙った。


「小姓衆と思われるものは幾つか。ですが、上様と分かるものは」

「ないか」

「ございませぬ」


 光秀は目を閉じた。


「もうよい」

「はっ」

「探すな」


 言ってから、光秀は自分の判断が正しいのかどうか分からなくなった。

 探し続ければ、上様が見つからぬことが知れ渡る。

 やめれば、やはり知れ渡る。

 どちらにしても同じであった。

 三日と経たぬうちに、京にこういう噂が流れた。


 ――上様は落ち延びられた。


 誰が言い出したのでもない。

 遺骸が出ないなら、そう考える者が出る。それだけのことである。


 光秀は噂を打ち消そうとした。

 打ち消せば打ち消すほど、噂は形を持った。


---


 瀬田の橋は焼き落とされていた。

 守将が退く前に、自ら焼いたのである。架け直させるのに日数を食い、光秀が安土へ入った時、城は空であった。留守居は逃げ、蔵だけが残っていた。

 金銀を諸将へ配った。近江の城も次々と手に入った。

 軍事だけを見れば、順調である。


 六月七日、朝廷から勅使が下った。京の治安を守るようにとの旨である。

 悪くない。


 だが、光秀が待っているものは来なかった。


---


 高山右近からの返答が届いたのは、六月八日であった。

 光秀は使者を立たせたまま尋ねた。


「右近殿は」


 使者が頭を下げる。


「羽柴様の御意向を伺うてからと」


 光秀の顔が動いた。


「何」

「まずは様子を、と」


 しばらく、光秀は何も言わなかった。

 右近。摂津。京に近い。キリシタン。


 ――味方になる。

 そう思っていた。

 誰かがそう言ったわけではない。


「下がれ」


 使者が去る。

 利三が光秀を見た。


「殿」

「まだ細川がいる」


 光秀が先に言った。


「細川が来れば、筒井も動く」


 利三は何も言わなかった。


---


 筒井順慶からの返答は、その翌日に届いた。

 曖昧であった。

 挙兵はせず、情勢を見るという。


 光秀は怒らなかった。

 順慶とはそういう男である。分かっていた。

 ならば、細川である。


---


 六月九日。


 光秀は京へ戻った。


 その日の夕方、丹後からの使者が着いた。

 馬の蹄が門を叩く音を聞いて、光秀は立ち上がった。


「来たか」


 自分でも分かるほど、声が早かった。

 使者が入ってくる。

 顔が暗い。

 光秀の胸の奥で、何かが冷えた。


「藤孝は」


 使者が頭を下げた。


「細川様は」


 言葉が長い。


 長すぎる。


「申せ」


 使者が息を吸った。


「御髪を落とされましてございます」


 光秀の顔が止まった。


「何」

「細川藤孝様、剃髪なされ、幽斎玄旨と号されました」


 光秀はしばらく、意味を理解できなかった。


「なぜだ」


 声が低い。


「上様の御死を悼み、政より退かれると」

「忠興殿は」


 光秀が遮った。


「忠興殿はどうした」


 使者が一度、目を伏せた。

 言いたくない。

 だが、言わなければならない。


「御味方には……なられませぬ」


 部屋から音が消えた。

 光秀は座ったまま動かない。

 利三も、秀満も、誰も声を掛けなかった。


 光秀は何かを待っていた。

 続きを。訂正を。誤報を。

 だが使者は黙っている。


---


「玉は」


 光秀が問うた。

 父親の声であった。


「玉はどうしている」


 使者の顔が、さらに強張った。


「忠興様の御命により、丹後の山中へ移されましてございます」


 光秀がゆっくり顔を上げる。


「なぜだ」


 答えを聞く前に、分かった。

 明智光秀の娘である。

 謀反人の娘である。

 細川家にとっては、置いておけば危うい。

 だから遠ざける。


 ――わたくしはもう、細川の者にございます。

 宮津の池の端で、娘が背筋を伸ばして言った。

 あの時、光秀はそれを、明智と細川が繋がった証だと受け取った。


 違った。

 あれは、そういう意味ではなかった。

 光秀は小さく笑った。

 乾いた笑いであった。


「そうか」


 それだけであった。


---


 使者が下がり、戸が閉じた。


 利三が口を開いた。


「殿」


 光秀は答えない。


「殿」

「聞こえている」


 声が静かであった。

 静かすぎた。


「細川が来ぬ」


 光秀が言った。


「なぜだ」


 利三への問いではなかった。


「藤孝は分かっていたはずだ」


 誰も答えない。


「上様がこの先どこまで行かれるか。我らが何を恐れていたか」


 利三の眉がわずかに動いた。


 我ら。


 光秀は自分で気づいていない。

 いつから、藤孝と自分が同じことを考えていたと思うようになったのか。


「殿」


 利三が慎重に言った。


「細川様は、そこまで申されておりましたので」

「何」

「上様を止めねばならぬと。明へ、海の向こうへ戦が広がる前に、と」


 光秀は利三を見た。

 口を開いた。

 言葉が出なかった。

 藤孝は何と言った。


 ――先が読めぬ。

 ――だからといって、勝手に先を決めるな。

 ――まだ起きていないことを、起きたことのように考えるな。


 光秀の顔から、少し血の気が引いた。

 止められていた。

 あの夜、藤孝は自分を止めようとしていた。

 それを自分は何に読み替えたのか。


 ――十兵衛なら大丈夫だ。

 ただの友の言葉である。


 ――何かあれば、細川を頼ってくだされ。

 婿の、家族への挨拶である。


 なぜそれが、謀反の時に兵を出すという話に変わったのか。


---


「……誰かが」


 小さな声であった。


「何でございます」


 利三が聞き返す。


 光秀はそこで言葉を止めた。

 誰かが、何を言った。

 細川は味方する、と。

 誰が言った。

 思い出そうとした。

 思い出せなかった。

 誰も言っていないからである。

 藤孝は言っていない。忠興も言っていない。利三も、秀満も。

 商人たちも、細川の話などほとんどしなかった。

 一度だけ、丹波をよく治めていると褒められた。

 もう一度、細川は明智を慕っていると聞いた。

 それだけである。

 慕う、とは兵を出すことではない。


「殿」


 利三が呼んだ。


「いや」


 光秀は首を振った。


「何でもない」


 誰にも騙されてはいない。

 そう考えるしかなかった。

 ならば、読み違えたのは自分である。


---


 その夜、光秀はもう一通、丹後へ文を書いた。

 今度は長かった。

 摂津一国を忠興に与える。

 但馬も、若狭も、望むならば与える。

 自分は天下を望んでいるのではない。

 十五郎と、与一郎。すなわち我が子と、そなたの子のためにしたことである。

 そう書いた。

 書きながら、光秀は自分が言い訳をしていることに気づいていた。

 気づきながら、書いた。

 そして最後に、こう記した。

 五十日、百日のうちに近国を固め、その後は十五郎と与一郎に譲り、自分は何も持たぬ。


 筆を置いた。

 これ以上、差し出せるものがない。

 国も、天下も、渡すと書いた。

 それでも来ぬなら、藤孝が欲しかったものは、初めから国でも天下でもなかったということになる。

 その先を、光秀は考えなかった。


---


 同じ夜。


 京の外れの宿で、柏屋宗慶が庄左衛門と向かい合っていた。


「やったな」


 宗慶の声は震えていた。


「何を」

「上様が死んだ」


 庄左衛門は黙っている。


「明智様が、本当にやった」

「聞いた」

「聞いた、だけか」


 宗慶が机を叩いた。


「何を言えばよい」

「お前たちが」

「違う」


 庄左衛門が初めて強く言った。


「違う」


 宗慶が止まる。


「我々は何も命じていない。信長を討てとも、細川が味方するとも、言っていない」

「だが、明智様がそう考えるように」


 庄左衛門は黙った。

 その沈黙が答えであった。


「細川は」


 宗慶が言う。


「動かなかった」


 庄左衛門の目が、初めてわずかに変わった。


「藤孝は剃髪した。忠興も拒んだ」


 庄左衛門は長く息を吐いた。


「……そうか」

「想定外か」

「……」

「お前たちは、細川は動くと思っていたのか」


 庄左衛門はしばらく答えなかった。


 やがて言った。


「思っていた」


 宗慶の顔が変わった。


「確かではない」


 庄左衛門は続けた。


「だが、明智殿と細川の繋がりは強い。親族であり、旧友であり、利も重なる。少なくとも敵には回るまいと」


 言葉を切った。


「そう、思った」


 宗慶が乾いた笑いを漏らした。


「お前も、明智様と同じだったんだな」


 庄左衛門は答えない。


「事実だけを見て、勝手に結論を出した」


 その言葉が刺さった。

 庄左衛門はそこで初めて気づいた。

 自分たちがしていたことと、光秀がしたことは、同じであった。

 事実を並べ、意味を与え、先を読んだ。

 そして、外した。


---


「これから、どうする」


 宗慶が問うた。


 庄左衛門は窓の外を見た。

 京の方角に、まだ薄い煙が残っている。


「何もしない」

「また、それか」

「違う」


 庄左衛門が遮った。

 声が低かった。


「今度は、本当に何もしない」


 宗慶が黙る。


「もう、我々の手を離れた」


---


 同じ頃。


 光秀は一人で、古い文を出していた。

 細川藤孝から来た書状である。何年分もある。

 和歌。京の噂。公家の動き。冗談。皮肉。

 几帳面な男で、日付も欠かさず入れてある。

 光秀は一通ずつ読んだ。

 何度も読んだ。

 探しているものは分かっていた。


 ――何かあれば、味方する。


 その一行を探していた。

 二刻ほどかけて、全部を読んだ。

 どこにもなかった。

 当然であった。

 書いてあるはずがない。

 光秀は文を揃え、紐で括り、机の端へ置いた。

 その隣に、丹後で贈られた短冊がある。

 亀山を出る時、持ってきていた。

 なぜ持ってきたのか、いまも分からない。

 光秀はそれを長く見ていた。

 やがて灯を消した。


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